前進と後進
最近私の周りの世の中が、ある時は前へある時は後ろへ激しく駆け回っていることを感じる。
私はその中で呆然と立ち止まっているようだ。
もし昔だったら、70過ぎの今とは違って、世の中と共に私も駆け回っていたに違いない。
我々生活者は今日まで、古きを捨て新しきを採って来た。
それが進歩だと考えた。
しかし、歴史を辿ってみるとその進歩にも2つあって、前への進歩と後ろへの進歩があることに気が付く。
「前進と後進」である。
どうして人間社会では前進と後進を繰り返すのか。
その理由は容易に気付くように、人間の本体が何も変わっていないためである。
それで、真の進歩は人間の生物学的進化によってのみ達せられる。
このように考えてくると、我々が今日までに学び学ばされた種々の思想・施策の大部分が否定や反転の憂き目に合い、庶民を困惑の淵に立たせる事になったのである。
江戸時代の封建主義から脱し、1945年の終戦を境にして、世の中は挙げて自由平等・男女同権・個人主義に酔いしれた。
その結果、夫婦2人だけの生活が奨励され、やがて家庭が崩壊した。
猿が他の哺乳類に知能の点で優ってきたのは、親の寿命が長くなり、親・子・孫が家庭を作るようになって、年長の猿が子・孫を教育出来るようになった為であると言われる。
これは人間にとっても考えさせられる点である。
思うに、戦後の初等中等教育制度の乱改革、学校制度や入試制度の思いつき的改正や反改正などは目に余るものがあった。
教育制度の改革ほど一生物としての人間を困惑させるものは無い。
行政側がこれまでの10年間の教育は間違いであった、と述べたとしたら、教育を受けてしまい、すでに歳をとった者はどうしたらいいのだろうか。
損害賠償金ですむような事ではない。
近年、情報技術とマスコミの発展によって人間はマス状でものを言い行動するようである。
途中の思索は一切抜きで、ドーっとスマトラ津波のように動く。
我々が最も警戒すべきはかかる現象であろう。
そして10年後には後の祭りとなる。
私は呼びかけたい。
今の世の中の体制が本当に己にとって良いことであるのか、もしそうでないと考えたら、己の信じる道を進めと。