親愛なる先生へ

昨日のお手紙の中で、こう書いてましたよね。
「小さい子のことを、やたら悪く言っちゃってる感じですけど(現に自分、子どもなんて大嫌いだったものでしたっけ)、実際のところは、悪い面ばかりなんてことは、ないはずなんですよね。」と。

そこで、小さい子の良い面についてですけど。
すぐ思いつくのは、例えば無邪気なところ、とかですかね。
でもコレ、大人になった今だからこそ、美点としてとらえることができるんでしょうけど、自分だって子どもだった頃には、ただ迷惑なだけだったんじゃないかな。

しかもですね。コレ、考えるだに癪にさわるのですが、どうも親たちは妹たちに対してだけ、この“無邪気さ”を見いだしてかわいがってたんじゃないか、と思えてならないんですよ。

ということは。
妹たちは、至らないところがあったって、「“無邪気”でかわいい」んだから、何らお咎めなし。
でもこちらはというと、(あくまで比べてみたら、だけど)もう大きくなっちゃっててかわいげがないし、それだってのに到底信頼に足るような振る舞いなんてできてやしない。
つまり、良いところなんてなんにもない、って思われてたんじゃないかと……。
こんなふうじゃ、ひねくれないでいるほうがおかしいってもんですよね!? 

ではでは。

あなたの一番弟子(でありたい) elaine

親愛なる先生へ

昨日のお手紙に、「自分で自分の首をしめる」なんて、ちょっと物騒なことを書いてしまったのですが、まあ捉え方次第では、けっこう深刻な状態だったのかもしれないです。
なぜって、ハッキリいって、心から思っちゃってた、っていうふうだったのだから。

つまりですね。
もし、ただ単に「あれしなさい、これしなさい」(「あれしちゃダメ、これしちゃダメ」)って言われてただけだったのだとしたら、そんなに強い影響はなかったんだと思うんです。言いつけに従うにしても、形だけ・うわべだけ、って感じにとどめておける。
でも、わたしの場合はそうできなかった。もし言いつけに従わなかったら、どんなひどいことになるのか、というのを、身をもって思い知らされてたわけなのだもの。妹たちの、傍若無人なふるまいによって……。

なんか、こうしてみてみると、わたしってば、かつての妹たちを含む小さい子のことを、やたら悪く言っちゃってる感じですけど(現に自分、子どもなんて大嫌いだったものでしたっけ)、実際のところは、悪い面ばかりなんてことは、ないはずなんですよね。
でもまあ、この続きは、また次回以降ということにします。

あなたの一番弟子(でありたい) elaine

親愛なる先生へ

昨日のお手紙で、「自分の場合、ことはそう単純じゃないみたい」と書いていたのですが、どういうことなのか、説明しようと思います。

えっと、昨日のお手紙では、どうやら自分はすっかり「『気まぐれで当てにならないもの』だと思われて」て、基本的信頼とは無縁だったにちがいない、というようなことを書いたんですよね。
ただ、それだけでは、言いきれてない気がするんです。

そこで、ヒントになるのが、2019年5月23日のお手紙のこと。
あのなかでわたしは、かつて「妹たちからおもちゃを横取りされて困った。それと同じように、親もきっと、自分が言うことを聞かないと困るんじゃないか? と思えてしまうんだ」、という、「板挟み」構造について触れたんですね。

これを、現在話題にしていることがらに置き換えると、こんなふうになるんじゃないでしょうか。
「おもちゃを横取りするような困った妹たちなんて、『気まぐれで当てにならないもの』だから、『基本的信頼』なんてできっこない。そして自分にも、そういう『気まぐれで当てにならない』、『基本的信頼』に欠ける要素なんて、到底ゆるすわけにはいかない。」……みたいな。

つまり、なんていうか、「自分で自分の首をしめる」ような感じにになっていたのかなー、と、思ったりするのですよ。

さて、今回のところは、このへんで。

あなたの一番弟子(でありたい) elaine

親愛なる先生へ

昨日のお手紙では、「『基本的信頼』って詳しくは、どういうことなんでしょう? 」というような疑問を投げかけていたのですが、このままでは漠然としているので、取っ掛かりとして、とりあえず自分にとってはどうなのか、みてみることにします。

そうはいっても、ですね……。
考えれば考えるほど、どうも自分はこの「基本的信頼」をほとんどされてなかったんじゃ
ないか、と思えてならないんですよ。

例えば、まず思いつくのは、2019年1月11日のお手紙の「あれしなさい、これしなさい」っていうもの。(派生パターンとして「あれしちゃダメ、これしちゃダメ」ってのも含みますが。)
こういうのって、相手のことを信頼してないからこそ出てくるセリフ・態度じゃないですか!? 

思うに、2019年10月18日のお手紙よろしく、「気まぐれで当てにならないもの」だと思われてたんでしょうね……。
でも、自分自身のことを「気まぐれで当てにならない」なんて決めつけられて、嫌な気持ちにならないわけあるでしょうか? だってそんなの、「さげすみ」とか「はずかしめ」になっちゃうでしょ? 

もっとも、自分の場合、ことはそう単純じゃないみたいなんですがね。
でも、この続きは、また次回以降ということで。

あなたの一番弟子(でありたい) elaine

親愛なる先生へ


昨日のお手紙では、例によって、意味がよくわからないようなことを書いてしまった気がするんですが、元々はというと、「みんなと同じ」か「多様性」か、というような話をしていたんでしたっけね。


で、この「多様性」について、こんなふうに述べている記事を見つけました。

 

ダイバーシティ(diversity)という言葉があって「多様性」と訳しますが、僕は嫌いで、「何でもあり」と訳します。たとえば、他者一般への基本的信頼があれば、細かいことは気にせず「何でもあり」に耐えられる。基本的信頼こそダイバーシティへの鍵です。
 逆に言えば、「何でもあり」を邪魔するのは、細かいことを気にするヘタレ。そうしたヘタレはたいてい条件付き承認しか経験してきておらず、承認されたいがゆえの損得勘定で右往左往する作法を大人になっても継続しがちです。こうしたヘタレが多いと多様性フォビアが蔓延しがちで、社会はダイバーシティ=「何でもあり」から遠ざかります。

 

アドラー心理学が教える幸せに生きるための3つのヒントとは? | 嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え | ダイヤモンド・オンライン | ページ 2

 
……なるほど! 「基本的信頼」が「鍵」なんですねー! 
もっとも、それって詳しくは、どういうことなんでしょう? 
ちょっと考えてみようと思います。
 
あなたの一番弟子(でありたい) elaine