発達障害についてはいろいろな姿、かたちがあって人によりその現れようは様々なようです。おおまかな区分けのようなものはあっても、それぞれが重なっている場合もあり、これに二次的障害も加わってくるとなると、個人によりその現れ方は「千差万別」という言葉そのものとなります。
僕もそうです。PDD-NOS(特定不能の広汎性発達障害)という診断名をもらっていても、もともとは20年近く対人過緊張や抑うつといったもっぱら精神的症状名のみで薬をもらい指導を受けていました。けれどもその根っこに発達障害があったことがわかって、改めて発達障害の特性をざっとおおまかに見てみると、僕のようなタイプとは別にアスペルガーと分類されるタイプやADHDと言われるタイプなどいろいろとあるんですね、これが。しかもそれぞれが重なっている場合もあるんだという。
そうすると、これに二次的障害を組み合わせればもう何万通りの特性、生物的社会的障害が存在することになる。なので発達障害という言葉ではもうひとくくりにできなくなってきて、最近ではこちらの障害の方は自閉症スペクトラム(色の階調、濃度といった意味でしょうか。虹にたとえると分かりやすいかも知れません。目に見えないか薄い辺縁の色からはっきりと目に見える色まである。)という名称にして、生物的社会的障害が大きいほどにその濃度が高いという捉え方が主流になろうとしているみたいです。
って、小難しそうに書きましたけどほんとは自分でも自分のことがよくわかってないんです。ただ僕の場合は対人関係が小さな頃から障害されているところがありました。なんでも割と率直に言ってしまって失敗。こちらが「相手にとっていいだろう」と思ってやってみたところが全然相手にとっては不快な話で、これまた失敗。言われたことを自分の中でいろいろと解釈し直してしまって考えに考えた挙句に出した答えが大失敗。目の前に確かにあるものが見えていない、言われたことをすぐ忘れる、自分では確かにこうした!と思っていたことが、なんと不思議なことに!そうなっていない。ので怒られたりする。もうそういう経験を嫌になる程してきました。
けれど診断を受けてだんだんと分かり始めてきたのは、自分が失敗をした時にそれが障害によるものが割とあるということ。なのでそれは自分が悪いというよりは、障害があるが故に仕方がないという解釈もできるということでした。これは厳しい障害感をもっている人にとっては聞き捨てならない!ことなのかも知れませんが、聞こえに障害のある人に対して「昨日、何度も話しかけたのに振り向いてもくれなかったね」と、その障害がわかっていて怒る人はまずいないでしょう。そういう奴は根性の腐っているやつか、よほどのうっかりさん(それも障害?)にしかいません。
だとすると、僕らは失敗をした時にそれが本当に自分が簡単に防げたことなのか、あるいは障害があるがゆえに簡単には防げなかったことなのかを区分けする必要があるように思います。でもそれが難しいんですよね。そしてもしも小さな頃から自己評価が低い場合、ここで「障害のせいにしてはいけないんだ。俺ができそこないだからいけないんだ」という気持ちに傾いていきます。
で、話が変わるようで変わらないようでどちらかわかりませんが、最近、各地で大人の発達障害者の自助グループがぽつぽつと出来始めているようです。以前にどうして大人の発達障害とわざわざいうのかという記事を書きました。そこでは子供の頃から「なんかおかしい、しんどいな」と思いながらも特に知能的に障害が見られないし、虚しさや悲しさや怒りを持ちつつもがんばってしまったりするので、医療分野で研究が進んだここ数年に至って発達障害のあることがわからないでいた人がたくさん見つかってきた、というようなことを書きました。
ただ、そんな状況なので社会的な理解もほとんど進んでいないし、お医者さんにかかっても、あるいは支援センターで一対一の面談をしても、どこか未消化なところが心に残る。おおまかな障害特性の分類はあって、おおまかな特性の説明はあっても、現実生活のいろんな場面で自分に起こる出来事に困惑することの方がはるかに多くて、やりきれなくなってくる。支援センターの相談員さんも今はおそらく相談者が多すぎてパンク状態に近いように思われます。
そこで自分たちで集まっていろんな体験や困りごとを話し合う場を作ろうという動きを起こす人たちが現れてきたんですね。さっき書いた「自助グループ」を作っている人たちです。
ネットでも「発達障害 自助グループ」といった言葉で検索をかけてみると、まだ数は少ないけれども全国にある程度実績のあるグループがあることがわかります。こうしたグループは、もしかすると地元にもすでにあるかもしれないので、その場合は発達障害者支援センターに尋ねてみると「こんなところがあるよ」とおしえてくれるかも知れません。たとえば僕が上の言葉で今検索をかけてみたら、たとえばこんな風なサイトが出てきました。
http://maminyan.com/asd/link/post-19.php
http://piasapo-japan.com/pia-groups
「発達障害あるある」という言葉があります。ふだん対人的に関わりの困難がある人も、自助グループで同じような特性を持った人と出会って話をしてみたら似たような経験をしていることが多い。なので「あー、それ、あるある」と、お互いによく理解ができるわけです。対人関係に困難があるはずなのに話がはずんでいたりする。
自助グループと一言でいってもそれぞれに特徴をもっているということで、大人数が集まるようなそれもあれば本当に少ない人数で集まるそれもあり、仕事をしているか、男性か女性かでグループをある程度区分けしてるようなところもあるかも知れません。あるいは年齢によっても(大人の、と一口でいっても20前後の人もいれば僕のように50を超えた人間もいますしね。)区分けをしているところもあるかも知れない。
知れない知れないばかりですが、実は僕自身、自助グループに参加した経験というのがほとんどないんですね、だからネットとかで得た情報のみでこれを書いているわけで、「知れない」星人になるのも仕方がないのです。
でも思うんですね、まず最初から参加費がえらく高かったりするところは常識としてやめといた方がいいだろうし、それから宗教が背景にあるような場合もやめといた方がいいと思います。とにかく、自助グループを続けていくだけのものを超えたことを要求してくるような場所は用心した方がいいでしょう。
もちろん、行政機関でも月々数万円の利用料を支払って住み込みで職業訓練をしていたりする例はありますし、民間でもそうしたところはあります。そうした正当な訓練や対人関係の取り方をまともに扱って実践しているところは別として(第一それは自助グループというよりはやはり訓練機関というべきでしょう。)、中には怪しげな民間療法のようなところもあるかも知れません(先に記したリンク先にそんなところがある、ということではありません。)。
なので一度、お試しで参加してみて、金線的にも気持ち的にもそれほど負担でないようなら続けてみるという程度の心持ちであればいいのかも知れません。でも多分最初はどんなに合ったグループに参加しても疲れることは疲れるでしょうね。それでも自分が気に入って続けられるところが見つかるのが一番だと思います。
僕はといえば、地元には自助グループがまったくなかったので隣の自治体のそれをネットで探して参加してみたことがあります。そしたら30人の大所帯で自己紹介もなくていきなりむつかしいお題を振られて順番に話すという、えらく無茶な会でした。でも自分で一生懸命考えて話していたら時間が長引いて注意を受けて、後で謝って、で、それでえらく傷ついた上にお茶もお菓子も出ずに千円の参加費をとられるのみという散々な目に会ったことがあります。ただ、一度そういう目にあっておくと、そこにはもう行かないと思えるし、今度は会費がないか少なくとも500円以内ぐらいで人数が少なくて話しても話さなくても許されるようなところがいい、なんて、自分なりの基準ができてきたりします。
大人の発達障害者の道はまだまだ険しい。これは間違いないです。なにせ一番最近「発見」されたような障害ですしね。「難病」と言われるものと似ているところがあるような気もします。けれどもその生きづらさをお互いに語り合い、共感しあい、やがて生きていく力にしていこうと立ち上がる人たちは確実に出てきています。それが各地の自助グループです。僕もなんとか自分にあったそれを、今後見つけたいものと思っています。