親愛なる先生へ


昨日のお手紙では、「自分はどうやら、自分自身に対して、圧倒的な欠落を感じちゃってるのではないか」というようなことを書きました。


だけど、どうしてそんなに欠落感を覚えてしまうのか? 

考えたところ、やはり、幼少時の経験と、その記憶に端を発してる、と考えるのが妥当だと思うんです。


たぶん、幼少期に自分が望んだことが、満たされなかった、というようなことが、あったはず。

それだけなら、よくあることですよね。ていうか、そういうことがほとんどだと思うんですよ。

問題なのは、そのあと。

相手の「願望を満たす」ことが出来なかった立場のひと(親など)に非があるってことが明白だったのなら、「今はうまくいかなくても、いつかきっとうまくいくだろう」と思えて、そんなにイヤな気分にはならないのでは、と思うのです。

だけど、もしこういうふうだったら、どうでしょう? 

「幼少期に自分が何かを望んだこと」それ自体を(親などから)責められたのだったら? 

そういうふうだと、自分自身が良いものだとは到底思えなくなってしまうし、責めてくる相手(親など、ひいては、他の人々)に対しては、なおさらイヤな感じを覚えてしまうのではないか、と考えられるのですが……。


なんか、凄くわかりにくい言い方になっちゃってますよね。

なので、次回以降で、もう少し、表現について工夫してみることにします。


あなたの一番弟子(でありたい) elaine


親愛なる先生へ


昨日のお手紙では、「否定ということが良いことになってしまっている、それによって生じる気分とはうらはらに。」という感じの説を述べました。


それって、ちょっと由々しき事態ですよね。どういうことなのか、掘り下げるべきだと思うんです。


で、まず言えると思う事柄としては、「否定が良いこと」イコール「否定ということがしっくりくるくらい、ダメダメだ」ということになってるってことなんですよね。

とにかく、不充分だ・欠落してる、という評価なんですよ。


そしてそれは、わたしの場合、ことさら自分自身に対して、そういうふうになっちゃってる気がしてならないんです。

もうとにかく、圧倒的な欠落が生じちゃってるの。

今更どんなに努力し奔走したところで、到底埋まんないんじゃないかと思っちゃうくらい。


まあとにかく、今回のところは、このへんで。


あなたの一番弟子(でありたい) elaine


親愛なる先生へ


昨日のお手紙に、「否定の応酬」なんていう言葉を持ち出したんですよね。


こういう、「否定」って要素、自分の生育歴を振り返るにつけ、つくづく思い当たる節があるんです。もう、気がついたら常に否定」してるみたい。(「いちゃもんつけ」とも言いますね。)


で、それこそが正しい健全なことなんだ、ってことにしちゃってるんですよ。 向上心や、愛情とかがある証なんだ、とかなんとか言ったりして……。


でも、落ち着いてよくよく考えてみると、「否定」されて良い気分になることって、はたして有るのかしら? って疑問がわいてくるんです。だってそれって、悪く言われる・けなされる、ってことですもの。


かくして、ひどい逆転現象が生じちゃってることが、明るみにでるわけですね。

人間関係がうまくいったためしがなかったのは、そういうことが原因だったのかもなあ。


さて、この続きは、また次回以降ってことで。


あなたの一番弟子(でありたい) elaine


親愛なる先生へ


昨日のお手紙に、「『自分なりに精一杯考え抜いたあげく』のものが反対される」と「『まただ……。』って感じで、つくづく悲しく情けなくなっちゃう」と書きましたが、ふと、『これって、相手の立場からみたら、どうなんだろう?  』と思えてきました。


ここでの「相手」って、まあ、親たちのことなんですがね。

もしかしたら、こんなふうに感じるんじゃないかな、と思うんです。


自分たちの子ども(つまり、わたしのことね)が、「生きづらいから」とかなんとか言って、なんか怪しい(?)ものに手を出そうとしている。

だけどその、理由としている「生きづらい」っていうのは到底認めるわけにはいかない。何故なら、そうしてしまうと、今まで親である自分たちがずっと良かれと思ってせっせとやってきたことが、ダメだった、ってことになってしまうから。

だからこそ、頭ごなしに反対してしまう、と、


……なんか、こうしてみてみると、『そりゃ反対されるワケだ』とも思えてきますよね。

ここでちょっと気づいたのですが、自分も親も、なんか否定の応酬みたいなことをしてんのかな、なんて。

これって、果たして功を奏するようなものなのかしら? 


ちょっと、考えてみることにしますね。


あなたの一番弟子(でありたい) elaine


親愛なる先生へ


昨日のお手紙に、こう書きました。

「自分が当時やりたがってたことって、あんまり一般的じゃなかった、っていうか、どっちかっていうと“怪しい”やつで、そのせいもあって、猛反対されてたのかもしれない」、と。


これについて、もうちょっと、説明したほうがいいかもしれないですね。


じつは、この「自分が当時やりたがってたこと」っていうのは、単に「やりたい」ってだけのものだったわけじゃなくって、なんていうか、当時の自分なりに精一杯考え抜いたあげくの、いわば“生きづらさ”の解消につながるんじゃないか、と思えるようなことだったんです。


だから、なんだかちょっと、ダークな怨念? みたいなものがひそんでたのかもしれない。

ちょっとした、「意趣返し」みたいな感じ、ですかね。


で、そういう「自分なりに精一杯考え抜いたあげく」のものが反対されるのって、ちょうど5月26日のお手紙で「かつてわたしが編み出していた身を守る方法を、親に片っ端から否定され取り上げられてた」というようなことを書いてましたが、その図式に当てはまるとも言えるわけ。

要するに、『まただ……。』って感じで、つくづく悲しく情けなくなっちゃうんですよね……。


では、今回はこのへんで。


あなたの一番弟子(でありたい) elaine