親愛なる先生へ


昨日のお手紙に、「自分はずっと、『終始一貫してなきゃいけない』って思い込んでたんじゃないか? 」と書いたのですが、そういうふうに思い込まざるをえなくなった要因のひとつかもしれない事柄を、ちょっと思い出しました。


それは、幼少時に親など周りの年長者とかから、しきりとこう言われていたこと。

「ないたカラスがもうわらった」、と。

節までつけて、さもからかうように、さげすむように言うんですよねえ。


もしかするとコレ、5月17日のお手紙の「極楽とんぼ」っていうやつの、派生形なのかも!? 


ともかく、そういうふうに言われるとなると、とりわけ年長者から言われるとなると、「『その時の考えや気持ちで動』いて、感情の表出をコロコロ変えたりするのは、恥ずべきことだ」って思い込んじゃっても、全然不思議じゃないですよね。


ではでは。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ


親愛なる先生へ


昨日のお手紙の中で引用した部分を読んで、自分としてまず気づいたこと。

それは、「どうやら自分はずっと、『終始一貫してなきゃいけない』って思い込んでたんじゃないか? 」ってことです。


なんか、昨日のお手紙のように「自分のその時の考えや気持ちで動」いたりしたら、周りとしては迷惑このうえないに決まってる……って、ついつい考えちゃってるんですよ。

ちょうど、2月4日のお手紙の中の「自分のニーズ(欲求)を満たすのは相手に迷惑をかける」ってのと、おんなじように思ってる。


だけど、よくよく考えてみたら、周りとか相手とかが、迷惑と感じるのかどうか、なんて、こっちにはわかったもんじゃないのかも。

そりゃ、「終始一貫」してたほうが、シンプルで取り扱いやすくはあるんでしょうけどね。

だけど、そういうものに、いわゆる魅力ってものは宿るのか? って疑問がでてきたりして。だって、まるでプログラムのまんまに動く、機械みたいだったりしますもの。


さて、今日のところは、このへんで。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ


親愛なる先生へ


昨日のお手紙で、「オーダーメイド」と「レディ・メイド」について書きましたが、要はこれからは「レディ・メイド」ではなく「オーダーメイド」を心掛けるようにしたい、てことなんですよね。


そのことに関連するのですが、最近知ったポイントがありまして。

そのことについて書いてあるブログ記事を、引用しますね。

 

人間は日々、進化しています。一見、周りの状況も変化はないし、自分自身も昨日と同じように見えるかもしれません。しかし、実は毎日、何かが昨日とは違っているのです。それは私たちや、私たちを取り巻く物質全てが、「生きている」からです。目には見えませんが、細胞の、原子の振動が絶え間なく繰り返されているからです。

 

ですから、「今の自分のまま」でいることなど、もともと不可能なことなのです。つまり「ありのまま」でいれるものなど、何もないということです。

 

特に人間は、知性や感情を持ってこの世に生まれてきています。人生の目的(お役目)を持って降りてきているので、常に自分を磨いて、成長していくというDNAが、その細胞に刻み込まれているのです。

 

そうして考えていくと、「ありのままの自分でいる」ということの、本当の意味が分かってくると思います。それはすなわち、「自分のその時の考えや気持ちで動く」ということです。

 

人はその瞬間・瞬間、考えや気持ちが変化します。さっきまで「疲れたなぁ」と思っていても、彼氏から遊びのお誘いが入ると、ウキウキとお出かけの準備を始めたりします。しかし、「疲れたなぁ」と思っていた自分と、「やった!彼と遊びに出かけれる!」と思っている自分とは、別人でしょうか?

 

どちらも、自分自身ですよね。

 

このように、「ありのままの自分」というのは、何も「おとなしい自分」とか「短気な自分」というような性格でくくれるようなものではなく、その瞬間の自分でいる、ということなのです。

 

「ありのままの自分でいい」の誤解 | アートライフUSA

 

さて、ちょっと長くなったようなので、この続きはまた次回以降ということにします。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ


親愛なる先生へ


昨日のお手紙に書いたような、「自分が本当は成長できてなくて、未熟だ」なんてこと、とくにうちの親なんか、おそらく承服しかねることでしょうね。

何しろ、いわば“教育一家”出身だったりしたわけだし。

もっとも、いくらかたちだけ“教育一家”であったのだとしても、6月10日のお手紙に似たようなこと書いたとおり、それがバッチリ機能しているとは限らないんじゃないかしら。


そこでふと思い付いたことがあるんですが。

服の、「オーダーメイド」と「レディ・メイド」って、ありますでしょ。

わたし、あれって本来は「オーダーメイド」でないといけないんじゃないか、と思うんですよ。だって体型って一人一人違ってるはずじゃないですか。

なのに、それだと手間もお金もかかるから、大量生産によるコスト削減をねらって、いつの間にか「レディ・メイド」が幅を利かせるようになっていってしまった。

で、同じようなことが、いわゆる子育てとか教育とか、いわばひとの成長にかかわる分野にも起きてるんじゃないかと思うんです。

つまり、「一人一人違ってるはず」ってことを考えに入れてない。

あまつさえ、ほんとは合ってないってのに、「コレに従え」などといって押し付けてきたりする。

単なる服などだったら、ちょっとぐらいの不適合は何とか我慢できるかもしれないけど、例えば、もし靴とかだったら、合わないものをずっと使用してたりしたら、下手すりゃ健康を害しかねないってのに……。


まあとにかく、この続きは、また次回以降に。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ


親愛なる先生へ


昨日のお手紙で、「“イイコ”にする、というのは、じつは相手を見下す行為なのではないか」、と書いたのですが、あのあと、もう少し考えてみたら、別の説も成り立つのかも? という気がしてきました。


それはどういうことかというと、早い話が、「自分が本当は成長できてなくて、未熟だから」ということなのかな、と。


つまりですね。

自分のことを例にとって述べますが、わたしって、ムリヤリ押さえ付けられちゃうことが多かったんじゃないか、と思うんです。

だってほら、3月19日お手紙の「『まーええわ』ということばで打ち切られちゃう」「『屁理屈』と言われてしまった」とか、5月12日のお手紙の「『なんで』ときいても『なんででもっ!(怒)』で打ち切られ、納得行く返答をもらえたためしがなかった」とか、凄くムリヤリじゃないですか。

そんなふうだと、見かけはともかく、内心は成熟なんかできっこないんじゃないか? ちっちゃい子みたいに聞き分けのない気持ちをねじ伏せてるだけなんじゃないか?  と思えてくるんです


するとどうなるかというと。

他のひとだって、自分みたいに「ちっちゃい子みたいに聞き分けのない気持ちをねじ伏せてる」とみえてきてしまうんじゃないかな、なんて。


もしこういうふうなのだとすると、他のひとのみならず、自分まで低くしか評価してないってことなんですよね……。


ではでは。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ