喪失を実感するのは
いつも決まって 突然の事で

僕はその度に
欠けてしまったモノが
何なのかを捜し当てるのに
長い時間を要してしまう



ただ 暮らしているだけで
過ごしているだけで

記憶や感情は
そこかしこに 積もって行く

大切なモノも
そうじゃない くだらないモノも

僕等は身に付けて
追われる様に 生きていく


長い長い 繰り返しの中で

僕等は
どれだけのモノを得るのだろう

どれだけのモノを失くすのだろう





今 ただ一つ確かな事は


僕等は 変わってしまったのだという事



それは いつのまにか変わり行く
対岸の景色の様で


ゆるやかに加速する 毎日に

僕は 置いてかれてしまったんだろう





少しづつ色褪せる
日々に反比例して


川沿いの路は

春色に 染まっていく。


「もしも」とつい口癖みたいに口から零れる言葉。



夢や幻想、仮定、未来、想像、言葉の形にしたら無限に出てきそうな先頭についてる言葉。





自分にとっての希望を乗せた目標であり、生きていく原材料の一つ。


はたまた友達と共感する時に使うスパイスでもある。
他にもあるきっとあるだろう。




そんな「もしも」をつかって毎日を過ごす僕らは平和な時代の生きる生きてる証なのかな。





でも、この文章でいいたいことって「もしも」じゃあないんだよね。






本当は言葉が相手に距離や時間を経て、伝わったみたいなんだ。




言い方が曖昧かもしれないけど、そんな感じだったんだ。




思わず照れちゃった。




不思議だな。
ひんやりした空気が心地好い
3月の夜

車も疎らな国道を歩く

いつもは一人の路に
今夜は二つの足音が響く




似てない二人は
本当はよく似てる


歩幅も 速度も違うのに

同じ場所を目指して 歩ける




それぞれに 役割があって

満たし合う事で 世界は廻っている


遠過ぎず 近過ぎず


手を伸ばせば すぐ届く距離





交わし合う 言葉の端々に

未来を見つけた





遠くまで


ずっと遠くまで
歩けそうな気がしたんだ。
今日は朝からオーブンの仕事。



何やら人だかりが店の前に出来ていた。





はっきり言って興味本位のにものでもない。人ごみの中心を覗き込む。




どうやら映画の撮影らしい。某有名人が弾きがかりをしているシーンだ。

人通りの少ない町に群がった人の山。


それを遮るのはスタッフだった。






どうしてもいい映画をとるには環境が絶対不可欠であり、それのために最善を尽くすスタッフをみて、ちょっとした共感を覚えた。



あの人たちは相当疲れているだろう、でもみんな楽しそうだ!



こちらまでやる気がでる。負けないように一生懸命。こちらの楽しさが向こうにも伝わるように。




後で、よかったと思えるように。
師走が追いかけてくるかのように、日常はせかせかと流れていって乗り遅れまいとペダルを漕ぐ。




孤軍奮闘。





なんで乗り遅れてもいいと思わないのだろうか。



きっとそれなりの理由と背景があるのだろう。




それに気づける人もいれば、そうでない人もいる。

別に気づけるから凄いなどではなく、そんな事毎回気づいてたら、人生なんてやっていけないだろう。


ようは適度な休息を入れてやればよい。




しかしこの適度は非常に難しい。しすぎてもしなさすぎても駄目になってしまう。



そんなバランス感覚はつい欲しくなる。










畦道を駆け抜けた深夜の東京