ピグ充日記〜発達障害のある大人がリア充を目指すページ〜

ピグ充日記〜発達障害のある大人がリア充を目指すページ〜

実はピグはずいぶんご無沙汰。ここは発達障害のある大人がリア充を目指すページに生まれ変わりました!


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人が生まれてからの基本の性格って楽観的で笑うのが好きなことだと「ふつう」の子供をみてずっと思ってきたのですが、自分の場合は小さな頃のとても楽しかった経験だとか思いっきり笑ったことだとかが、他のこころに冷たかった経験に邪魔されてあんまり浮かんできません。

 

今でも覚えている、人生の最初に一番こころに冷たかった経験というのは、節分の夜、自宅の前のお寺で豆まきがあったときに友達といっしょにいたら狭い道を自動車が通ってきた。友達たちがその車体に触れて押すような仕草をしていたのを真似て最後に自分がそれをしたらどこかのおじさんに「そんなことしたら、危ないやないか!」と見下げられる格好で大声で怒られたことです。

 

このことがあってからもうお餅がまかれようがそれを拾えようが、とても悲しくなって泣きたくて仕方がなかった。けれどそれは「楽しい夜」のはずです。僕は泣かなかった。家に入って台所の方から親に「お餅、拾えたか?」と聞かれても、悲しくて悲しくて、こころが冷えて冷えてどうしようもなかった。親にはうつむきながら「うん」と答えるしかなかった。まだ弟が生まれる前だったかと思います。

 

あのとき感じた悲しみが大人になってからも何かあるたびによみがえり続けました。僕の基本的性格には幼児期からの幼い喜びや楽しみよりは「かなしみとおびえ」が存在するようになった。

 

幼児期からの「うつ」というものがあるのかどうか知りませんが、小さな頃からよく「厭世観」を感じました。「自分がいても仕方がない」「もう何もかも遅すぎる」というような感情が何かにつけて出てきます。時にそれは子供にとっては必ず幸せなはずの瞬間にも感じられたので困りました。

 

この間犬の散歩をしているときにふと小学校のときのある場面が浮かんできました。先生が教卓に何か文書を開いてみんながそれをのぞいてはワイワイ話をしている。集団が苦手だった自分はその中に入ることなくしばらく遠回しに様子を見ていましたが、やっぱり興味はあったので隙間からちらっとその文書を見たら、どうやらクラスの中の子供の関係を図に表した、相関図のような気がしました。

 

その中の自分の名前はすぐに見つけることができた。いろいろな人の枠組みからずっと離れて、紙の下の方にひとりだけぽつんと名前があったのです。僕はそのとき、そのことについて最初はなんのことかわからなかった。というより、もしかするとそれは自分が何か優れた面があって、だから「ずば抜けている」印として皆から離れていたのかなと、逆にちょっとうれしくも思ったりしたものでした。でもその記憶がずっと頭にとどまっていて、その頃の先生の僕に対する態度があまりよくなかったことを思い合わせていくうちに、あれは自分がクラスの中でずば抜けて!馴染めていないことを表していた相関図だったのだと思い直すようになりました。

だとすると先生としてはひどい仕打ちだなと思ったものだし、今も思っています。

 

あの頃、小学校に上がって集団生活にひどい緊張を覚え、毎日しんどい思いをしながら学校へ行っていたあの頃、「もっと人と馴染め」「集団にとけ込め」ではなくて、それを受容的に受け止めてもらい何か配慮をしてもらえていたなら(たとえばそれは僕のあんまりなかった「得意なこと」を褒めてもらうというようなことだけでもよかった。)、僕の生き方、考え方も、もう少し余裕ができ楽観的なところができていたかも知れない。

 

けれど当時「子供のうつ」とか知的障害のない発達障害とか、そんな概念のないあの頃、僕のような子供の存在は「矯正」すべきものだったのだと思います。その後、数少なかった僕に近づいてきてくれる子供も次第に離れてしまったり離れられてしまったりし、高校に上がるともうまったく友達を作るというような気持ちにもならず、近寄ってきてくれる子もなく、授業だけ受けるけれどもあとは机につっぷしているような「青春」時代でした。

 

というようなことを、今久しぶりにまたあの悲哀感を感じながら書いています。


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前のブログを書いてからもう一ヶ月も立ったのか!という感じです。この分で行くとやろうと思っていることをやり終えない間にすぐ年末がやって来そうです。

 

とりあえずやっておかないといけないことはなんとかこなしているつもりです。昨日は喪中はがきを出しました。役所の手続き書類も記入して直接提出してきました。車の保険の更新手続きもしました。あと、一番大切な仕事探しが待っているのですが、これは人の助けを借りながら現在進行中です。主治医から「また状況を知らせて下さいね」と言葉を頂いたのですが、入るのには難しそうな感じがするのでどうもあまりいい結果をお知らせできそうにない気がします。けれどともかく進めていくつもりです。

 

僕は抗うつ薬とあまり相性がよくありません。もう20年以上精神科にかかっていますが抗うつ薬を飲んでとても効果があった!という経験をしたことがあまりない。これまでで一番お世話になっていたのははるか昔の初診の時に頂いたデパスという抗不安薬です。これは最初は効き目を感じなかったけれどどうしてか30代の後半ぐらいからだったか、突如ものすごく効き目を感じるようになったお薬です。

 

以来、多少心に冷たいことが起こってもデパスがあればなんとか乗り切れるとも思うようになりました。ただ効き目を感じるのが速くて強い分、それが薄れて行くのも速くて、次第に一度に飲む錠数が増えていきます。「耐性」というのでしょうか、そのお薬の効果を感じられる期間がだんだん短くなってくるのでまたそれを求めて飲む期間が短くなり量も増えてくる。それでもしまいには効かなくなって来てしまっていました。

 

それでもうデパスには頼れなくなりました。さて、どうするか。

今年は春からずっと自分にとってこれまでで最もつらく、思い詰めることの多い年になりました。自分の先行き、親の健康のこと・・・いろいろと相談もするのですが決定的な解決策がすぐに出てくるはずもなく気持ちはすごく焦っていました。父親のなくなったときにはともかくやるべきことをしないといけないので気を張っていましたが、一連のことが終わった後、再び焦りの気持ちがこころを覆い始めました。そしてやたら眠る時間が増えた。

 

それで先生に試しに、これまで相性の悪かった抗うつ薬を処方してもらうことにしました。すると飲み始めてしばらくして自分のそれまでの思い詰めた感じがやや緩和されてきているような気がしました。そしてこれまで抗うつ薬を飲んだ時に感じたような嫌な副作用も感じない。

 

睡眠時間はいっそう増えています。もう自分でも驚くくらい寝ている時間が長いのです。けれど先生によれば「もっと寝て下さい」ということなので最低限の用事をする以外は眠っていてもいいということにしました。幸い季節は秋から寒い冬に向かっています。冬眠するにはぴったりな時季です。もし仕事の話が進んだらそうはいかないのかも知れませんが、そうでないのであればこの冬は冬眠の期間と考えてもいいのではないかと思っています。


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ここもせめてひと月に一度くらいは更新したいものです。

 

けれども今はあんまり元気が出てきません。

この春から夏にかけて、父親が調子を崩して入院してなくなるまで。母親が足の骨を折ってやはり入院して出てくるまで。その後、父親に関する一連の儀式やら一応整えるべき物を整えたりやら、決まった手続きごとなどをしている間にエネルギーをだいぶ消耗したみたいです。時期を限られて、まだやるべきことも残っています。なので本来は今こそいっそうがんばらないといけない時期なんですが・・・。

 

人がなくなってからいろいろとしなくちゃいけないことがあるというのは、それによってのこった者が喪失感でつぶされないためだという「説」を何度も聞かされてきた気がします。でも一概にそうとも言えないのではないかなあ。

 

たとえば僕は親族づきあいが苦手です。それは子供の頃からそうでした。大人になってからは本当に不幸が出来たときぐらいしか出会うことはなくなった。その不幸が今回うちでおこりました。なので苦手なコミュニケーションの力を無理矢理出してがんばらなくてはいけなかった。「ふつうの人」のがんばりとはまた違うがんばり方をしていたように思います。今は生活のリズムが大きく狂っていて体調もわるいです。

 

今回は弟のようなほんとうの身内が支援をしてくれたからなんとか乗り切れた。これがもしすべてひとりで乗り越えなくてはいけないことだったら、「儀式はのこされた者のためにある」というようなのんきなことは言っていられなかったのではないかと思います。

 

だいたい発達障害も、僕の場合はそのスペクトラムの濃さがやや中途半端な位置にあるようだと思っています。なので浅い付き合いであれば「ふつうの人」に見えるのに対して、日常的に関わりだしてみると「なんだかおかしな人」となり、自分でも孤立感に苛まれるようになります。それは幼い頃からの自己肯定感の低さともつながってきました。

 

この障害の「中途半端さ」は、障害されている部分が広くて誰にもそうとわかるのと、実は同じ程度にしんどい話ではないかと思うようになりました。そして、むしろ社会的な制度を使ってでも自分に障害があることを証明できる手段をもっておくことがより必要なのかもと思うことがあります。それは障害者手帳をもつとか、可能であれば年金を受けられるようにするなどです。

 

もちろん選択の自由というものはあります。けれど社会的証明がないとどうにも生きづらい、やりにくいという場合もあると思います。障害者枠で働くにしてもその賃金は現状たいてい低い。できれば上乗せがあれば助かります。支援についても、スペクトラムの度合いが低いと何につけ後回しになりそうな感じがしてきました。けれどいったん診断を受けて社会生活に支障をきたしているのなら、あまり支援について「遠慮」してはいけない。

 

むしろ積極的に仕事も紹介してほしい。日常できることをいっしょに考えてほしい。相談のための相談にならないようにしてほしい。障害の度合いというのには狭い意味と広い意味とがあると思います。狭い意味でいえば「スペクトラムの濃さ」ということがあります。けれど広い意味では生活上の障害ということがあります。スペクトラムの度合いが濃くても積極的に外に出て行けて自己肯定感が強い人もあれば、度合いが薄くてもひきこもりがちになる人間もいます。僕は後者です。こうなると仕事ひとつ探すのでも自分一人ではなかなか難しいことになります。

 

要するに広い意味での障害の度合いというものは、スペクトラムの濃度とは関係がないということです。

・・・と、ここまで書くのにすごく時間を使ってしまいました。


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父を亡くしました。

 

まあ、もう年齢的にはそういうことになっても決しておかしくはなかったのです。けれど家から独立して過ごした経験がほとんどなかった自分にとっては、父と過ごしていた時間が長かった分、まだ自分が十分若いのに不意にその存在を亡くしたというのに近い感覚があります。

 

父の病状が悪くなっていってからは文章を書くこともなくなっていました。しかし「言語性優位」の自分としては?書き記すことが自分の存在を確かめる手段ともなってきたので、今はあんまり書く気力も起こってはこないけれども、ここで「ウォーミングアップ」的に、何の考えもなく書いてみてもいいかもしれないと思いながらこれを記しています。

 

振り返ればこの20年近く、いろいろなものを失ってきました。精神の関連で繋がっていた人たちの存在、社会に対していこうという気概、そして自分の若さ。

 

どうして繋がっていた人たちとのそれを切ってしまったのか。別に自分が仕事上での利益がなくなったからとか、発達障害だとわかったからだとかではありません。それまでの友達としての繋がりが、仕事としてそれに関わり出したことで変質し出して、むしろ変えていかざるを得なくなって、そのようにしていたらいつの間にか僕が自分から離れていったと捉える人が出てきた。

 

嫉妬も受けた。暴力もあった。人をかばうのにエネルギーを使うこともあった。ともかく精神で繋がってた人たちとのそれを切らなければ、大げさかもしれないけれど自分に身の危険を感じることもあったのです。そしてそれまでの気概を失った。自分を守ることだけを考えるようになり、仕事を辞め、全く違う場所へと移って違うことをして生きていく。自分がそこから離れて会わないようにすることでその人たちの心にも安定してもらう。それが大切かなと考えたのです。

 

それからはただ怯えて暮らすだけの時間を過ごすことが多くなりました。そして必然的に、その背景を知らない人からは批判されるようにもなった。まあ、表面上はちょっと仕事をして利益を得たのにすぐに辞めてしまった無責任な人、ですからね。色々と不満をためられたのも無理はなかったろうと思うけれども、自分としては逆にいろんな利益を捨てて周囲の人の気持ちの安定を考えたのに、なんだか不当な気持ちが今もあるのは確かです。けれどもそれを上回って人というものが怖くなりました。

 

もともとが人の気持ちを読むということが苦手なものだから、表面とは全く違うことを思っている場合が人にはあるのだということが形としてはっきりとわかったこの20年近くでもありました。

 

人生の中で中核的なこの時期を、人との繋がりを失くしながら、なすべきことを見失いながら過ごしてしまったことを、今は残念に感じています。


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ここのところずっと追いつめられた気分でいます。追いつめられた時にはそれに対処するということを前に書いていました。そして自分の場合、それは文章を書く、それもネット上に公開してということも書きました。

 

けれどその事実を書くこと自体がつらい、しんどいということもあります。

 

じゃあ、ちょっとそんな事実より「マシ」な、それでもつらいことを書いてみることにします。

この春から人から気になる言葉を受けることが何度かありました。それは平日の昼間に外に出ていると

 

「今日はお休みですか?」とか、もうそのままストレートに「あれ、平日の昼間なのにいらっしゃる?」とか言われたのです。

 

あかんのか!平日の昼間に成人男性が仕事場以外の場所にいたら!

 

確かにお金になるようなことはしていません。でもそれがなんだというのでしょうか。相手に迷惑をかけることになるのか。そんなことはまったくありません。どちらも体調不安定な父親のそばにいただけです。生産的ではないかも知れないけれど、健康不安のある親のそばでその様子や行動に注意もしている状態なわけです。それがさも不思議そうに言われる。

 

たとえば今、父親が身体的に大きな不具合を負っていて車いすで行動しているとします。そしてそれを介助しないとなかなかやりたいことができないということが周囲にもよくわかるような場合なら、

 

「ああ、この人は親の介助のために仕方なく仕事を休んでそれに付き添っているんだな」

 

と、理解される可能性はある。でも見かけ上親の行動に不具合はなさそうだ。話すこともできる。なのになんで昼間から息子がそばにいるんだ・・・とそんなところなのでしょう。

 

これは精神障害者や発達障害者のおかれている状況とも似ている気がします。

見かけ上は不具合はないように思える。じゃあ、働いていて当たり前だろう!と言いたいわけです。

 

これを僕らは小さな頃からやられてきたわけです。今のように療育が発達してきている時代では到底ありませんでした。周りと違う行動をとると怒られたり奇異な目で見られる、なじられる、軽蔑される、いじめられる、そんな時代でした。僕がPDD-NOSという診断名をもらったのはようやく40も半ばになってからのことでした。もうその時点で相当くたびれていたのです。からだもこころも。

 

ゴムのひもは伸びきっていた。

 

小さな頃から「どうしてこんなに悲しいのだろう」「どうしてこんなに後悔するんだろう」「どうして人から軽蔑されるんだろう」「どうして人と同じ力が発揮できないんだろう」

どうして、どうして・・・を繰り返して来て、

 

大人になっても普通に職につけない。やっと(!)精神障害者という名称を与えられて、それをフォローするための試し仕事みたいないものに就いたり、けれども継続的なフォローというものはなく、あとは医者任せだったりしたので、満足な職業生活というものを送れた時期はこれまで本当に短い期間しかありませんでした。なんで若い頃の一時期だけフォローして、あとはその人間を放ってしまうんでしょうね、行政は。

 

家に金があり、一般の事業所へなど行く必要もなく、それでもぶつくさいつも言って来る人間はずっと相手をするのに、フォローから外されても文句を言わずになんとか自分の道を探り探りやってきた人間は相手にされず忘れ去られる。

「あの人ならあの人にふさわしいところに行けるでしょう」

と放られる。

 

決してそんなことはないんです。たどり着くところすべて、福利厚生などもなく賃金も低く、将来の保証もないような場所でなんとかその場しのぎに生きて来た。そうして年齢を重ねてから、どうしてそうなのかという本当の原因がわかる。けれどもその時にはもう自分のこころのゴムは伸びきっているのです。生きることに疲れている。

 

そして親は高齢になってきます。からだのあちこちに不具合が出て来る。病院にも付き添わないといけない。診療所に連れて行かないといけない。時に入院する必要も出て来たりする。ただでさえ疲れやすいのに、からだも気持ちも疲れることが多くなり、しかもその内容は深刻になってくる。

 

自分の先行きも心配だけれど、ともかくも目の前の親の健康にも気を配らないといけなくなる。年齢的に障害に配慮のあるような事業所を見つけることもむつかしくなっている。じゃあ、家にいて自分を休ませておくことと、親のからだに気を遣うことぐらいしか、もう一人では考える限界になるのは、ふつうではないか。

 

それを子供の頃からのうのう、のほほん、まっすぐに生きてきて、経済で困ることもなくいい環境を与えられ、友達にも恵まれ、気持ちよく学校生活を過ごし、本人が思っているところのまともな職業生活を送っているらしい人間から、なんで「平日なのに・・・」などと説教調に指摘されないといけないのか。

 

俺とからだとこころを入れ替えてみよ、などと傲慢なことは言うつもりはありません。でも人はそれぞれだと思うのです。様々な背景が人にはあって、でも、お金や仕事というキーワードはそんなことを吹き飛ばす威力をもっているようです。「平日には仕事場にいなければいけない」という制度を、人は今大切に思っているわけですね。そうしないと生活ができない、家族を支えられない、将来が保証されない・・・

 

できればそんな風潮にのってみたい。そう思うくらいです。けれどそれができないゴムの伸びきった人間は、平日の昼間、家にこもってしまうか、いっとき犬の散歩をするか、親の様子をみているか、「ぐらい」しかできないのです。そしてそれは小さな頃から周りの風潮になじめなかっった自分をずっとこれまで引きずって来た結果なのです。小さな頃から疲れてきた果てに、やっていることなのです。

 

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