若い君たちへの期待
岩手県人連合会の構成メンバーを見ると、どう見てもその平均年齢が高い。
ざっと見て、高齢者プラス後期高齢者である。(私も)
どうして、こんな事になったのか?
これに加えてもう一つ面白い現象は、岩手県人連合会や、その構成ふるさと会の参加者が創設当初には、ものすごい人数を算えたことである。
岩手県人連合会の第一回総会には900名、第二回総会には2500名が集まり、日大講堂(旧国技館)を借りて行うことになったそうである。
各ふるさと会の場合も同じような傾向であったと聞く。
創設から数年たつと、潮が引くように参加者が減り、数100名、場合によっては数十名まで落ち込む。
この現象は、不思議でもあり、一方で世相を見事に表しているとも言える。
ふるさと会との関わりについては、人によって千差万別であろうが、まず自分はどうだったのかと振り返ってみたい。
1975年に岩手県人連合会が創設されたことはまだ30歳台であった私には何も伝わってこなかった。
海外出張が多く、職場では上司と部下の間に挟まれて大変に忙しく、また、ある意味では満たされていた。
18歳で岩手県を飛び出して以来、東京での生活を充実させることが、ほぼ私の全ての思いであったと思う。
この年齢のときにはふるさと会どころか、同級会なども全く開かれず、田舎とのつながりは、盆正月に家族ぐるみで実家に転がり込む事だけであった。
50歳台になって、ふるさと会との関わりに転機が訪れた。
突然、当時の釜石市長と釜石はまゆり会会長が私に会いたいと言ってきた。
要件は、釜石はまゆり会の会長を引き受けてくれという事であった。
この事が私を強く動かしたわけでもないのだが、『釜石から頼まれたのだから』という、単純な理由でお引き受けし、50歳を過ぎて初めて自分のふるさと会に対する目が開けたのであった。
当時の釜石はまゆり会は、釜石への企業誘致に関わる情報収集を第一義とし、その親睦はその次であった。
時代は釜石からの新日鐵の撤退が暗くのしかかっていた頃である。
岩手県人連合会への加入はしていたが、殆ど出席する事はなかったようだ。
私も当時の連合会の幹事会などに偶に出席したものの、何か議場が険悪で、
いたたまれず抜け出したという記憶がある。
こんな訳で、少し前までは、私の周辺は岩手県人連合会にとって好ましい状態ではなかったように思う。
自分のこのような経歴を反省するとき、岩手県人連合会に対する関心を高めるという問題は、安易ならざる事のように思われる。
一度、岩手を跳び出した人間の心を再び岩手に取り戻すには機を待つことが必要である。
また、時間と心のゆとりも必要だろう。
創設時のふるさと会の時だけは特に多くの人が集まるという事、そして、その後は離れてしまうという事、この理由はじっくりと推敲する必要がある。
スーパーマーケットが新規開店の日だけ人だかりがするという事にも似ているところがある。
かすかな期待と、その後にくる失望と。
県人会の老齢化を防ぎ、若者にとっても魅力のあるものにしようとするとき、
若者が接しやすい形で情報を提供する事、
また、若者独自の発想を取り入れ、県人会の中で一仕事をやっていただく事、
郷土との絆の再構築ができる土俵を提供する事、
かかる方向の環境作りが必要なのだろうか。