瀬川爾朗blog -31ページ目

花巻空港随想

私ども、在京人は羽田空港、成田空港にはしばしばお世話になり、生活必需品のごとく感じている訳ですが、

岩手県唯一の本格的空港である花巻空港については何となくご無沙汰している感があります。

ところが最近、たまたま花巻空港に着陸する経験をし、色々な思いが込み上げてきました。



私は仕事の都合でよくヘリコプターに乗ります。

ヘリコプターほどおもちゃじみた乗り物は無い、と思うのですが、そのおもちゃがいかに強くいかに安全であるかは驚くほどです。

15-16世紀のレオナルド・ダ・ビンチの絵にある空飛ぶ機械がそのまま今使われているのではないかと思うほどです。


ヘリコプターは一般の飛行機よりも小さいので、小さな飛行場やヘリポートを使う事が多く、地方の飛行場には良く行きます。

飛行場は小さいものでも一望に見渡せる1000~2000mの空間ですから、やはり大きい。

それの建設と維持管理には多大のお金がかかっていることは一目瞭然です。

ただ、地方空港は1日2~3往復の場合が多い為、航空機の離着陸時の30~40分を除くと、ほとんど人がいないということにも驚かされます。

空港にヘリコプターが入る時には、小型機専用離着陸場へ行く事になりますが、この場所もまたかなり寂しい所です。


一方、最近の空港は大変に警備が厳しく、誰もいない場所で警備員の歩哨が立っています。

トイレに行きたいと言うと、トイレまで付いてきてくれます。

この時のヘリコプターには、岩手県人として乗ったわけではないのですが、事務所の方に中尊寺の写真の入った希望王国いわて文化大使の名刺をお渡ししたところ、大変表情を和らげて受け取っていただきました。



ああ、やはりここは岩手県の空港なのだと改めて親近感を持った次第でした。

菊池雄星君の成長を願って

3歳にして神童、12歳で凡庸(ぼんよう)、20歳の秀才、30歳のぼんくら。

このような譬話(たとえばなし)は昔からあり、子供から大人にかけての人材作りが、いかに難しいものであるかを物語っている。



さて、岩手県人会としても関心を持たざるを得ない快事は、甲子園球児 菊池雄星 君が岩手の高等学校から飛び出てきたことである。

花巻東高校が甲子園で準優勝を遂げたことは岩手県として近年まれなる快挙である。

また、それ以上に最近の投手としての雄星君の評価は、マスコミでは抜群であるように見える。

おそらく、2~3歳の子供を抱えた親御さん達は、皆、あのような優れた子をどうやって育てたのだろうかと大いなる関心を持つ。


天才は10歳台であらわれると言われるが、本当に大成するのは、やはり20歳台から30歳の時期である。

この時期に人の評価がほぼ定まる。

一流大学に合格した若者がその後、人生の目標を失うのもこの時期である。

日本では、大学在学中の勉学がとかく疎かとなり、卒業の時期には外国の学生に大きく後れを取ると言われている。


一方、マスコミが人をだめにするとも言われている。

マスコミは突出した人間を大いに世に知らせるという点では大きく貢献している。

しかしその度が過ぎ、その人を甘やかすが故に、成長を止めてしまうという災厄がある。

おそらくマリナーズ外野手のイチロー選手などは、そのことを心得ていて自戒としているのではないだろうか。



最近の日本政治の大きな流れは、地方の再興である。

これはまた我々県人会の目的でもある。

地方は国の懐(ふところ)である。

懐の深さが国の潜在力を維持することを鑑(かんが)みれば、さまざまなフィールドでの第2、第3の雄星君を生み出していきたいものである。

若い君たちへの期待


岩手県人連合会の構成メンバーを見ると、どう見てもその平均年齢が高い。

ざっと見て、高齢者プラス後期高齢者である。(私も)

どうして、こんな事になったのか?



これに加えてもう一つ面白い現象は、岩手県人連合会や、その構成ふるさと会の参加者が創設当初には、ものすごい人数を算えたことである。

岩手県人連合会の第一回総会には900名、第二回総会には2500名が集まり、日大講堂(旧国技館)を借りて行うことになったそうである。

各ふるさと会の場合も同じような傾向であったと聞く。

創設から数年たつと、潮が引くように参加者が減り、数100名、場合によっては数十名まで落ち込む。


この現象は、不思議でもあり、一方で世相を見事に表しているとも言える。


ふるさと会との関わりについては、人によって千差万別であろうが、まず自分はどうだったのかと振り返ってみたい。

1975年に岩手県人連合会が創設されたことはまだ30歳台であった私には何も伝わってこなかった。

海外出張が多く、職場では上司と部下の間に挟まれて大変に忙しく、また、ある意味では満たされていた。

18歳で岩手県を飛び出して以来、東京での生活を充実させることが、ほぼ私の全ての思いであったと思う。

この年齢のときにはふるさと会どころか、同級会なども全く開かれず、田舎とのつながりは、盆正月に家族ぐるみで実家に転がり込む事だけであった。



50歳台になって、ふるさと会との関わりに転機が訪れた。


突然、当時の釜石市長と釜石はまゆり会会長が私に会いたいと言ってきた。

要件は、釜石はまゆり会の会長を引き受けてくれという事であった。

この事が私を強く動かしたわけでもないのだが、『釜石から頼まれたのだから』という、単純な理由でお引き受けし、50歳を過ぎて初めて自分のふるさと会に対する目が開けたのであった。


当時の釜石はまゆり会は、釜石への企業誘致に関わる情報収集を第一義とし、その親睦はその次であった。

時代は釜石からの新日鐵の撤退が暗くのしかかっていた頃である。

岩手県人連合会への加入はしていたが、殆ど出席する事はなかったようだ。

私も当時の連合会の幹事会などに偶に出席したものの、何か議場が険悪で、

いたたまれず抜け出したという記憶がある。


こんな訳で、少し前までは、私の周辺は岩手県人連合会にとって好ましい状態ではなかったように思う。

自分のこのような経歴を反省するとき、岩手県人連合会に対する関心を高めるという問題は、安易ならざる事のように思われる。


一度、岩手を跳び出した人間の心を再び岩手に取り戻すには機を待つことが必要である。

また、時間と心のゆとりも必要だろう。

創設時のふるさと会の時だけは特に多くの人が集まるという事、そして、その後は離れてしまうという事、この理由はじっくりと推敲する必要がある。


スーパーマーケットが新規開店の日だけ人だかりがするという事にも似ているところがある。


かすかな期待と、その後にくる失望と。




県人会の老齢化を防ぎ、若者にとっても魅力のあるものにしようとするとき、

若者が接しやすい形で情報を提供する事、

また、若者独自の発想を取り入れ、県人会の中で一仕事をやっていただく事、

郷土との絆の再構築ができる土俵を提供する事、


かかる方向の環境作りが必要なのだろうか。