親愛なる先生へ


昨日の続きです。


昨日のお手紙で引用した部分で、わたしが印象を受けた箇所はというと、

好ましく美しいと感じることによって関わりを持つことが出来る

っていうところなんですよね。


なんか、「星」とか「季節の変わり目の空気の匂いのようなもの」とか、漠然としたものが列挙されてますけど、これって、要はなんでもいいってことだと思うんですよ。

となると、わたしがいつも先生に対して行っていることだって、大いにあてはまりますね!?


そうそう、昨日のお手紙での引用部分と同じようなことを、違った言い回しで表現している文もあるので、紹介します。

 

しんどいときは、充電できる人とつながろう。いなかったら、空をながめよう。星をながめよう。深呼吸しよう。

 

しんどいときは、連絡とらない方がいい人にはとらないこと。これは結構大切なんだよ。逆に、ふと頭に浮かんだ...

 

では、今日はこのへんで。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

 

親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙にて、「失ってきた『パワー』を、なんとかして調達すべし。でも、具体的にどうすれば? 」と書いたので、今日は、そのヒント(?)となりそうなことについて提示してみようと思います。

 

じつは、4月23日のお手紙で、「自分は、真に『かわいがられ』てはいなかったんだ、と割り切りを要するのではないか」と書いた時点で、『そういえば、以前、ネットでつぎのような文を拾っていたんだったっけ。』と思い出したのです。

以下、引用しますね。

 

 愛されたという実感を持てないまま大人になると、世界全体が、ひどくよそよそしい感じをもって、自分を「ただ」見ている、という感覚に襲われることがあるのではないでしょうか。世界は「ただ」自分を乗せて回っているに過ぎず、この命がどうなろうと知ったこっちゃないんだ、とでもいうような。
  けれども、例えば「家庭」のような小さな枠組みの中でひどく愛された経験を持てたのだとしても、一歩外に出ていってみたとき、そこに広がる世界はやはり、よそよそしいものに過ぎないかもしれない。
  どのみち、他人は誰もはじめから自分の味方ではないし、世界は「ただ」、乗せて回ってくれているに過ぎないんですね。
  けれどもそこで初めて、さびしい子どもは解放されるのではないかと、わたしは思っているんです。五感の意識を高めて空を見上げ、寝そべったとき、自分に対して好意的な生命だけを、感じとることが出来ます。それはもの言わぬ生命ですが、世界中に溢れているものです…。例えば目に見えるものならば星であるとか、そうでなければ、季節の変わり目の空気の匂いのようなもの。自分にとって好ましく、好ましく美しいと感じることによって関わりを持つことが出来るすべての世界。それらがみんな、さびしい子どもの味方になってくれるんですね。

 

vol.9 We love Nausicaa! /「風の谷のナウシカ」~癒しの未来

 

……さて、引用部分だけで、けっこう長くなってしまったようなので、続きはまた次回以降にさせていただくことにします。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

 

親愛なる先生へ

昨日のお手紙にて提唱(!?)した「人形説」、考えてみると、けっこう言いえて妙なんじゃないか、と。

以前、3月24日のお手紙のなかで取り上げた、例え話(後日、「超能力か!? 」なんて評してたやつ)なんかも、この「人形説」にのっとってみてみると、無理もないと思えてきたりするし。

そういえば、子どもって、人形をかわいがってるつもりでいて、けっこう残酷というか、ひどい扱いをすることってありますよね。
まあ、そもそもが、人形って身代わりとか厄除けとか、そういうものからきているともいえるわけだし。

そうとなると、こういうことが言えるかも。
「自分は、何らかの重荷をしょわされていた、というか、いわばパワー的なものをすいとられていたのでは」、って。
無論、知らず知らずのうちに、です。

ならば、解決策として、まず思いつくのは、その失ってきた「パワー」を、なんとかして調達すべし、ってことですよね。

でも、具体的にどうすればいいのか?
そのことについては、また次回以降に、ということで。

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

親愛なる先生へ

 

このところ、「割り切り」について書いていますが、考えてみるに、わたしが最も「割り切り」を要するものって、こういうことかもしれないです。

「自分は、真に『かわいがられ』てはいなかったんだ」と。

(4月6日のお手紙と重複するようですが。)

 

で、ちょっと最近、思いついたことなのですが。

もしかして親は、わたしのことを、あたかも「人形」か何かのように、「かわいがって」いたにすぎないのかな? ……なんて。

 

人形遊びするときって、みんな、人形自身が何か考えてるとか、何か人形自身の意思がある、なんて、思いませんよね。

(もし、人形に何かが乗り移っていて、そういう状態とかになっていたのだとしたら……ホラーかも。)

 

だけど、こちらは人形じゃない。ちゃんと自分で考えてるし、意思がある。

 

親は、そういう視点が抜け落ちていたのかもしれないな、未熟だったんだよな、と思ったりして。

 

それでは、今日のところは、これにて。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

 

親愛なる先生へ


昨日のお手紙で、「割り切りが肝心では」と書いたのですが。

 

……なんか、「またもや、いちゃもんつけかよ? 」って思われそうですが、わたし、この「割り切り」ってやつも、どうやらニガテみたいです。

 

おそらく、1月30日のお手紙で述べた、「完璧主義」ってやつが、影を落としているんじゃないか、と思われるんですね。

 

で、この「完璧主義」に、わたしが陥ることになったわけ。最近思いついた仮説があるんです。

 

それは、4月2日のお手紙に書いたことに通じるのですが、もしかすると自分は、例えばの話、本来怒られなくてもいいようなことで、怒られたりしてたってことなのかなー、と。怒られるようないわれは全く思い当たらなかったというのに。

 

だからこそ、なんとかして怒られずに済むように、と、ほんの些細な至らない点にまで、めくじらをたてるようになっていき、結果として、完璧主義となってしまったのかもなー、なんて。

 

ではでは。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより