親愛なる先生へ


昨日のお手紙に、「『不公平だ! ズルい! 』って思いが込み上げてきて、ムカついてしまいます」などと、どす黒い気持ちをぶちまけてしまい、スミマセン。

なんでそんなふうに思ってしまうのか、説明しないと、ですね……。


そもそもコレ、昨日のお手紙で、「自分の場合、やりたいことを大反対されっぱなしだった」と書いたことに、端を発しているわけで


えっとですね、こういうカラクリ!? になってるんです。

強く反対されると、『これだけ反対されるのは、自分のこの「やりたい」という気持ちは大間違いってことなんだ』としか思えなくなっちゃうんですよ。

そして、11月10日のお手紙にも書きましたが、間違いというのは怖くて怖くて仕方がない、と。


……まあもっとも、自分が当時やりたがってたことって、あんまり一般的じゃなかった、っていうか、どっちかっていうと“怪しい”やつで、そのせいもあって、猛反対されてたのかもしれないんですけどね。


ではでは。


あなたの一番弟子(でありたい) elaine


親愛なる先生へ


昨日のお手紙で、「『やりたいこと』を、とくだん『封印』したりせずに、フツーにできている人たち」のことを「不思議に思った」なーんて書いてしまいましたが、落ち着いて考えてみりゃ、他のひとのことなんか引き合いに出したってしょうがなかったですよね……。


思うに、そういうひとたちが、単にうらやましかったというだけの理由で、そういうひとたちのことについて、言及してしまったのかもしれない。

なにしろ、自分の場合、やりたいことを大反対されっぱなしだった気がしてならないもので。


だから、「やりたいこと」を「フツーにできている」ってことは、それほど強く反対されていなかったか、仮に強く反対されてたとしても、それをなんとかできてきた、ってことですよね!? 

それらって、わたしからしてみれば、凄く恵まれてる、ってことになっちゃう。

そう考えてると、『不公平だ! ズルい! 』って思いが込み上げてきて、ムカついてしまいます。

なんとかしなきゃなあ……。


まあとにかく、今日のところは、このあたりで。


あなたの一番弟子(でありたい) elaine


親愛なる先生へ


昨日のお手紙では、「30年くらい前に、やりたいことがあったのだけど、封印してしまった」というようなことを書きました。

そしてその理由として、「おこがましい」「まだ社会に出る前で、大人の世界のことを何一つ知らない未熟者の分際で、生意気なんじゃないか」などと指摘したんですよね。


この理由、なんか既視感を覚えませんか? 

そう、思いつくのは、10月27日のお手紙の、「ほかの人から認められないといけない」「ほかの人から反対されるに違いない」というような箇所なんですよね。


ここでちょっと、不思議に思ったことがあるんです。

それは、「やりたいこと」を、とくだん「封印」したりせずに、フツーにできている人たちのこと。

その人たちは、なにも困ることなしに、「やりたいこと」を「認められ」て「反対され」ることなしでいられたのか? それとも、「認められ」ず「反対され」たのに意に介しなかったのか? それなら一体どういう考え方であれば、そのようにできるのか? 


……なんか、謎は深まりますが、とりあえずはこのへんで。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaine


親愛なる先生へ


昨日のお手紙に、「“これまでのこと”と“これからのこと”とは、どちらも欠くことができない」と書いたので、もうそろそろ“これからのこと”も、しっかり書いていこうと思っているわけなのですが……。

要するに、自分のやりたいことなどについて、ですね。


その前に……。

ちょっと話がずれるようですが、近頃わけあって、30年くらい前のことを、しきりと思い出すのです。

で、その頃の自分について、つくづく感じるんですよね。『漠然としてはいたけど、確かに、やりたいことがあったんだよなあ。』と。


で、そのことは結局どうなったのか? 

じつは、あいにくのところ、封印してしまったんですよ。なんでかっていうと、何というか、おこがましいと思ってしまったようなんです。まだ社会に出る前で、大人の世界のことを何一つ知らない未熟者の分際で、生意気なんじゃないか、とかなんとかいう理由をつけたりして……。


だけどですね、もうあれから30年たったんですよ。

一応、社会にも出るには出たし、大人の世界のことも、ある程度は経験したんです。

だったら、あの頃やりたかったことに、もう一度目を向けたって、いいんじゃないのかしら? 


てなわけで、ここらで少し、考えてみることにしますね。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaine


親愛なる先生へ


昨日のお手紙まででずっと、自分の過去がどうだったのかというようなことについて、みてきたわけですね。(その発端は、たしか、11月2日のお手紙の『だったら、今まで自分がさんざん苦労してきたのは、いったい何!? 』という問題提起だったんじゃないかしら。)


それで、一応昨日のお手紙で、「どうやら自分は、過剰な責任をとらされてたのかもしれない」というようなところまで辿り着いた、というわけです。

このことが、もっと『まさにほんとそれ! 』ってレベルにまで納得がいったのなら、だいぶ事態が好転していくんじゃないかな、という予感がしています。


とはいえ、それだけじゃ、ただ古傷をいじくりまくって、わざわざ痛い思いをしてばかりになる恐れもあったりして!? 

しかも、10月26日のお手紙で、「大切なのは『未来』をどう変えるか? そして、過去をどう解釈するのか? ということ」と書いたように、“これからのこと”だったりするんですよね。


かくして、目下このように考えている次第です。

「“これまでのこと”と“これからのこと”とは、どちらも欠くことができない、車の両輪なのかも? 」、と。


さて、今日のところは、このへんで。

 

あなたの一番弟子(でありたい) elaine