ブログの仕組みが、特にアメーバブログの仕組みがいまひとつよくわかっていないところがあり、おまけに今調子が決していい方ではないというのにmixiまで再開してしまっていて、そちらの仕組みもまたよくわかっていないところが多く、訪れて何かの働きかけをしてくださっている方に、もしかすると失礼なことになっているのかも知れないなぁ・・と思っています。もしそうならすいません。
変なもので僕の場合は調子がわるい時ほど文章が書けてしまうみたいです。もっと調子が悪ければパソコンを起動する気力が湧いて来ないのですが、今日はスマホとかMacに向かう時間が多くなっています。睡眠が短くなっていて三時間ぐらいしか寝ていませんがあんまり眠くなくて、これもよくないのかなあ。自分のことはよくわかりませんね。
まだまだうつっぽいです。なんだろうな、今になって。
ひとつは、単純だけど疲れました、生きるのに。このセリフは20代に初めて保健所へ精神保健相談へ行く直前にこころの底から口に出したことがある。あのときも本当に疲れていた。
うつっていう症状も、人によりいろいろとあるんだろうと思います。
たとえば最近話題になった「新型うつ病」という言葉。普段の生活や遊びなら動けるのに仕事などこころに負荷のかかる場面になるとうつになる。「えらく都合がいいじゃないか、甘えだろう」という意味合いも含めて造語されたものですが、これもまた実は従来からあったうつの現れ方のひとつにしか過ぎないそうです。
まあ、精神科の病名には曖昧なものが多いということだと思います。なんせまだまだ解明が遅れている脳内の機能に関わる症状でもあるし、原因がわからない以上、効果的な薬の開発も「偶然」に頼ってきたような場合が多かったようです。全く別の病気の薬を開発していたら「副作用」で精神的症状に対して効果があったので、そのまま精神科向けの薬にしちゃった、とか。そんなのも以前は多かったようです。
発達障害も今は精神科領域に含まれていて、たとえば手帳を申請するときの診断書に発達障害の項目があります。実際、発達障害があるために精神的症状が出てくる人も多いので、そのことが大きく違っているとは思いません。
僕の場合は5歳くらいの時から不意に悲しさに襲われるという症状に苦しんできました。悲しさを感じて当たり前の場面はもちろん、決してそんな必要のない、むしろ幸せでいてもいい時にも同じように悲しくなることがしばしばありました。それは大人になってからも続いています。主に対人関係に関わって出てくる症状だと今は思っています。対人関係の取り方の戸惑いは、発達障害のひとつの大きな要素です。小さな頃、これについてどう捉えていくか、支援してもらえるかでその後の症状の現れ方は大きく違っていたのではないかと思っています。
それは凸の部分を伸ばすことで周囲からの評価、自分自身についての自信、「この世界にいてもいいんだ」という自己評価の安定。そんなこととつながっているように思います。僕はそれには失敗してきた。でもそれは自分一人で解決できるものではなかった。今の僕のうつの具体的な様態は、「自分は出来損ないである、今後存在していても周りに疎まれるだけ」というものです。
ひとつは、単純だけど疲れました、生きるのに。このセリフは20代に初めて保健所へ精神保健相談へ行く直前にこころの底から口に出したことがある。あのときも本当に疲れていた。
うつっていう症状も、人によりいろいろとあるんだろうと思います。
たとえば最近話題になった「新型うつ病」という言葉。普段の生活や遊びなら動けるのに仕事などこころに負荷のかかる場面になるとうつになる。「えらく都合がいいじゃないか、甘えだろう」という意味合いも含めて造語されたものですが、これもまた実は従来からあったうつの現れ方のひとつにしか過ぎないそうです。
まあ、精神科の病名には曖昧なものが多いということだと思います。なんせまだまだ解明が遅れている脳内の機能に関わる症状でもあるし、原因がわからない以上、効果的な薬の開発も「偶然」に頼ってきたような場合が多かったようです。全く別の病気の薬を開発していたら「副作用」で精神的症状に対して効果があったので、そのまま精神科向けの薬にしちゃった、とか。そんなのも以前は多かったようです。
発達障害も今は精神科領域に含まれていて、たとえば手帳を申請するときの診断書に発達障害の項目があります。実際、発達障害があるために精神的症状が出てくる人も多いので、そのことが大きく違っているとは思いません。
僕の場合は5歳くらいの時から不意に悲しさに襲われるという症状に苦しんできました。悲しさを感じて当たり前の場面はもちろん、決してそんな必要のない、むしろ幸せでいてもいい時にも同じように悲しくなることがしばしばありました。それは大人になってからも続いています。主に対人関係に関わって出てくる症状だと今は思っています。対人関係の取り方の戸惑いは、発達障害のひとつの大きな要素です。小さな頃、これについてどう捉えていくか、支援してもらえるかでその後の症状の現れ方は大きく違っていたのではないかと思っています。
それは凸の部分を伸ばすことで周囲からの評価、自分自身についての自信、「この世界にいてもいいんだ」という自己評価の安定。そんなこととつながっているように思います。僕はそれには失敗してきた。でもそれは自分一人で解決できるものではなかった。今の僕のうつの具体的な様態は、「自分は出来損ないである、今後存在していても周りに疎まれるだけ」というものです。
「うつ」と言われてからしばらくは寝ていることが多かったのですが、やりたい・・・というより、「やらなければ!」という気持ちがわいてきて、文書づくりにパソに向かうものの少しすると煮詰まってきて頭を抱える(本当に抱える!)。で、ベッドへ。
もっと大きなことも考えたりする。たとえば家の壁にずいぶん前から水漏れが発生してしまって、その修繕見積もりを出してみたら「アホか!」と独り言を言いたくなるほどの額でとても業者さんに頼むのはムリ。
で、それを自分でなんとかできないかとかねてから考えていたりするのだけれど、「うつ」ですと言われてから横になっている時間にもなんとかならないか?と考えていたりする。
「やらなければ病」になってしまっている。
親や今後の自分自身の生き方で頭が煮詰まってしまっているのが今回の原因だと思い、なるべく親から離れて過ごしてみる。しばらくそうしている間にちょっとマシになってきたのかな?という感じ。
発達凸凹というくらいなものだから、この障害、凸の方に目を向けるとなんだか救いようが出てくる気がします。たとえば僕はパソコンは好き。プログラムは書けないけれど、機械自体が好きだし以前はウィンドウズ機の自作なんかもしていました。
ソフトウェアも、OSを含めていろいろと触るのが好き。イラストレーターやフォトショップで、素人と言われようとも何かを作るのが好き。一部、ささやかなお仕事にしている部分もあります。
実は最初に書いた文書っていうのは、発達障害の自助会を作りたいんですね、地元に。その準備、呼びかけのための文書。文書っていうと固いけれど。
だから、お金のことはちょっとおいておく(おいておかざるを得ない場合もあります、僕みたいに。)として、どこかで自分の技術や知識が役に立つことが、発達凸凹者としての生きがいにつながるのだろうなと、ぼんやり思ってみたりします。もう、それしかないんだもの。
生きていくためのお金の工面。まあ、職業を持つってことかな。これはこれで大切なことだと思う。でも50代に入ってどこがそんなにお金をくれるだけの仕事を持たせてくれるの?で、自分はその仕事に耐えられるのか。ということがある。
このことはしばらくは支援センターや職業センターに任せておく!として、それでも生きるのに大切なことの大きな一つに、「自分はこれが凸です」というものがあって、実際に人のために役立てることが出来たなら、それはそれですごいことだと思うわけです。
世の中、仕事だけがやるべきことの一等にあげられる。あれでしょ、生活していくにはそれが必要だからっていうことでしょ。まあ、確かにそれはある。でもね、生まれつきとっても恵まれている人もいます。特別苦心かさねて仕事をしなくても、親の資産で贅沢な暮らしをしている人も、世の中たくさんいますよ、と前の主治医も話していた。自分がたまたまそういう環境に生まれなかっただけでね。
じゃ、逆に、僕自身についても、仕事なんて第一じゃないという事も言えるのではないかな。もしそう言うのなら、この不公平な経済社会をまともに修正してからにしてほしい。
それで僕は思うのです。特にぼくら発達凸凹組は、凸の部分を生かすことが自分の生き甲斐、生きている意味になるんだと。
だから僕は今、発達の自助会のチラシを作っています。よくわからないFacebookページも作ろうと研究にかかっています。家の壁は内側から古い壁をとって自分で修繕してやろうとおもっている。
でもまだまだムリはできない。今は今の主治医さんの顔を思い浮かべて「ムリをしないで、少しずつ」だと思いながら。
もっと大きなことも考えたりする。たとえば家の壁にずいぶん前から水漏れが発生してしまって、その修繕見積もりを出してみたら「アホか!」と独り言を言いたくなるほどの額でとても業者さんに頼むのはムリ。
で、それを自分でなんとかできないかとかねてから考えていたりするのだけれど、「うつ」ですと言われてから横になっている時間にもなんとかならないか?と考えていたりする。
「やらなければ病」になってしまっている。
親や今後の自分自身の生き方で頭が煮詰まってしまっているのが今回の原因だと思い、なるべく親から離れて過ごしてみる。しばらくそうしている間にちょっとマシになってきたのかな?という感じ。
発達凸凹というくらいなものだから、この障害、凸の方に目を向けるとなんだか救いようが出てくる気がします。たとえば僕はパソコンは好き。プログラムは書けないけれど、機械自体が好きだし以前はウィンドウズ機の自作なんかもしていました。
ソフトウェアも、OSを含めていろいろと触るのが好き。イラストレーターやフォトショップで、素人と言われようとも何かを作るのが好き。一部、ささやかなお仕事にしている部分もあります。
実は最初に書いた文書っていうのは、発達障害の自助会を作りたいんですね、地元に。その準備、呼びかけのための文書。文書っていうと固いけれど。
だから、お金のことはちょっとおいておく(おいておかざるを得ない場合もあります、僕みたいに。)として、どこかで自分の技術や知識が役に立つことが、発達凸凹者としての生きがいにつながるのだろうなと、ぼんやり思ってみたりします。もう、それしかないんだもの。
生きていくためのお金の工面。まあ、職業を持つってことかな。これはこれで大切なことだと思う。でも50代に入ってどこがそんなにお金をくれるだけの仕事を持たせてくれるの?で、自分はその仕事に耐えられるのか。ということがある。
このことはしばらくは支援センターや職業センターに任せておく!として、それでも生きるのに大切なことの大きな一つに、「自分はこれが凸です」というものがあって、実際に人のために役立てることが出来たなら、それはそれですごいことだと思うわけです。
世の中、仕事だけがやるべきことの一等にあげられる。あれでしょ、生活していくにはそれが必要だからっていうことでしょ。まあ、確かにそれはある。でもね、生まれつきとっても恵まれている人もいます。特別苦心かさねて仕事をしなくても、親の資産で贅沢な暮らしをしている人も、世の中たくさんいますよ、と前の主治医も話していた。自分がたまたまそういう環境に生まれなかっただけでね。
じゃ、逆に、僕自身についても、仕事なんて第一じゃないという事も言えるのではないかな。もしそう言うのなら、この不公平な経済社会をまともに修正してからにしてほしい。
それで僕は思うのです。特にぼくら発達凸凹組は、凸の部分を生かすことが自分の生き甲斐、生きている意味になるんだと。
だから僕は今、発達の自助会のチラシを作っています。よくわからないFacebookページも作ろうと研究にかかっています。家の壁は内側から古い壁をとって自分で修繕してやろうとおもっている。
でもまだまだムリはできない。今は今の主治医さんの顔を思い浮かべて「ムリをしないで、少しずつ」だと思いながら。
発達障害についてはいろいろな姿、かたちがあって人によりその現れようは様々なようです。おおまかな区分けのようなものはあっても、それぞれが重なっている場合もあり、これに二次的障害も加わってくるとなると、個人によりその現れ方は「千差万別」という言葉そのものとなります。
僕もそうです。PDD-NOS(特定不能の広汎性発達障害)という診断名をもらっていても、もともとは20年近く対人過緊張や抑うつといったもっぱら精神的症状名のみで薬をもらい指導を受けていました。けれどもその根っこに発達障害があったことがわかって、改めて発達障害の特性をざっとおおまかに見てみると、僕のようなタイプとは別にアスペルガーと分類されるタイプやADHDと言われるタイプなどいろいろとあるんですね、これが。しかもそれぞれが重なっている場合もあるんだという。
そうすると、これに二次的障害を組み合わせればもう何万通りの特性、生物的社会的障害が存在することになる。なので発達障害という言葉ではもうひとくくりにできなくなってきて、最近ではこちらの障害の方は自閉症スペクトラム(色の階調、濃度といった意味でしょうか。虹にたとえると分かりやすいかも知れません。目に見えないか薄い辺縁の色からはっきりと目に見える色まである。)という名称にして、生物的社会的障害が大きいほどにその濃度が高いという捉え方が主流になろうとしているみたいです。
って、小難しそうに書きましたけどほんとは自分でも自分のことがよくわかってないんです。ただ僕の場合は対人関係が小さな頃から障害されているところがありました。なんでも割と率直に言ってしまって失敗。こちらが「相手にとっていいだろう」と思ってやってみたところが全然相手にとっては不快な話で、これまた失敗。言われたことを自分の中でいろいろと解釈し直してしまって考えに考えた挙句に出した答えが大失敗。目の前に確かにあるものが見えていない、言われたことをすぐ忘れる、自分では確かにこうした!と思っていたことが、なんと不思議なことに!そうなっていない。ので怒られたりする。もうそういう経験を嫌になる程してきました。
けれど診断を受けてだんだんと分かり始めてきたのは、自分が失敗をした時にそれが障害によるものが割とあるということ。なのでそれは自分が悪いというよりは、障害があるが故に仕方がないという解釈もできるということでした。これは厳しい障害感をもっている人にとっては聞き捨てならない!ことなのかも知れませんが、聞こえに障害のある人に対して「昨日、何度も話しかけたのに振り向いてもくれなかったね」と、その障害がわかっていて怒る人はまずいないでしょう。そういう奴は根性の腐っているやつか、よほどのうっかりさん(それも障害?)にしかいません。
だとすると、僕らは失敗をした時にそれが本当に自分が簡単に防げたことなのか、あるいは障害があるがゆえに簡単には防げなかったことなのかを区分けする必要があるように思います。でもそれが難しいんですよね。そしてもしも小さな頃から自己評価が低い場合、ここで「障害のせいにしてはいけないんだ。俺ができそこないだからいけないんだ」という気持ちに傾いていきます。
で、話が変わるようで変わらないようでどちらかわかりませんが、最近、各地で大人の発達障害者の自助グループがぽつぽつと出来始めているようです。以前にどうして大人の発達障害とわざわざいうのかという記事を書きました。そこでは子供の頃から「なんかおかしい、しんどいな」と思いながらも特に知能的に障害が見られないし、虚しさや悲しさや怒りを持ちつつもがんばってしまったりするので、医療分野で研究が進んだここ数年に至って発達障害のあることがわからないでいた人がたくさん見つかってきた、というようなことを書きました。
ただ、そんな状況なので社会的な理解もほとんど進んでいないし、お医者さんにかかっても、あるいは支援センターで一対一の面談をしても、どこか未消化なところが心に残る。おおまかな障害特性の分類はあって、おおまかな特性の説明はあっても、現実生活のいろんな場面で自分に起こる出来事に困惑することの方がはるかに多くて、やりきれなくなってくる。支援センターの相談員さんも今はおそらく相談者が多すぎてパンク状態に近いように思われます。
そこで自分たちで集まっていろんな体験や困りごとを話し合う場を作ろうという動きを起こす人たちが現れてきたんですね。さっき書いた「自助グループ」を作っている人たちです。
ネットでも「発達障害 自助グループ」といった言葉で検索をかけてみると、まだ数は少ないけれども全国にある程度実績のあるグループがあることがわかります。こうしたグループは、もしかすると地元にもすでにあるかもしれないので、その場合は発達障害者支援センターに尋ねてみると「こんなところがあるよ」とおしえてくれるかも知れません。たとえば僕が上の言葉で今検索をかけてみたら、たとえばこんな風なサイトが出てきました。
http://maminyan.com/asd/link/post-19.php
http://piasapo-japan.com/pia-groups
「発達障害あるある」という言葉があります。ふだん対人的に関わりの困難がある人も、自助グループで同じような特性を持った人と出会って話をしてみたら似たような経験をしていることが多い。なので「あー、それ、あるある」と、お互いによく理解ができるわけです。対人関係に困難があるはずなのに話がはずんでいたりする。
自助グループと一言でいってもそれぞれに特徴をもっているということで、大人数が集まるようなそれもあれば本当に少ない人数で集まるそれもあり、仕事をしているか、男性か女性かでグループをある程度区分けしてるようなところもあるかも知れません。あるいは年齢によっても(大人の、と一口でいっても20前後の人もいれば僕のように50を超えた人間もいますしね。)区分けをしているところもあるかも知れない。
知れない知れないばかりですが、実は僕自身、自助グループに参加した経験というのがほとんどないんですね、だからネットとかで得た情報のみでこれを書いているわけで、「知れない」星人になるのも仕方がないのです。
でも思うんですね、まず最初から参加費がえらく高かったりするところは常識としてやめといた方がいいだろうし、それから宗教が背景にあるような場合もやめといた方がいいと思います。とにかく、自助グループを続けていくだけのものを超えたことを要求してくるような場所は用心した方がいいでしょう。
もちろん、行政機関でも月々数万円の利用料を支払って住み込みで職業訓練をしていたりする例はありますし、民間でもそうしたところはあります。そうした正当な訓練や対人関係の取り方をまともに扱って実践しているところは別として(第一それは自助グループというよりはやはり訓練機関というべきでしょう。)、中には怪しげな民間療法のようなところもあるかも知れません(先に記したリンク先にそんなところがある、ということではありません。)。
なので一度、お試しで参加してみて、金線的にも気持ち的にもそれほど負担でないようなら続けてみるという程度の心持ちであればいいのかも知れません。でも多分最初はどんなに合ったグループに参加しても疲れることは疲れるでしょうね。それでも自分が気に入って続けられるところが見つかるのが一番だと思います。
僕はといえば、地元には自助グループがまったくなかったので隣の自治体のそれをネットで探して参加してみたことがあります。そしたら30人の大所帯で自己紹介もなくていきなりむつかしいお題を振られて順番に話すという、えらく無茶な会でした。でも自分で一生懸命考えて話していたら時間が長引いて注意を受けて、後で謝って、で、それでえらく傷ついた上にお茶もお菓子も出ずに千円の参加費をとられるのみという散々な目に会ったことがあります。ただ、一度そういう目にあっておくと、そこにはもう行かないと思えるし、今度は会費がないか少なくとも500円以内ぐらいで人数が少なくて話しても話さなくても許されるようなところがいい、なんて、自分なりの基準ができてきたりします。
大人の発達障害者の道はまだまだ険しい。これは間違いないです。なにせ一番最近「発見」されたような障害ですしね。「難病」と言われるものと似ているところがあるような気もします。けれどもその生きづらさをお互いに語り合い、共感しあい、やがて生きていく力にしていこうと立ち上がる人たちは確実に出てきています。それが各地の自助グループです。僕もなんとか自分にあったそれを、今後見つけたいものと思っています。
僕もそうです。PDD-NOS(特定不能の広汎性発達障害)という診断名をもらっていても、もともとは20年近く対人過緊張や抑うつといったもっぱら精神的症状名のみで薬をもらい指導を受けていました。けれどもその根っこに発達障害があったことがわかって、改めて発達障害の特性をざっとおおまかに見てみると、僕のようなタイプとは別にアスペルガーと分類されるタイプやADHDと言われるタイプなどいろいろとあるんですね、これが。しかもそれぞれが重なっている場合もあるんだという。
そうすると、これに二次的障害を組み合わせればもう何万通りの特性、生物的社会的障害が存在することになる。なので発達障害という言葉ではもうひとくくりにできなくなってきて、最近ではこちらの障害の方は自閉症スペクトラム(色の階調、濃度といった意味でしょうか。虹にたとえると分かりやすいかも知れません。目に見えないか薄い辺縁の色からはっきりと目に見える色まである。)という名称にして、生物的社会的障害が大きいほどにその濃度が高いという捉え方が主流になろうとしているみたいです。
って、小難しそうに書きましたけどほんとは自分でも自分のことがよくわかってないんです。ただ僕の場合は対人関係が小さな頃から障害されているところがありました。なんでも割と率直に言ってしまって失敗。こちらが「相手にとっていいだろう」と思ってやってみたところが全然相手にとっては不快な話で、これまた失敗。言われたことを自分の中でいろいろと解釈し直してしまって考えに考えた挙句に出した答えが大失敗。目の前に確かにあるものが見えていない、言われたことをすぐ忘れる、自分では確かにこうした!と思っていたことが、なんと不思議なことに!そうなっていない。ので怒られたりする。もうそういう経験を嫌になる程してきました。
けれど診断を受けてだんだんと分かり始めてきたのは、自分が失敗をした時にそれが障害によるものが割とあるということ。なのでそれは自分が悪いというよりは、障害があるが故に仕方がないという解釈もできるということでした。これは厳しい障害感をもっている人にとっては聞き捨てならない!ことなのかも知れませんが、聞こえに障害のある人に対して「昨日、何度も話しかけたのに振り向いてもくれなかったね」と、その障害がわかっていて怒る人はまずいないでしょう。そういう奴は根性の腐っているやつか、よほどのうっかりさん(それも障害?)にしかいません。
だとすると、僕らは失敗をした時にそれが本当に自分が簡単に防げたことなのか、あるいは障害があるがゆえに簡単には防げなかったことなのかを区分けする必要があるように思います。でもそれが難しいんですよね。そしてもしも小さな頃から自己評価が低い場合、ここで「障害のせいにしてはいけないんだ。俺ができそこないだからいけないんだ」という気持ちに傾いていきます。
で、話が変わるようで変わらないようでどちらかわかりませんが、最近、各地で大人の発達障害者の自助グループがぽつぽつと出来始めているようです。以前にどうして大人の発達障害とわざわざいうのかという記事を書きました。そこでは子供の頃から「なんかおかしい、しんどいな」と思いながらも特に知能的に障害が見られないし、虚しさや悲しさや怒りを持ちつつもがんばってしまったりするので、医療分野で研究が進んだここ数年に至って発達障害のあることがわからないでいた人がたくさん見つかってきた、というようなことを書きました。
ただ、そんな状況なので社会的な理解もほとんど進んでいないし、お医者さんにかかっても、あるいは支援センターで一対一の面談をしても、どこか未消化なところが心に残る。おおまかな障害特性の分類はあって、おおまかな特性の説明はあっても、現実生活のいろんな場面で自分に起こる出来事に困惑することの方がはるかに多くて、やりきれなくなってくる。支援センターの相談員さんも今はおそらく相談者が多すぎてパンク状態に近いように思われます。
そこで自分たちで集まっていろんな体験や困りごとを話し合う場を作ろうという動きを起こす人たちが現れてきたんですね。さっき書いた「自助グループ」を作っている人たちです。
ネットでも「発達障害 自助グループ」といった言葉で検索をかけてみると、まだ数は少ないけれども全国にある程度実績のあるグループがあることがわかります。こうしたグループは、もしかすると地元にもすでにあるかもしれないので、その場合は発達障害者支援センターに尋ねてみると「こんなところがあるよ」とおしえてくれるかも知れません。たとえば僕が上の言葉で今検索をかけてみたら、たとえばこんな風なサイトが出てきました。
http://maminyan.com/asd/link/post-19.php
http://piasapo-japan.com/pia-groups
「発達障害あるある」という言葉があります。ふだん対人的に関わりの困難がある人も、自助グループで同じような特性を持った人と出会って話をしてみたら似たような経験をしていることが多い。なので「あー、それ、あるある」と、お互いによく理解ができるわけです。対人関係に困難があるはずなのに話がはずんでいたりする。
自助グループと一言でいってもそれぞれに特徴をもっているということで、大人数が集まるようなそれもあれば本当に少ない人数で集まるそれもあり、仕事をしているか、男性か女性かでグループをある程度区分けしてるようなところもあるかも知れません。あるいは年齢によっても(大人の、と一口でいっても20前後の人もいれば僕のように50を超えた人間もいますしね。)区分けをしているところもあるかも知れない。
知れない知れないばかりですが、実は僕自身、自助グループに参加した経験というのがほとんどないんですね、だからネットとかで得た情報のみでこれを書いているわけで、「知れない」星人になるのも仕方がないのです。
でも思うんですね、まず最初から参加費がえらく高かったりするところは常識としてやめといた方がいいだろうし、それから宗教が背景にあるような場合もやめといた方がいいと思います。とにかく、自助グループを続けていくだけのものを超えたことを要求してくるような場所は用心した方がいいでしょう。
もちろん、行政機関でも月々数万円の利用料を支払って住み込みで職業訓練をしていたりする例はありますし、民間でもそうしたところはあります。そうした正当な訓練や対人関係の取り方をまともに扱って実践しているところは別として(第一それは自助グループというよりはやはり訓練機関というべきでしょう。)、中には怪しげな民間療法のようなところもあるかも知れません(先に記したリンク先にそんなところがある、ということではありません。)。
なので一度、お試しで参加してみて、金線的にも気持ち的にもそれほど負担でないようなら続けてみるという程度の心持ちであればいいのかも知れません。でも多分最初はどんなに合ったグループに参加しても疲れることは疲れるでしょうね。それでも自分が気に入って続けられるところが見つかるのが一番だと思います。
僕はといえば、地元には自助グループがまったくなかったので隣の自治体のそれをネットで探して参加してみたことがあります。そしたら30人の大所帯で自己紹介もなくていきなりむつかしいお題を振られて順番に話すという、えらく無茶な会でした。でも自分で一生懸命考えて話していたら時間が長引いて注意を受けて、後で謝って、で、それでえらく傷ついた上にお茶もお菓子も出ずに千円の参加費をとられるのみという散々な目に会ったことがあります。ただ、一度そういう目にあっておくと、そこにはもう行かないと思えるし、今度は会費がないか少なくとも500円以内ぐらいで人数が少なくて話しても話さなくても許されるようなところがいい、なんて、自分なりの基準ができてきたりします。
大人の発達障害者の道はまだまだ険しい。これは間違いないです。なにせ一番最近「発見」されたような障害ですしね。「難病」と言われるものと似ているところがあるような気もします。けれどもその生きづらさをお互いに語り合い、共感しあい、やがて生きていく力にしていこうと立ち上がる人たちは確実に出てきています。それが各地の自助グループです。僕もなんとか自分にあったそれを、今後見つけたいものと思っています。
この障害は残酷やわ・・・と思う昨今。人を仕事にもつかせてくれない。小さな頃から、どこか周りとの違和感を感じてメンタルをやられながらもなんとか「食いついて」きた。なのにそれを誰も同情はしてくれない。逆に「甘え」だとか「なまけ」だとか言われて、「もっと努力しろ。障害があっても工夫して周りに調和せよ」なんてことを言われる。
これな、車椅子利用者に「がんばって立ってみろ、座らない工夫して作業しろ」と言ってるようなもんなのがわからんのかな。見た目はどこにも障害なんてないじゃないかってことで、「あいつに病院行く必要なんてあると思うか」なんて言われたことも何度かある。
まだ自分が精神障害者としての自己同一性を保とうと「努力」していた頃、家族会の母親から「あなたはうちの子よりもいい。どこでも行こう(働こう)と思えば行けるから。うちの子は・・ねぇ・・(症状が重いから働けないでしょ、あなたと違って。)」と言われたこともあるし、「うちの子と違ってうらやましい」なんて言われたこともある。そんなこと言われた息子や娘もかわいそうだろうと思う。
知的障害者に「本読んで勉強すれば人並みになれるよ、仕事ができるよ」って言うの?精神障害者に「見た目、普通じゃん。なんで薬なんか飲むの?ほんとに必要なの?仕事、できるんじゃないの」って言うのか。言えるのか。そうして発達障害者にはなおさら容赦のない言葉が投げられる時代だ。
僕は18歳の頃、父親のツテで初めてアルバイトをしたのが人からお金をいただく仕事をした最初です。大学一回のとき。でも、そこでやっぱり対人関係がしんどかったんですね。そもそも高校時代に友達が一人もできなくて、休み時間になると机に突っ伏して三年間を過ごしていたくらいだし、その反動からか、家では部屋でよく暴れた。そんな「青春時代」と呼ぶには未消化な時を過ごしてきて大学に入っていきなりバイトしてもやっぱり人との関係がどうもうまくとれない。本当に困りました。
そのバイトは家の近所で割と長い期間続く屋外作業だったので、途中で行かなくなってからはよけいに気まずくなり、まあ、あちらにしたら「なんで来ないんだ」っていうことだったとは思うけれども、いじめにもあったしね。おあいこだと思っています。飲めない酒を「県のこの分野ではえらい人なんだぞ。その人の前で飲めないのか」なんて言った罰!んなこと知るか。
二回生、19歳のとき、夏休み前にもう疲れ果ててしまって休学をしました。通っていた大学は地方の小さな大学。当時「カウンセリング」という言葉はあったけれど、大学にそんな体制もなく、教務課の何でも屋みたいなお兄ちゃんに休学したい旨話しにいったら、「おまえ、その服だって親に買ってもらってるんだろう。学費も払ってもらってるんだろう。がんばれないのか」と。
どあほ。服はバイトで自分で買っていたし、第一疲れて相談に行ってるのになんで説教なんだ。それこそ、メンタルをやられているのに「無駄な病院通いや薬を飲むのはやめてもっとがんばれよ」と言っているようなもんじゃないですか。今から思うと。
悔しいなあと思うのは、今、その大学のサイトを見るとそうした「対人に疲れた学生」がゆっくりできる場所が用意されていて、やがて「その原因について本格的に相談したい」と思うようになったら専門の方(心理士さん?)の部屋も併設されているのでそこで相談ができるらしい。そんな「居場所」、僕が大学にいた頃はなかったなあ。図書室が唯一ひとりで長くいてもおかしくない場所だったからよく図書室に「逃げて」いました。
休学が終わると20歳になっていたけれど、さて、次にどこへ行くあてもなし。不本意だけど当時はもう元の大学に戻るしかないと考えていた。だから戻った。戻ったものの、もう本当に居場所がないんです。一回生から二回生にかけていっしょだった人たちはすっかり大学に馴染んでいて、研究室に集ったりサークル活動を熱心に取り組んだりしている。戻ってきた僕にやさしく声かけしてくれるような人は少ないし僕もなるべく以前の関わりを避けるようになっていました。そんな僕に露骨に嫌な顔をする人もいましたね。傷として残っているなあ。
あの時、毎日うつむきながら、それでも大学に通いましたた。「エネルギーを空回りさせていたのかも知れませんね」とあとあとお医者さんからは言われたけれど、自分にはそんな日々を繰り返すことしか他に知恵がわいてこなかった。ビートルズの「let it be」が、なぜか頭の中でなんども再生されて・・・。だから僕にとっての「let it be」は若い頃のとてもつらかった時のことを思い出す歌。
ある日、帰り道、やっぱりうなだれて家路を歩いていたら中学時代にいっしょだった女の子に出会ったのです。その時彼女が言った言葉、今でも胸を打たれるなあ。
「好きなことをしている?」
彼女からしてみたらあんまりにもうなだれて暗い顔つきの僕の様子を見てよほど心配に思ってくれたんだろうなあ。
「好きなことをしている?」
なんにも答えられなかった。だってしていなかったしね。なんのために自分が大学へ通っているのかもわからなかった。苦役みたいなもの。大学の建物が監獄みたいに思えた。けれどもどうしていいのかわからなかった。
今でもわからないんですよ、正直いうと。自分が好きなこと。たとえば写真を撮るのは好きになった。たまーに外へ出て、自分がいいなと思う光景に出会ったらそれをスマホのカメラやコンデジや、気合いの入っているときには一眼レフで撮ったりする。
でもそうしている間にも、自分の生活のこと、将来(老後)のこと、目の前の親の医療や介護のことなんかが義務的に目前にある。こころに浮かんでくるわけです。そして周りを見渡すと、そんな自分を本当に真剣に心配してくれるのはほんの数人。親戚や兄弟はあてにはできない。
これまで正式に職についたこともない。始めに書いたアルバイト、その他、やっぱりアルバイト数件。人付き合いをあんまりしないで済むのでは・・・と期待して自分で選んでやった深夜勤務は何年か続いたけれど、そこでも周りからの「受け」はあんまり良くありませんでした。あの仕事を辞めたとき、本当に疲れ果てていたな。あの時(20代なかばになっていた)初めて親に「生きるのが疲れた」と言えた。そして精神科へとつながっていった。
でも精神科でもらった診断名は「対人過緊張」とか「抑うつ」とか。ちょっといじわるな精神科利用者だったら「鼻で笑われる」レベル。でも生活の質は決してよくありませんでした。その「落差」を先生に訴えるのだけれど、先生もちょっと困った様子で・・・。
福祉作業所を経て精神科の職親制度で一般事業所でのパートを数年。やっぱり疲れてやめてしまう。どうしようかなと思っていたら入っていた患者家族会の人から作業所の立ち上げを提案されていっしょにやってみた。すると今度は周囲から嫉妬の嵐。無給で会運営を手伝っていた頃は感謝と笑顔。いったん有給になったらそれがたいした額でなくても鬼のようになる親がいたりする。その人たちもまた、疲れきっているのだろうとは、今なら思うのだけど。
そして「おいしいところ」はそれまで会運営になどほとんど無関心だった人たちがぱっとさらっていかれて僕はまた職を失い、気が付いたら40代目前。親も倒れたりして健康に不安が出始める。それから、なぜか作業所時代に僕のことを見ていたという別の作業所の所長さんから誘いを受けてそこへ。
そこでもいろいろあって一般の事業所へとまた移るんですがやっぱり対人関係を初めとして仕事がうまく運ばない。集団の中で萎縮して動きづらくなる。会話ができづらいし、周囲の音にも混乱する。マルチタスクができない。電話を受けてもメモがとりづらい・・・一般の大きな事業所の慣例や役職といった制度に触れるのも初めてで戸惑いました。仕事内容も自分の不得意なことが多くて、効率が落ちて落ちて、障害者枠だからといってもそこでは初めての精神障害者としての採用だったので事業所側も何を配慮したらいいのかわからないという感じだったなあ。
そんな中、もう40代も半ばになって、職場の帰りにときどき寄っていた市民図書館に置いてある発達障害関連の本を読んでいた時に、「おやっ?この、人との関係のとりづらさから来る困り感・・・俺が小さな頃から感じてきたものとちょっと似ているな」と思うようになりました。これ、どうも気になる。それで先生にそれを話してみるも「そういう例は聞くこともあるけれどもねえ・・」とあまり取り合われる様子もなし。うーん、仕方がない。20代に一年ほど作業所へ通っていた頃、顧問医としてお世話になりずっと年賀状も下さっていた先生に連絡をして、いわば主治医の許可を得ない「セカンドオピニオン」を受けてみることにした。
幸い主治医とはつながりのある先生だったので主治医の了解も後で受けることができて、・・・というか、僕の言葉を受けて主治医もその可能性(発達障害の可能性)を考え出された様子で、一度「仕事の後に診察室へ来れますか」ととても焦っておられる様子だったので尋ねてみたら果たしてその疑いがあるから、とのこと。それで「実は勝手をして申し訳ないんですが・・・」と既にそちらの診察を受けだしていることを話したら、「ああ、それならいいんですが」と。でもなあ、初めての診察からそこに至るまで約20年。精神障害者としても「肩身の狭い思い」をし続けてきて、自分でも「これ、なんだろうなぁ・・・?」と、ため息吐き続けてきて、40代半ばの診断って。どうよ?と思う。
正直思ってしまいます。
「命の電話」にかけたら「あなた、家の寄生虫じゃないの?」なんていうアホなど素人「相談員」にも出会ったけれど、アルバイトや作業所にいっている時も必ず収入があれば家にお金は入れてきました。親が寝ているベッド、座っている椅子、テレビ、エアコン、冷蔵庫、洗濯機、乾燥機、カーペット、机、物干し室、その他もろもろ、車だって一度買ってもらったことはあるけれど、その他は中古の安いのを自分で買って乗り継いで、今は流行の背の高い、でも古い軽を、親の通院の送り迎えには最適だと思って購入して利用しています。日々の買い物はしづらいけれど家の中のこと、家事はだいたいやっている。
でも仕事をしていないのでお金は以前貯めていたものを取り崩していくばかりです。親の財布に手を突っ込む気にはならない。仕事をやりたくないわけではないので職業センターには相談に行くけれどもなかなかこの年齢になって自分の適正と生活リズムに合うものはありません。10年以上、自分ができることで家での作業を年に数度依頼し続けてくださる方があり、それは続けています。それが続けられているのは先方がこちらの事情を察してくださっているのと、ともかくも注文の通りには作って納めている信頼があるからだろうと思います。
先を見れば真っ暗な感じ。若い頃のことは未だにわるい夢になって出てきます。外に出ると人とのつながりはとっても希薄。なんだか違う星にいる気持ち。
でもこの障害のおもしろいところは、能力の突き出た部分を社会の要請に、仕事に活かせたら、それはそれでやっていけている人も多いということです。今の社会が人に「オールマイティ」を求めてくるので落ちこぼれてしまう場合もお多いけれど、中には比較的突き出た部分を生かしてやっている人もいます。
そして一番大切なのは自己評価の高さ。小さな頃から障害に気付かれずに集団の中で同じ行動を求められて傷ついてきた人は、これがとても低くなっている場合が多い。僕はそうでした。今でも自分なんかどうして生まれてきたんだろう、生きている意味なんかないとほぼ毎日思っている。一方で同じ障害名でも自己評価がとても高い人がいます。その場合は割とやっていけるように思うんですね。周りが何を噂していようといつもマイペース。比較的得意な分野で仕事を続けることができれば、割とやっていけるようです。事実、そうした人を一般の事業所でも見てきました。
さてさて、ちょっと今夏風邪がだいぶあやしくなってきてしんどいのですね、実は。だからその熱にうなされてえらく長文の愚痴を書いてしまいました。後できっと後悔するんだろうな。
これな、車椅子利用者に「がんばって立ってみろ、座らない工夫して作業しろ」と言ってるようなもんなのがわからんのかな。見た目はどこにも障害なんてないじゃないかってことで、「あいつに病院行く必要なんてあると思うか」なんて言われたことも何度かある。
まだ自分が精神障害者としての自己同一性を保とうと「努力」していた頃、家族会の母親から「あなたはうちの子よりもいい。どこでも行こう(働こう)と思えば行けるから。うちの子は・・ねぇ・・(症状が重いから働けないでしょ、あなたと違って。)」と言われたこともあるし、「うちの子と違ってうらやましい」なんて言われたこともある。そんなこと言われた息子や娘もかわいそうだろうと思う。
知的障害者に「本読んで勉強すれば人並みになれるよ、仕事ができるよ」って言うの?精神障害者に「見た目、普通じゃん。なんで薬なんか飲むの?ほんとに必要なの?仕事、できるんじゃないの」って言うのか。言えるのか。そうして発達障害者にはなおさら容赦のない言葉が投げられる時代だ。
僕は18歳の頃、父親のツテで初めてアルバイトをしたのが人からお金をいただく仕事をした最初です。大学一回のとき。でも、そこでやっぱり対人関係がしんどかったんですね。そもそも高校時代に友達が一人もできなくて、休み時間になると机に突っ伏して三年間を過ごしていたくらいだし、その反動からか、家では部屋でよく暴れた。そんな「青春時代」と呼ぶには未消化な時を過ごしてきて大学に入っていきなりバイトしてもやっぱり人との関係がどうもうまくとれない。本当に困りました。
そのバイトは家の近所で割と長い期間続く屋外作業だったので、途中で行かなくなってからはよけいに気まずくなり、まあ、あちらにしたら「なんで来ないんだ」っていうことだったとは思うけれども、いじめにもあったしね。おあいこだと思っています。飲めない酒を「県のこの分野ではえらい人なんだぞ。その人の前で飲めないのか」なんて言った罰!んなこと知るか。
二回生、19歳のとき、夏休み前にもう疲れ果ててしまって休学をしました。通っていた大学は地方の小さな大学。当時「カウンセリング」という言葉はあったけれど、大学にそんな体制もなく、教務課の何でも屋みたいなお兄ちゃんに休学したい旨話しにいったら、「おまえ、その服だって親に買ってもらってるんだろう。学費も払ってもらってるんだろう。がんばれないのか」と。
どあほ。服はバイトで自分で買っていたし、第一疲れて相談に行ってるのになんで説教なんだ。それこそ、メンタルをやられているのに「無駄な病院通いや薬を飲むのはやめてもっとがんばれよ」と言っているようなもんじゃないですか。今から思うと。
悔しいなあと思うのは、今、その大学のサイトを見るとそうした「対人に疲れた学生」がゆっくりできる場所が用意されていて、やがて「その原因について本格的に相談したい」と思うようになったら専門の方(心理士さん?)の部屋も併設されているのでそこで相談ができるらしい。そんな「居場所」、僕が大学にいた頃はなかったなあ。図書室が唯一ひとりで長くいてもおかしくない場所だったからよく図書室に「逃げて」いました。
休学が終わると20歳になっていたけれど、さて、次にどこへ行くあてもなし。不本意だけど当時はもう元の大学に戻るしかないと考えていた。だから戻った。戻ったものの、もう本当に居場所がないんです。一回生から二回生にかけていっしょだった人たちはすっかり大学に馴染んでいて、研究室に集ったりサークル活動を熱心に取り組んだりしている。戻ってきた僕にやさしく声かけしてくれるような人は少ないし僕もなるべく以前の関わりを避けるようになっていました。そんな僕に露骨に嫌な顔をする人もいましたね。傷として残っているなあ。
あの時、毎日うつむきながら、それでも大学に通いましたた。「エネルギーを空回りさせていたのかも知れませんね」とあとあとお医者さんからは言われたけれど、自分にはそんな日々を繰り返すことしか他に知恵がわいてこなかった。ビートルズの「let it be」が、なぜか頭の中でなんども再生されて・・・。だから僕にとっての「let it be」は若い頃のとてもつらかった時のことを思い出す歌。
ある日、帰り道、やっぱりうなだれて家路を歩いていたら中学時代にいっしょだった女の子に出会ったのです。その時彼女が言った言葉、今でも胸を打たれるなあ。
「好きなことをしている?」
彼女からしてみたらあんまりにもうなだれて暗い顔つきの僕の様子を見てよほど心配に思ってくれたんだろうなあ。
「好きなことをしている?」
なんにも答えられなかった。だってしていなかったしね。なんのために自分が大学へ通っているのかもわからなかった。苦役みたいなもの。大学の建物が監獄みたいに思えた。けれどもどうしていいのかわからなかった。
今でもわからないんですよ、正直いうと。自分が好きなこと。たとえば写真を撮るのは好きになった。たまーに外へ出て、自分がいいなと思う光景に出会ったらそれをスマホのカメラやコンデジや、気合いの入っているときには一眼レフで撮ったりする。
でもそうしている間にも、自分の生活のこと、将来(老後)のこと、目の前の親の医療や介護のことなんかが義務的に目前にある。こころに浮かんでくるわけです。そして周りを見渡すと、そんな自分を本当に真剣に心配してくれるのはほんの数人。親戚や兄弟はあてにはできない。
これまで正式に職についたこともない。始めに書いたアルバイト、その他、やっぱりアルバイト数件。人付き合いをあんまりしないで済むのでは・・・と期待して自分で選んでやった深夜勤務は何年か続いたけれど、そこでも周りからの「受け」はあんまり良くありませんでした。あの仕事を辞めたとき、本当に疲れ果てていたな。あの時(20代なかばになっていた)初めて親に「生きるのが疲れた」と言えた。そして精神科へとつながっていった。
でも精神科でもらった診断名は「対人過緊張」とか「抑うつ」とか。ちょっといじわるな精神科利用者だったら「鼻で笑われる」レベル。でも生活の質は決してよくありませんでした。その「落差」を先生に訴えるのだけれど、先生もちょっと困った様子で・・・。
福祉作業所を経て精神科の職親制度で一般事業所でのパートを数年。やっぱり疲れてやめてしまう。どうしようかなと思っていたら入っていた患者家族会の人から作業所の立ち上げを提案されていっしょにやってみた。すると今度は周囲から嫉妬の嵐。無給で会運営を手伝っていた頃は感謝と笑顔。いったん有給になったらそれがたいした額でなくても鬼のようになる親がいたりする。その人たちもまた、疲れきっているのだろうとは、今なら思うのだけど。
そして「おいしいところ」はそれまで会運営になどほとんど無関心だった人たちがぱっとさらっていかれて僕はまた職を失い、気が付いたら40代目前。親も倒れたりして健康に不安が出始める。それから、なぜか作業所時代に僕のことを見ていたという別の作業所の所長さんから誘いを受けてそこへ。
そこでもいろいろあって一般の事業所へとまた移るんですがやっぱり対人関係を初めとして仕事がうまく運ばない。集団の中で萎縮して動きづらくなる。会話ができづらいし、周囲の音にも混乱する。マルチタスクができない。電話を受けてもメモがとりづらい・・・一般の大きな事業所の慣例や役職といった制度に触れるのも初めてで戸惑いました。仕事内容も自分の不得意なことが多くて、効率が落ちて落ちて、障害者枠だからといってもそこでは初めての精神障害者としての採用だったので事業所側も何を配慮したらいいのかわからないという感じだったなあ。
そんな中、もう40代も半ばになって、職場の帰りにときどき寄っていた市民図書館に置いてある発達障害関連の本を読んでいた時に、「おやっ?この、人との関係のとりづらさから来る困り感・・・俺が小さな頃から感じてきたものとちょっと似ているな」と思うようになりました。これ、どうも気になる。それで先生にそれを話してみるも「そういう例は聞くこともあるけれどもねえ・・」とあまり取り合われる様子もなし。うーん、仕方がない。20代に一年ほど作業所へ通っていた頃、顧問医としてお世話になりずっと年賀状も下さっていた先生に連絡をして、いわば主治医の許可を得ない「セカンドオピニオン」を受けてみることにした。
幸い主治医とはつながりのある先生だったので主治医の了解も後で受けることができて、・・・というか、僕の言葉を受けて主治医もその可能性(発達障害の可能性)を考え出された様子で、一度「仕事の後に診察室へ来れますか」ととても焦っておられる様子だったので尋ねてみたら果たしてその疑いがあるから、とのこと。それで「実は勝手をして申し訳ないんですが・・・」と既にそちらの診察を受けだしていることを話したら、「ああ、それならいいんですが」と。でもなあ、初めての診察からそこに至るまで約20年。精神障害者としても「肩身の狭い思い」をし続けてきて、自分でも「これ、なんだろうなぁ・・・?」と、ため息吐き続けてきて、40代半ばの診断って。どうよ?と思う。
正直思ってしまいます。
「命の電話」にかけたら「あなた、家の寄生虫じゃないの?」なんていうアホなど素人「相談員」にも出会ったけれど、アルバイトや作業所にいっている時も必ず収入があれば家にお金は入れてきました。親が寝ているベッド、座っている椅子、テレビ、エアコン、冷蔵庫、洗濯機、乾燥機、カーペット、机、物干し室、その他もろもろ、車だって一度買ってもらったことはあるけれど、その他は中古の安いのを自分で買って乗り継いで、今は流行の背の高い、でも古い軽を、親の通院の送り迎えには最適だと思って購入して利用しています。日々の買い物はしづらいけれど家の中のこと、家事はだいたいやっている。
でも仕事をしていないのでお金は以前貯めていたものを取り崩していくばかりです。親の財布に手を突っ込む気にはならない。仕事をやりたくないわけではないので職業センターには相談に行くけれどもなかなかこの年齢になって自分の適正と生活リズムに合うものはありません。10年以上、自分ができることで家での作業を年に数度依頼し続けてくださる方があり、それは続けています。それが続けられているのは先方がこちらの事情を察してくださっているのと、ともかくも注文の通りには作って納めている信頼があるからだろうと思います。
先を見れば真っ暗な感じ。若い頃のことは未だにわるい夢になって出てきます。外に出ると人とのつながりはとっても希薄。なんだか違う星にいる気持ち。
でもこの障害のおもしろいところは、能力の突き出た部分を社会の要請に、仕事に活かせたら、それはそれでやっていけている人も多いということです。今の社会が人に「オールマイティ」を求めてくるので落ちこぼれてしまう場合もお多いけれど、中には比較的突き出た部分を生かしてやっている人もいます。
そして一番大切なのは自己評価の高さ。小さな頃から障害に気付かれずに集団の中で同じ行動を求められて傷ついてきた人は、これがとても低くなっている場合が多い。僕はそうでした。今でも自分なんかどうして生まれてきたんだろう、生きている意味なんかないとほぼ毎日思っている。一方で同じ障害名でも自己評価がとても高い人がいます。その場合は割とやっていけるように思うんですね。周りが何を噂していようといつもマイペース。比較的得意な分野で仕事を続けることができれば、割とやっていけるようです。事実、そうした人を一般の事業所でも見てきました。
さてさて、ちょっと今夏風邪がだいぶあやしくなってきてしんどいのですね、実は。だからその熱にうなされてえらく長文の愚痴を書いてしまいました。後できっと後悔するんだろうな。