親愛なる先生へ
昨日のお手紙で、「『嫌なことを言』うことを正当化できるのかどうか」ってなことを書きましたが、そういえば……と思い出したのが、3月1日のお手紙の中で引用した、
という記事のことです。
じつは、引用した部分の前段として、こういう文が述べられていたのでした。
よくスポーツ選手とかで「あの時殴ってくれたコーチがいたから自分は成長した。だから体罰は許される」とか言ってる人がいるけどそれは違うと思う。「良いコーチがいた」ことと「殴られた」こととは全く別の次元だ。その人が成長したのは暴力のせいじゃない。そのコーチからもし、体罰の要素を引いて、暴力抜きで指導したとしても、その人は成長したと思う。
コーチの指導者としての能力が高かったから、もしくはその人の努力や能力、環境のおかげだからで、
暴力をふるう人間=いい指導者、では全くない。
コーチの人格と暴力と自分の成功を等号で結びつけるのって、
「アメリカが原爆落としてくれたから日本は成長した。だから原爆は許される」って言ってるのと変わらないと思う。
「あとでありがたみが分かるから殴る」って言うのは、
「あとでありがたみが分かるから遠い国に爆弾落とす」って言ってるのと一緒。
そういう人って、ありがたみがわかった!って言って寄って来る人は大事にするけど、ありがたみが分からなかった人のことは無かったことにする。
(「暴力ふるわれたから成長した」って、よくよく文字にして読んでみたらすごい文章だな、しかし。
もし仮に暴力を振るわれることで成長する世界があったとしても、私はそちらの世界に自分の子どもは入れたくないな。)
そういう経験を語るスポーツ選手は、大人になって成功したから自分の過去の体験をつじつま合わせで正当化できただけ。
「愛」っていう解釈でその体験を正当化できただけ。
暴力を受けている瞬間の子どもにとって、「愛」なんて存在しない。
暴力は受けている瞬間は脅威でしか無い。
後々のつじつま合わせで「愛」になったり「しごき」になったり「必要なこと」にされたりするだけ。
そのつじつま合わせができないで(逆につじつまを合わせてしまったばっかりに)ずっと苦しむ人はたくさんいる。
この説で言うと、要は「正当化」というのは「つじつま合わせ」にすぎない、ってことになってきますよね。そしてそれは、苦しみのもとになりえるほど不健康で不自然なことなんじゃないかと。
ここで問題は、成長したからこそ、このように冷静に振り返れるのだろうけど、ちいさい子どものうちは、言われたりされたりするのを、ただ鵜呑みにしたり、されるがままでいるより他ないんだ、ってことでしょうか。
さて、今日のところは、このへんで。
あなたの一番弟子(でありたい) elaineより