瀬川爾朗blog -29ページ目

前進と後進

最近私の周りの世の中が、ある時は前へある時は後ろへ激しく駆け回っていることを感じる。

私はその中で呆然と立ち止まっているようだ。

もし昔だったら、70過ぎの今とは違って、世の中と共に私も駆け回っていたに違いない。



我々生活者は今日まで、古きを捨て新しきを採って来た。

それが進歩だと考えた。

しかし、歴史を辿ってみるとその進歩にも2つあって、前への進歩と後ろへの進歩があることに気が付く。

「前進と後進」である。


どうして人間社会では前進と後進を繰り返すのか。

その理由は容易に気付くように、人間の本体が何も変わっていないためである。

それで、真の進歩は人間の生物学的進化によってのみ達せられる。



このように考えてくると、我々が今日までに学び学ばされた種々の思想・施策の大部分が否定や反転の憂き目に合い、庶民を困惑の淵に立たせる事になったのである。

江戸時代の封建主義から脱し、1945年の終戦を境にして、世の中は挙げて自由平等・男女同権・個人主義に酔いしれた。

その結果、夫婦2人だけの生活が奨励され、やがて家庭が崩壊した。


猿が他の哺乳類に知能の点で優ってきたのは、親の寿命が長くなり、親・子・孫が家庭を作るようになって、年長の猿が子・孫を教育出来るようになった為であると言われる。

これは人間にとっても考えさせられる点である。



思うに、戦後の初等中等教育制度の乱改革、学校制度や入試制度の思いつき的改正や反改正などは目に余るものがあった。

教育制度の改革ほど一生物としての人間を困惑させるものは無い。

行政側がこれまでの10年間の教育は間違いであった、と述べたとしたら、教育を受けてしまい、すでに歳をとった者はどうしたらいいのだろうか。

損害賠償金ですむような事ではない。



近年、情報技術とマスコミの発展によって人間はマス状でものを言い行動するようである。

途中の思索は一切抜きで、ドーっとスマトラ津波のように動く。

我々が最も警戒すべきはかかる現象であろう。

そして10年後には後の祭りとなる。


私は呼びかけたい。

今の世の中の体制が本当に己にとって良いことであるのか、もしそうでないと考えたら、己の信じる道を進めと。




井上ひさしさんを偲ぶ

わが岩手県人連合会の前会長であった井上ひさしさんが亡くなられました。

4月9日だそうです。


4年前、井上さんがまだ会長であられた時に、作家でありロシア語の同時通訳者であった米原万里さん(井上さんの奥さんの姉)が亡くなり、その直前の激しい苦しみは筆舌に尽くし難かったというはなしをなされたばかりです。

米原万里さんは癌で亡くなられたとのことでしたが、井上ひさしさんも癌で逝かれました。



岩手県人連合会の会報「きずな」の2005年新年号の挨拶の中で、井上さんは岩手県との関わりは一関市に半年、釜石市に2年半のみであったと書いています。


『生まれは山形なので、僅かこれだけの期間いただけでもって、岩手県人だと言うのは気が引けるのですが、ただ母が啄木のファンであったので、岩手との関わりはその分深かったかなと思っています。』


と書いています。



実は私(瀬川)は岩手の釜石市の生まれで、お寺の次男です。

井上さんは、釜石にいたとき休日には私の実家であるお寺の境内を散歩した、いや、お寺さんには無断でしたけれど、と生前に話していました。


当時、私はお会いする事はなかったのですが、お母さんは長く釜石にお住みになっておられたようです。

これについて井上さんは次のように書いています。



・・・・・『母は石川啄木の歌集の熱心な読者で、毎日の暮らしの中で、事ある度に啄木の歌を引く癖がありました。

店の売上げがよかった日には「こころよき疲れなるかな息もつかず仕事をしたる後のこの疲れ」、また隣組の集まりで組長を論破したときには「非凡なる人のごとくにふるまへる後の寂しさは何にかたぐへむ」と呟いて落ち込んでおりました。

私もこの母の影響を受けたのか、原稿書きが思うように進まない時には「目の前の菓子皿などをかりかりと噛みてみたくなりぬもどかしきかな」とぶつぶつ言ったりして、あの母の影響の大きさに自分でも驚いて』・・・・・



井上ひさしさんは岩手県に長く住まわれた母や兄とともに、宮沢賢治、石川啄木、野村胡堂などの岩手の作家を愛し、その優れた「ことば」を学ばれ、その言葉の力を実践されたものと思われます。

まさに、あっぱれいわて県人といいたいものです。



ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

アンテナショップ

商売といいますか、あるいは商道と言った方がふさわしいのか、鋭い商い感覚を持った方は、色々な事を考えるものですね。

私の乏しい経験を振り返ってみても、戦後60年間の日本の商道は実に巧みでまた早業の変化を遂げていると感じます。



昭和30年代では大規模小売店スーパーダイエーが突出していました。

かと思うと、これは地方から始まったのではないかと思いますが、幹線道路沿いの「道の駅」が新鮮な農産物や水産物の販売で広く売れ行きを伸ばしています。


また、ここ10年では岩手県の「銀河プラザ」が銀座で右肩上がりの商いを展開しているなど、試し売りを狙った所謂アンテナショップが広まりつつあります。

若者に人気のある衣装店ユニクロもトップのセールスを行っているようです。



岩手県に限らず、地方の市町村を訪れると、コンクリートの建物はしっかりしているのに、そこに市民・町民が居ません。

通りの商店街では皆シャッターが下ろされ、夕方など薄気味の悪ささえ漂います。

現民主党政権の「コンクリートから人へ」の発想の原点を見る思いです。

現今の地方における貧困、住民減少、出産率の低下はまさに地方が滅亡の瀬戸際にあることを示しています。

これからの脱却が地方いや日本国の政治の喫緊の課題でしょう。



最近我々在京岩手県人のふるさと会に対して、そのふるさとから色々な声がかかってくるようになりました。

それは特に郷土産品の東京でのPRの依頼です。


宮沢賢治にちなんだ名前の岩手県アンテナショップ「銀河プラザ」では、岩手県の各市町村の特産品のPRと販売が2、3日交代で、市町村ごとに行われています。

そのお陰で私は岩手県産の様々な銘酒が味わえることを、楽しみにしております。


また、市町村それぞれが独自に東京都内で特産品のPRと販売を行う機会も増えてきました。

宮古市の「目黒のサンマ祭り」、釜石市の「桜牡蠣大売出し」、またデパートでの岩手県産品の特売、代々木公園での岩手県産品祭りなどです。



組織としては全国的ですが、毎月1回休日に代々木公園で屋台店舗での地方の特産品を販売・PRしているアースデイマーケットも見逃せません。

岩手県では岩泉町竜泉洞の関係者がロジデリという屋台を置き、岩手の野菜やガンズキなどなつかしいお菓子を販売しています。


このような地方からの働きかけが次第に活発になっていることは喜ばしい事です。

これらのお付き合いをして感じたことは、PR・販売の拠点をうまく選べば、東京ではかなりの人が来てくれるという事です。


つい先日、釜石の商工会議所が主催した売り込みキャンペーンでも、有楽町駅の会場に2日で1500人ぐらいの来客があったという事です。


在京の私どもとしては、今後とも地方の働きを支援し鼓舞していきたいものです。