親愛なる先生へ


昨日のお手紙の段階での要旨はというと、こんな感じでした。

「外部に翻弄されてても一時的なものだったらいいのではないか」。


もっとも、もう少し考えてみると、もうちょっと補足しといた方がいいかもな、という気がしてきたんです。


だって、「外部に翻弄」される状態が、「一時的」で済まなかったら、大変なことになりかねないし、それはたやすく起こり得るんじゃないか、と。つまりそれはどういう場合かというと、「外部に翻弄」される状態が暴走して、どんどん雪だるま状に膨らんでいってしまうようなときのことですね。


だからせめて、「外部に翻弄」されてる、っていうことを、なんていうのかな、自分で気づいているのが大切なんじゃないかな、と思ったりなんかするわけですけど……。


とにかく、この続きは、また次回以降に。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ


親愛なる先生へ


昨日のお手紙にて、こんなふうに書いていました。

「外部に翻弄されてるのって、なんとかならないものでしょうかね? 」、と。


で、考えてみたところ、今のところの(暫定的な? )案は、「一時的なものだったらいいのかな」というのになりました。


その理由は……。

まず、10月6日のお手紙で、「自分のその時の考えや気持ちで動」けばいい、って言ってましたでしょ。

もしその通りなら、どうしても「外部に翻弄されて」しまうのなら、それは「自分のその時の考えや気持ち」に他ならないですもの。


しかも、9月29日のお手紙には、こう書いてましたっけ。

「『もっとひろく大きくて、何ていうか高次元の共同体』にいる場合だったら、」「どんな自分であろうと、もう思いっきり全肯定! っていうふうなんじゃないか」、と。


……まあ、引き続き、考えるようにしてみようとは思ってますがね。

とりあえず、今回のところは、このへんで。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ


親愛なる先生へ


昨日のお手紙に、「ちいさい子どものうちは、言われたりされたりするのを、ただ鵜呑みにしたり、されるがままでいるより他ない」って書きましたが、そのあとでじっくり考えてみたら、もしかして大人になってからですら、「ただ鵜呑みにしたり、されるがままでい」たりすることばっかりなのではないか……っていう気がしてきちゃいました。

(まあ、「大人になってから」とはいっても、10月4日のお手紙のとおり「本当は成長できてなくて、未熟」なのかも、ですが)


というのは、ほんとはすごくイヤなのに、ガマンを余儀なくされていることが、あまりに多いと思うから。

自分がどういう状態を望むのか、なんて関係ない。まさに外部に翻弄されてる、って感じ。


これって、それこそ10月5日のお手紙でいうところの「レディ・メイド」にムリヤリあわせないといけない、って状態なのかもなあ。


こういうのってなんとかならないものでしょうかね? 

少し、考えてみることにします。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ


親愛なる先生へ


昨日のお手紙で、「『嫌なことを言』うことを正当化できるのかどうか」ってなことを書きましたが、そういえば……と思い出したのが、3月1日のお手紙の中で引用した、

体罰について | None.

という記事のことです。

じつは、引用した部分の前段として、こういう文が述べられていたのでした。

 

よくスポーツ選手とかで「あの時殴ってくれたコーチがいたから自分は成長した。だから体罰は許される」とか言ってる人がいるけどそれは違うと思う。「良いコーチがいた」ことと「殴られた」こととは全く別の次元だ。その人が成長したのは暴力のせいじゃない。そのコーチからもし、体罰の要素を引いて、暴力抜きで指導したとしても、その人は成長したと思う。

コーチの指導者としての能力が高かったから、もしくはその人の努力や能力、環境のおかげだからで、

暴力をふるう人間=いい指導者、では全くない。

 

コーチの人格と暴力と自分の成功を等号で結びつけるのって、

「アメリカが原爆落としてくれたから日本は成長した。だから原爆は許される」って言ってるのと変わらないと思う。

「あとでありがたみが分かるから殴る」って言うのは、

「あとでありがたみが分かるから遠い国に爆弾落とす」って言ってるのと一緒。

そういう人って、ありがたみがわかった!って言って寄って来る人は大事にするけど、ありがたみが分からなかった人のことは無かったことにする。

 

(「暴力ふるわれたから成長した」って、よくよく文字にして読んでみたらすごい文章だな、しかし。

もし仮に暴力を振るわれることで成長する世界があったとしても、私はそちらの世界に自分の子どもは入れたくないな。)

 

そういう経験を語るスポーツ選手は、大人になって成功したから自分の過去の体験をつじつま合わせで正当化できただけ。

「愛」っていう解釈でその体験を正当化できただけ。

暴力を受けている瞬間の子どもにとって、「愛」なんて存在しない。

暴力は受けている瞬間は脅威でしか無い。

 

後々のつじつま合わせで「愛」になったり「しごき」になったり「必要なこと」にされたりするだけ。

 

そのつじつま合わせができないで(逆につじつまを合わせてしまったばっかりに)ずっと苦しむ人はたくさんいる。

 

この説で言うと、要は「正当化」というのは「つじつま合わせ」にすぎない、ってことになってきますよね。そしてそれは、苦しみのもとになりえるほど不健康で不自然なことなんじゃないかと。

ここで問題は、成長したからこそ、このように冷静に振り返れるのだろうけど、ちいさい子どものうちは、言われたりされたりするのを、ただ鵜呑みにしたり、されるがままでいるより他ないんだ、ってことでしょうか。


さて、今日のところは、このへんで。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ


親愛なる先生へ


なんか、昨日までのお手紙を振り返るにつけ、わたしって心ない言葉をかけられてばっかりだったんだなあ、と思ってしまいます。


だけど、そういう言葉を発している方としては、その自覚はどの程度あったのでしょう? 

ここで、ふと思い出したことがあるのです。じつは、つぎのようなことをしきりと言われてたこともあったのでしたっけ。

「嫌なことを言われたとしても、『なにくそ』と発奮するようじゃないとあかん。」と。


つまり、向こうとしては、「嫌なことを言」ってる自覚はあったんですよね。そして、それをすっかり正当化しちゃってる。「なにくそ」って言葉によって。


でもですよ、これって、ほんとに正当化できるようなしろものなのでしょうか? 

だって、もしこんな理屈がまかりとおるのなら、それこそありとあらゆる、いじめ・ハラスメント・虐待、ひいては暴力そのものまで、正当化できちゃいかねないじゃないですか。


まあ、いったん時間をおいて、考えてみることにしようと思います。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ