浅田真央 と キム・ヨナ
まず、湯気の出ているような熱い話から始めよう。
女性フィギュアスケーターとして世界のトップを行くこの2人。
バンクーバーオリンピックの二輪の華というべきだろうか。
まさに昨日今日の話し、日本人の真央ちゃんが韓国のキム・ヨナちゃんに負け、銀メダルに甘んじたことは、我々としてもウンウンウンの気持ちではないか。
技術的には真央ちゃんの方が優れているのではないか(これは素人目だが)という部分もあったが、それが正当に評価されていないような気がした。
そのあと、寝床でそのような事を考えているうちに、あのキム・ヨナに、憂いのこもった、いや悲しみを素振にも出さない、昔の日本の母親を髣髴とさせるものを感じた。
これだ、評点の違いはここにある、あの舞の中でヨナは一つのドラマを演じた。
恐らく審査員達も審査を忘れて、そのドラマの中に引き込まれていったのではないか。
審査員の方々もそれなりの年配の方が多いだろうから、ヨナを女優として扱ったのかもしれない。
かねがね、日本人の顔はいくつになっても幼稚に見えることが気になっていた。
日本の若者については、幼稚さと姿勢の悪さが、最近特に目に付く。
米国や欧州を訪問したとき、その土地の高校生らと会話をすると、まるで中年の男女と話しているのかと思うほど、彼らの顔つきと話題は大人びている。
真央ちゃんは日本人のアイドルである。
若々しくて愛くるしい彼女はマスコミのアイドルでもある。
しかし、彼女もこれからの成長の過程で大人としての魅力を身につけていくことが期待される。
日本人の顔がいつまでも幼稚であるのは、我々の人生の中で護ろうとして努力する対象がない事が根本原因である。
人間として共に生きていこうとする目標がはっきりしない事である。
そのような事態は昭和20年(1945年)の日本国敗戦から始まった。
米国は実に慎重に日本の敗戦処理を進めていったと思う。
そして日本は立ち上がった。
生きるために経済の発展に全力を尽くした。
しかし、経済はあくまで手段であって、人生の目標ではない。
経済に重点を置くあまり、日本人は利己主義者になってしまった。
親兄弟の中ですら、生活の基本は利己主義ということではないか。
かつての国家主義を避けるあまり、日本人は国を考えなくなった(これが米国の日本統治に於ける密かな狙いであったのか?)。
「国のため」という言葉が聞こえなくなって久しい。
国家主義ではなく、国を愛し民族を愛することがあって、はじめて世界の人々と対等に話が出来るのではないだろうか。
また宗教も大事だと思う。
これは神懸りになるのではなくて、損得を超えた大きな思想、その思想に向かって常に己を見直すという態度こそ重要であると考える。
我々は生きることが出来る喜びにとどまらず、世界の一員として、より大きな存在となるよう護るべきものを持つことが大事であると考える。
大相撲 この日本的なるもの
平成22年の初場所に家内と共に出かけた。
満員御礼の幟の出た両国国技館。
それでも国技館はさすがに広い。立見席というものはない。
家内は、照明に映し出された力士達の肌の美しさにしきりに感嘆している。
思うに日本の伝統芸能『相撲』は、やはりスポーツというよりは芸能、芸術なのではないか?
日頃の血のにじむような習練の総決算がわずか1分、いいや数秒の演技に集約される相撲。
これこそ日本の伝統芸能『俳句』、『和歌』の単純にして深遠なる描写に合い通じるもののように思う。
今回は岩手県久慈市出身力士、かつて小結も勤めた栃の花関(現在は二十山親方)を頼りに相撲見物である。
国技館の建物を入ると廊下とも道路とも区別のつかない「花道」の様な通路を通る。
両側が小さく区切られ、御茶屋ともお弁当屋ともいえる店が並び、にぎにぎしく客の応対をしている。
やがて二十山親方と会い、二言三言言葉を交わして座席についた。
まだ30代であろう二十山親方は、昨年会ったときよりもさらにスリムになっていた。
このごろの関取は引退後急速に常人のスタイルに戻れるようである。
お会いした事はないが、十両で相撲をとっている岩手県花巻市出身の四ツ車という関取がおられる。
四ツ車という四股名は江戸時代からのもので、名だたる力士の名前だそうである。
ホームページによれば四ツ車は数年前に十両優勝を果たしている。
我々岩手県人としては大いに応援をしたいところである。
何とか幕内に飛び込んでもらいたい。
相撲や柔道、あるいはパチンコ、カラオケ、即席ラーメンなど、日本の国技(?)が、世界中の関心を集め、今や世界の技になりつつある。
そして近い将来、日本がお株を奪われかねない事態も考えられる。
しかし、その逆もあるから面白い。
アメリカの国技の野球で今や日本がアメリカを脅かしている。
イギリスのサッカーで、日本がワールドカップを狙っている。
話を元に戻すとご存知のように、最近、日本人の横綱がいない。
横綱の曙、武蔵丸、大関の小錦など、かつてはハワイ勢が強かった。
しかしやがてハワイ勢が減り、モンゴル全盛の時代が始まった。
朝青龍、白鳳、日馬富士、とにかく彼らの取り口は面白い。
素晴らしい投げを持っている。
モンゴルというと、日本人は13世紀の蒙古襲来しか思い出さないが、昔の憎き敵も目の前で会ってみると、皆自分の弟の様な顔をしており、思わず手を握りたい衝動に駆られる。
モンゴルだけではない。
上位に位置する外国人の力士、大関琴欧州(ブルガリア)、関脇把瑠都(エストニア)、前頭栃の心(グルジア)、前頭黒海(グルジア)、前頭阿覧(ロシア)等の取り口は、まさに鍛え抜かれた鋼の戦いである。
筋肉の一筋一筋が光を発しているが如くである。
柔道にしても相撲にしても、外国人に負けるのは悔しい。
しかし、冷静に観ずれば、日本の力士は、あるいは柔術家は、異色でかつ強力な外国人の力に、素直に敬意を表し、学ばなければならない。
国技を世界技とすることこそ、これから我々の狙うべき事ではなかろうか。
個性的な新年でありたい!
2010年を迎えるにあたり、新しい年をいかに生きるか、改めて考えたいと思います。
毎年の事だから成り行きに任せたいと思う御仁もおられるでしょうが、しかし正月に考えたことが意外に年間の生き方の指針となることも多いので、新年の決意を皆様にお勧めしたいと考えております。
私は岩手県人連合会会報の昨年の新年号の挨拶で連合会のホームページが必要であるという趣旨のことを述べましたが、このことが年間の目標となり、まさにこのホームページ が生まれた訳です。
同じ事は個人的指針についても当てはまるのではないか。
その指針は出来るだけ個性的であることが望ましい。
個性的とは必ずしも新しい必要はないのであって、『来年は今年の方針を貫くのみ』というのもそれなりに個性的だと考えます。
いずれにしても、太陽を回る地球の公転周期365日毎に、自分の人生を見直すチャンスが与えられるという天の思し召しをじっくりと味わう必要があると考えます。
国レベルで見ますと昨年は日本政治史上かなり大きな変革があった年でした。
民主党の「政権交代」が怒涛の勢いで実現した年でした。
正に変革を求める日本国民の強烈な感性の技だと考えます。
その性向は必ずしも論理的ではなかったと思います。
その為、政権交代100日を過ぎた今、新政府の政策は色々と難問を生み出しているように見えます。
民主党の1年生議員は100人以上もおり、政治の右も左も分からない議員もいる、という事で批判されています。
まさに新学期に小学1年生が手を繋いで登校している姿を彷彿とさせるもので、噴飯ものでもあるし、同時に将来を期待させる現象でもあります。
新政府の日米同盟に対する態度にしても、これまでの自民党政府では考えられなかった発想があちこちに見られ、私などもはらはらする部分があるのですが、盲が蛇に怖じないように、そこに新しい発想があるのではという期待感もあります。
この点で、2010年は世界の中での日本の進み方を注意深く見守ろう、ということを我々のmottoとしたいと思います。
若い方々に対しては私が10代の頃に叱られた親の言葉を捧げたいと思います。
-- 20歳までに勉強しない子供は将来、一人で生きていけなくなるよ --
ここの所、世の中は不景気で、失業者が急増しています。
失業率5%以上という事で社会問題になっています。
これに対してマスコミは、もっぱら政治が悪いといっています。
失業しないように日頃よく勉強して会社が欲しいと思う人間になりなさいとは一言も言いません。
これは片手落ちではないのでしょうか。
新年を機に今年こそ勉強しよう、と願をかける事が君の大いなる飛躍をもたらすのでは。