井上ひさしさんを偲ぶ | 瀬川爾朗blog

井上ひさしさんを偲ぶ

わが岩手県人連合会の前会長であった井上ひさしさんが亡くなられました。

4月9日だそうです。


4年前、井上さんがまだ会長であられた時に、作家でありロシア語の同時通訳者であった米原万里さん(井上さんの奥さんの姉)が亡くなり、その直前の激しい苦しみは筆舌に尽くし難かったというはなしをなされたばかりです。

米原万里さんは癌で亡くなられたとのことでしたが、井上ひさしさんも癌で逝かれました。



岩手県人連合会の会報「きずな」の2005年新年号の挨拶の中で、井上さんは岩手県との関わりは一関市に半年、釜石市に2年半のみであったと書いています。


『生まれは山形なので、僅かこれだけの期間いただけでもって、岩手県人だと言うのは気が引けるのですが、ただ母が啄木のファンであったので、岩手との関わりはその分深かったかなと思っています。』


と書いています。



実は私(瀬川)は岩手の釜石市の生まれで、お寺の次男です。

井上さんは、釜石にいたとき休日には私の実家であるお寺の境内を散歩した、いや、お寺さんには無断でしたけれど、と生前に話していました。


当時、私はお会いする事はなかったのですが、お母さんは長く釜石にお住みになっておられたようです。

これについて井上さんは次のように書いています。



・・・・・『母は石川啄木の歌集の熱心な読者で、毎日の暮らしの中で、事ある度に啄木の歌を引く癖がありました。

店の売上げがよかった日には「こころよき疲れなるかな息もつかず仕事をしたる後のこの疲れ」、また隣組の集まりで組長を論破したときには「非凡なる人のごとくにふるまへる後の寂しさは何にかたぐへむ」と呟いて落ち込んでおりました。

私もこの母の影響を受けたのか、原稿書きが思うように進まない時には「目の前の菓子皿などをかりかりと噛みてみたくなりぬもどかしきかな」とぶつぶつ言ったりして、あの母の影響の大きさに自分でも驚いて』・・・・・



井上ひさしさんは岩手県に長く住まわれた母や兄とともに、宮沢賢治、石川啄木、野村胡堂などの岩手の作家を愛し、その優れた「ことば」を学ばれ、その言葉の力を実践されたものと思われます。

まさに、あっぱれいわて県人といいたいものです。



ご冥福を心よりお祈り申し上げます。