短篇小説『神仏からの些細な試練』リニア著
人は視界に入ったものすべてを見ているのではなく、見たいものだけを見ているという説がある。
確かに興味や関心が目に付きやすいというのはあるが、見たいものだけというのは間違っていると思う。
なぜなら、時には見たくないものまでも見てしまうわけで、自分の意思の範疇を超え、神仏がその人に見せたい、見せたほうがよいというものを私たちは見ているのではあるまいか?
さらに仮定として、神仏がその人本人の成長にとって必要なものと出会えるようにしてくれているとするならば、たとえ辛いことや理不尽なことが視界に入ってきても本人はそれを試練として考えることができる。
また、本人が傲慢で慢心しているとしたら、気付かせるような何かを視界に見せることだろう。
私にはどうやら、「感動を持ち続けること」「マイナス感情を抱かないこと」と神仏がささやいているように感じる。先日、駅から職場に向かういつもの道で、私は神仏に試されたようなのである。
「あれ?バラの花か?綺麗だな~。」
赤いバラの花が自転車のサドル後ろに刺さっているのであった。
よく見ると赤いバラの横にはピンクの蕾のバラが二本生えていたのである。
病院の近くだったからお見舞いに使った花の残りだろうか?あるいは自転車に乗っている自分を綺麗に見せるための演出だろうか?
考えながら私は綺麗なバラを近くで眺めようと近づいていったのである。時間がなかったら気付きもしなかったかもしれない。
バラを自転車に飾る趣味については置いておいたとして、常に花を飾っていたいという感性を持つ人がいるのでは?と私は興味と少しの感動を感じた。そして、いつの間にか自転車の横まで来て足を止めていたのであった。
神仏に試されたと後になって思った瞬間がすぐに訪れた。
近くに寄ってよく見るとバラはなんと巧妙にできた『造花』だったのである。
気付いた瞬間、私はつぶやいてしまった。
「なんだ、造花か…」と。
せっかくちょっと前まで感動していたにも関わらず、造花だったという理由で勝手に自分で感動を冷ませて後味を悪くしてしまったのである。「綺麗だな~」と歩き去ることもできたはずなのに…。
「感動を持ち続けること」「マイナス感情を抱かないこと」という神仏からの試練に私は最後の最後で敗れたのだ。
最初は、バラの花に気付くか気付かないか?を問われ(私は気付き)
次に、その花に興味・関心、感動を持つか持たないか?を問われ(私は感動し)
近づいていくかいかないかという行動力を問われ(私は近づいて行き)
さらに、造花か、造花じゃないかに(いつ)気付くかを問われ(私はすぐ気付き)
最後に、造花でも感動を持ち続けられるか、「なんだ造花か」と冷めてしまうのかを問われたのである。(私は感動を持ち続けられず、「なんだ造花か」とマイナス感情が湧き出ることを許してしまった。)
もしかしたら日常生活において常に試されているのではなかろうか?
そう思うようになってから日常の試練に敏感になっていった。
今でもどうやら神仏が新たに私に試練を与えているようである。
最近になって私の前に「後ろ髪美人」が歩くようになったのである…。
終わり
