親愛なる先生へ


昨日のお手紙の、続きです。


昨日のお手紙で引用した部分を読んで思ったのは、つぎのようなことです。

「知らず知らずのうちに怒りをくすぶらされるような人間関係よりも、もっとひろく大きくて、何ていうか高次元の共同体を意識するようにしたらいいんじゃないか」、と。


そもそも、これまで悩んでたポイントには、人間関係(親などの)から逃れられなかった、ということがあげられるんですよね。

だけど、上記の共同体を意識するようにするのだったら、わざわざ逃げたりしなくたって、その場にいながらだってOK、てわけです。


ただ、難点がひとつ。

この共同体って、とにかくパッと見には、目に見えないんだし、わかりづらい。

そのへんのところを、どうしたらいいのか? 


例によって、次回のお手紙までの課題とすることにしますね。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ


親愛なる先生へ


昨日のお手紙の中で、「わたしにはじつは慢性化した怒りがあって、もしかすると人間関係がうまくいかなかった一因だったのかも」というような仮説を述べました。

“怒り”なんて、どう考えても、精神衛生上、悪影響があるに決まってますよね。


そこで、ちょっとでもヒントになりそうだと思えるのが、9月25日のお手紙の中でふれた、

居場所ってこんなにあるんですよ! - アドラー心理学サロン

の記事。

未引用部分に、良さそうなことが書いてあるので、載せてみますね。


意識して頂きたいのは、「別の共同体があること」と、「もっと大きな共同体があること」です。

 

学校や会社などよりももっと大きな世界が存在するのです、つまり外側に居場所を見つけて所属感を得れば良いのです。


…(中略)… 

 

人生における行動指針として、特定の共同体の中での対人関係でトラブルに見舞われて出口が見えないのなら「もっと大きな共同体を見る」ことと、「別の共同体を見る」ことです。

 

学校なら学校、会社なら会社の中でコモンセンス (共通感覚) があり、教師や上司といった人達はその狭い共同体の中で権力を持っています。

 

しかしながら、教師や上司は人間社会というより粒度の高い共同体の中においては、対等な個人です。

 

理不尽な要求を突きつけられたのなら、その要求に無理に従う必要なありません、より大きな共同体を意識してより市場価値の高い人間を目指すのです。


…(中略)…

 

目の前の小さな共同体が全てだと思ってはいけません、もっと大きな共同体や別の共同体は必ず存在しております。


さて、少し長くなったようなので、続きはまた次回以降にします。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ

 

親愛なる先生へ


昨日のお手紙に、「『みんなと同じ』って、『何も考えていない』ってことになるのでは」というようなことを書きました。

なんかこの「何も考えていない」ってフレーズ、ちょっと非難がましいものを感じてしまうのは、気のせいでしょうか……? 


というのはですね、振り返ってみると、今まで、いかにこの“思考停止”ってやつを仕向けられていたか、って思われるからですよ。

例えば、これまでのお手紙でも、3月19日の「『まーええわ』ということばで打ち切られちゃう」「『屁理屈』と言われてしまった」とか。

5月12日の「『なんで』ときいても『なんででもっ!(怒)』で打ち切られ、納得行く返答をもらえたためしがなかった」とか……。


で、ふと思い付いたのですが。

こんなふうな“けんもほろろ”な対応されて、平常心でいられるわけないってんですよね。

まず、怒りがわいてくるのが自然だと思うんですよ。

でも、それが毎日のこととなると、慢性化して意識できなくなるけど、ふとした拍子にでてきちゃいかねない。

もしかして、ずっと人間関係がうまくいかなかったのは、こういうこともあったのかもしれないなあ。


さて、今回はこの辺で。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ


親愛なる先生へ


昨日のお手紙では、「『みんなと同じ』なのって、要は誰かのコピーってことだから、どうしたってオリジナルを超えられない。」というようなことを書きました。

ゆえに、真に「みんなと同じ」であることを欲するひとなんていないんじゃないの? ……と思えてしまうのですが。


そんな折、ネットでつぎのような文章を目にしました。

 

「みんなに合わせる」や「空気を読む」というのは、特定のごく少数の人間の権力に合わせて何も考えていないことと同義となります。

 

本来の意味でみんなで力を合わせるというのは、1人1人の意見や考えがあり、最善の行動を定めて動くことなのです。

 

盲目的な集団行動なんて合わせる価値はありません、何も考えずに集団行動を取ることは、単なる人生の課題からの逃避になってしまいます。

 

居場所ってこんなにあるんですよ! - アドラー心理学サロン

 

なんと! そうすると、「みんなと同じ」って、「何も考えていないことと同義」になっちゃうってこと!? 

まあ確かに「何も考えていない」でいるのは、ラクなのかもしれないですがね……。


まあとにかく、この続きは、また次回以降ということにしますね。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ


親愛なる先生へ


昨日のお手紙を書いたあとで、よくよく考えてみたところ、『そもそも、こころから「みんなと同じになりたい」って願うようなひとって、どれだけいるんだろう? 』という思いがわいてきたんです。


つまりですね。

以前、5月2日のお手紙に、「『すっきり』と『むだや無理がない』のって、つまらないのでは? 」というようなことを書きましたでしょ。そのときと同様に問いかけてみるんです。

今回だったら、こんな感じかな。

「もしですよ。時間もお金も体力も、もうありとあらゆるものが無限にあって、どれだけでも好きなだけ使えるのだとして、どんな自分にでもなれるのだとしたら? 」と。

そしたらわかるんですよ。「みんなと同じ」なのって、ただの誰かのコピーなんじゃないか、と。

そして、コピーってのは、どうしたってオリジナルを超えられないんですよね。


ではでは。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ