866冊目『正欲』(朝井リョウ 新潮社) | 図書礼賛!

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本ブログで金原ひとみの『アッシュ・ベイビー』(846冊目)を取り上げたときに、次のように書いた。

異性愛が制度である以上、同性愛は周縁化され、負のレッテルさえ貼られる。近年、同性婚を認めたり、性的少数者の人権を保障しようといった、異性愛が抑圧してきた、もう一つの「正義」を回復しようという運動が盛んである。ここで考えてみたいのは、小児性愛もそうした「正義」を訴えることができるのか、という問題である。

『アッシュ・ベイビー』では、異性愛も同性愛も小児愛も動物愛も全てパラレルに描かれ、いかなる価値判断もされていない。そのことが逆に、人間が本来、性的に多様なベクトルを持つことが示唆されている。しかしながら、実際の私たちの社会では、異性愛以外の愛のありようは、異常だとされ、性的マイノリティは排除の対象であり続けてきた。近年、LGBT運動により、同棲婚の理解は進みつつあり、多様性を認めるダイバーシティの正義は、表向きにはもはや誰も批判できないまでになった。とはいえ、この「多様性」にはどこか胡散臭さが漂う。

 

『性欲』の登場人物たちは、特異な性癖を持っている。彼(女)らは、水に性的な興奮と喜びを味わうのである。桐生夏月は言う。「誰かの身体に触れることも、誰かに身体に触れられることもないまま、水が噴き出すという現象に性欲を抱く人生を、ただひとりで生き抜いてきた。」(154頁)。精神医学では、この性癖は、ウェット&メッシー(1)として確認されているが、そのような理解は大衆に広く浸透していないし、彼らもまた自分の性癖を公言することができない。ただ周囲に自分の性癖がバレないようにひらすら沈黙を守って生きていく他ないのだ。ゲイや同性愛が、「多様性」として包摂されるのに対して、水にフェティシズムを感じる彼らは、その多様性から弾き飛ばされている。マイノリティと一口に言っても、実はそこにはマイノリティの中での承認の闘争がある。ゲイや同性愛はマイノリティであることを承認され、それに基づいて社会の仕組みも変わる。しかし、水フェチは、ただの「異常者」であり、社会に包摂されず、排除されている。

 

小説『正欲』は、多様性から零れ落ち、誰からもケアされず、苦しみ抜いている人たちの人生とその交錯を描いているが、ここで描かれているのは、多様性への違和感であり、マイノリティの権力性である。年森瑛の小説『N/A』も似たような主題を扱っているが(764冊目『N/A』(年森瑛 文藝春秋))、それにしても、どうして多様性はここまで胡散臭く感じられるものになってしまったのだろうか。岡野八代『フェミニズムの政治学』(706冊目)に、そのヒントがある。岡野によれば、現代のリベラリズムは、自律的な個人を主体として想定しており、そこから、社会的な公正さを打ち立てようとしてきた。したがって、リベラリズムの命法は、「主体になれ」ということである。かつてフェミニズムは、家庭に従属し、政治や経済から排除されている女性もまた、男性と同じように主体になれるのだ、と主張してきた。

 

同性愛やゲイは、そのような主体として承認されている。しかし、『性慾』に登場する人物たちは、自分が何に苦しんでいるのかも実はよく分かっていなし、社会がどのように変わってほしいのかも分からない。登場人物の男子大学が「言えるような悩みなら言ってるから、とっくに」(299頁)というように、彼らは自分を救う言葉を持っていない。言葉で主体を定立させられない彼らは、リベラリズムの文脈では、いない人にされてしまうのである。映画の中で、桐生夏月は検事に対して「自分がどういう人間か説明できなくて息が出来なくなったことってありますか」という実に含蓄あるセリフを吐くが、これはリベラリズムが見落としているものを端的に言い当てている。おそらく、リベラリズムの胡散臭さは、強い個人(主体)になることを強いられること、あるいは、強い個人になれなければ存在を承認されないことにあるのではないだろうか。

 

多様性は、分かりやすい言葉で自分を主張でき、主体として承認されたものに対しては寛容に包摂する。しかし、主張のないもの、よく分からないもに対しては、しっかり異物扱いして境界線の向こう側に放擲する。先ほどの男子学生は感情を剥き出しにする場面でこう言う。「お前らの言う理解って結局、我々まとも側の文脈に入れ込める程度の異物か確かめさせてねってことだろ」(340頁)。多様性は、まっとうな主体になることを要求するひとつの権力である。人それぞれであることをありのままに認めることは実に難しいし、勇気がいることである。小児愛は今では異常者扱いされているが、もしかしたら将来には性的マイノリティの一種として承認されるかもしれない。「みんな違ってみんないい」などと簡単に言われるが、他者を受け入れるとはそんな生易しいものではないのだ。小説家の村田沙耶香も、こうした多様性に気持ち悪さを感じている一人だ。村田は言う。

どうか、もっと私がついていけないくらい、私があまりの気持ち悪さに吐き気を催すくらい、世界の多様化が進んでいきますように。(「気持ちよさという罪」『朝日新聞』2020年1月11日、『信仰』所収(823冊目))。

我々は、異物を愛せるだろうか。

 

(注)

1 ウェット&メッシー - Wikipedia