親愛なる先生へ
昨日のお手紙では、ちょっとにわかには信じがたいような説のことを書いてしまったのですが。
じつをいうと、他にも同じようなこと言ってるひとがいた、ってことを思い出しました。
(「思い出しました」というのは、少し古いものだからなのです。)
それは、こちらのブログ記事。
欲しがっても今手元にないものは… | 秦由佳オフィシャルブログ「それでも世界にYESと言おう。」
この中で、とくにわたしが注目したのは、この部分です。
盲目に何かが欲しいと思う時は、
自分が「欲しい」と思うそのものはダミーだと思った方がいいんです。
例えばお金が欲しいなら、
本当は「お金」が欲しいのではなく、
お金に何かが見えているんです。
お金のその先、お金の持つ何か別のエネルギーを。
で、もし欲しいと思うものが手元にないのであれば、
それもウソです。
お金はなくても、
お金に見えている「本当に欲しいもの」は
必ず「今、ここ」にある、
と心に決めて、それを探してみてください。
さて、こういったものを読んで自分が考えたことなどについては、また次回以降に。
あなたの一番弟子(でありたい) elaineより
親愛なる先生へ
昨日のお手紙で「『錯覚を手放していく歩み』に早いとこ取り組んでいきたい」というふうに書いたとおり、もういい加減に、建設的な内容のお手紙にしていきたいです。
そこで思い出したのは。
以前、「愛情と境界越えとの区別」に関連する検索をしていたときに見つけた、このブログ記事。
ちょっと一部を引用してみます。
ずーっと欲しかったのに、手に入らなかったもの。
「それはあなたが与えに来たもの。」
ずーっと求めていたのに、全然手に入らないもの。
「それはあなたがすでに十分持っているもの。つまりそれがあなたの才能。」
ずーっと欲しかったのに手に入らないものは、「あなたが与えに来たもの」なのだ。 | 心理カウンセラー根本裕幸
なんか、日頃の実感とは正反対ですが、それでも、聞き捨てならないような朗報ですよね!?
ちょっと、こういう説について、吟味してみたいと思います。
ではでは。
あなたの一番弟子(でありたい) elaineより
親愛なる先生へ
このところのお手紙の内容に関連が深いと思われるツイートを、今日見つけたので、以下引用します。
貴方は無力ではない。でも無力と思って生きてきた。そしてそのことに気付いた。なぜ自分を無力と思ったのでしょう。親の言葉や態度?結婚後に受けたDV?そこで生き抜く為には無力だと思わなければならなかった。力を見せたらもっと生きづらかった。生きるための術が無力感で自分を封じることだった。
そして無力感を本当の深さで感じないよう麻痺させてきた。どうしようもないと諦めてきた。でも苦しかった。何か違和感があった。役割を果たす以外は意欲が湧かなかった。でも、本当は貴方は無力ではないのですよね。無力だという錯覚を背負ってきたのですよね。錯覚を手放していく歩みの始まりですね。
この、「無力だという錯覚を背負ってきた」という表現に、結構納得がいって、ホッとするようです。
で、そのあとに続く「錯覚を手放していく歩み」というくだり。こういうのこそ、早いとこ自分が取り組んでいきたいことがらなんですけどね。
それでは、今日はこのへんで。
あなたの一番弟子(でありたい) elaineより
昨日のお手紙の中で「『するのが難しい』なんてこと言ってられない、なんとしてでも出来るようにならないと! 」という心理に苦しめられていたことを書きました。