親愛なる先生へ

昨日のお手紙では、こういうようなことを書いてました。
「否定されてき続けてきた・傷ついてき続けてきた、そういう事柄から、目を背けるわけには、いかない」、と。

……ていうのはつまりですね。
ただいたずらに、「否定されてき続けっぱなし・傷ついてき続けぱなし」、ってんじゃ、あまりにも、“割りに合わない”だろう、と。
だって、そういう、通常じゃ考えられないような、隠れた経験があるのなら、それに見合った、例えば能力のようなものがみがかれている、ということだって、充分有り得るんじゃないかしら!?

例によって、ちょっと、考えてみようと思います。

あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ

親愛なる先生へ

昨日のお手紙に書いたようなコト、なにもウソってわけじゃないんですよ(そりゃ、多少“盛ってる”ところはあるかもしれないけど)。
それだってのに、なんで、「今から述べるのは、およそ根拠に乏しい、主観丸出しの意見になるであろうことを、まずおことわりしておきます」な~んて、回りっくどい前置きをしちゃったのか? 

……う~ん、なんかね、こんなふうな言い訳せずにはいられないんですよ。
さもなくば、『ぜったい「そんなわけない」「気のせいでしょ」などと否定されるに決まってる! 』って、思えてならないんだもの。

つまり、いかにこれまで、こんなふうに否定されてき続けてきたか、てことですよね。そしてそのたんびに、いかに傷ついてき続けてきたか、と。
そういう事柄から、目を背けるわけには、いかないですよねえ。そうでないと、どんどん問題がこじれていくばかりなんじゃないかしら。

それでは、また。

あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ

親愛なる先生へ

昨日のお手紙では、「一体なんで、ふとしたことで『頭がカーッとなって、パニックになっちゃ』いがちになるのか、そしてそれをどうしたらいいのか」と、問題提起したんですが、今日はまず、理由の考察から……。

まずひとつ言えるのは、自分って、やたら恐れていることがあるんじゃないか、てこと。

で、その原因は、というとですね……。
今から述べるのは、およそ根拠に乏しい、主観丸出しの意見になるであろうことを、まずおことわりしておきますが。

思えば、幼少時、モデルっていうか、お手本にさせてもらえる存在が、ほとんどいなかったんです。
今にして思うと、不思議なんですよね、社宅だったってのに、少しだけ年上の子たちとの交流がほとんど無かったなんて。
親たちは年長すぎて参考にならなかったし。
そんな中、なにかにつけて、一発でうまくやらないといけなかったんです。失敗しても、親は快くなんて助けてくれなかったもの(妹たちの対応で手一杯だったもので)。

そんな環境じゃ、日常生活からして、はたしてうまくやれるかビクビクになっちゃったって、当然ってもんですよねー。

さて、この続きは、また次回以降に。

あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ

親愛なる先生へ

昨日のお手紙では、どうやら自分の考えてることって、「独断と偏見」ていうか、ある種の歪みが生じてるらしい、というようなことを書きました。

そりゃ、ゆっくり落ち着いて考えてみりゃ、分かるんですよ、例えば、へんなふうに決めつけてるんじゃないか、とかって。
なのに、ふとしたことで、そういうのが見えなくなっちゃうみたいなの。
『もし、こんなふうになっちゃいでもしたら、絶対困る~、イヤだ~! 』てな感じに、頭がカーッとなって、パニックになっちゃう、てことなのかな。

こういうのって、ズバリ、由々しき事態ですよね。
一体なんで? どうしたらいい? 
例によって、ちょっと考えてみますね。

あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ

親愛なる先生へ

昨日のお手紙の中で、「どうみても“ダメ”なものがある」なんて書いていたんですよね。で、そういうのは、「『世を忍ぶ仮の姿』というふうに捉えたら? 」というふうに提案していたのですが……。

考えてみたら、どうみても“ダメ”」って決めつけてる時点で、なんか「独断と偏見」ていうか、ある種の歪みが生じてるんじゃないか、という気がしてきました。

だからこそ、昨日のお手紙で書いたように、「『世を忍ぶ仮の姿』というふうに捉えてみる、というのはノンキ過ぎかしら? 」などという思考回路になっちゃうのかもしれないですね。

まあ、これも、7月17日のお手紙で持ち出したような、「善と悪の逆転」の一例といえるようなことだったりするのかな……。

ではでは。

あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ