764冊目『N/A』(年森瑛 文藝春秋) | 図書礼賛!

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女子校に通うまどかには、恋人がいる。教育実習生として、まどかのいる高校にやってきたうみだ。いくら教育実習生とはいえ、生徒からしたら、先生である。生徒と先生との恋愛は、あってはいけないことで、これは禁断の恋である(だからこそ、文芸の主題になるわけであるが)。また、彼女たちは女性同士による同性愛カップルでもある。先生の立場で生徒と付き合うことは、重大な倫理的問題があるが(しかも、教育実習生のうみの方が、まどかに積極的にアプローチしている)、同性愛自体は、決して批判されるべきものではないだろう。むしろ、同性愛を差別、迫害する社会にこそ、人権侵害という点で、重大な倫理的問題を孕んでおり、平等で公正な社会を阻害している。

 

近年、性的少数者であることをカミングアウトする人も増え、ひとつの運動勢力となっている。先進国では、LGBTの権利擁護及び法制化に積極的であり、もはやこれは世界的な流れとも言える。こうしたリベラリズムの価値が世界的基準となったときに、逆説的なことに私たちの振舞いは、どうもマニュアル的になる。友人の翼沙が、まどかをコメダ珈琲を呼び出し、うみちゃんがインスタで、恋人としてまどかの写真を多数アップしていることを知らせる。そのときの翼沙の態度は、LGBTの人たちに接するときのお決まりのフレーズで、それはある種、腫物に触るかのような丁寧な取り扱いを示す言葉の羅列であった。

 

まどかは特にLGBTに関心があるわけではない。ただ「かけがえのない他人」の存在が欲しくて、うみちゃんと付き合っただけだ。そこには同性愛者としても使命もないし、政治的な主張もあるわけではない。まどかは、ただ個人としてうみちゃんとつながりたかっただけなのだ。しかし、周囲はまどかとうみちゃんを同性愛カップルだというだけで、リベラリズム的価値観に奉ずる闘士であるかのように錯覚する。この眼差しにまどかは当惑する。「世の中が想像する属性のイメージとも適合しないのに、まどかへ向けられる態度は、その属性への対応として推奨されるものばかりだった」(66頁)

 

ここには奇妙な逆説があるだろう。LGBT運動とは、端的にマジョリティに属すことが出来ないものたちへの権利を認めろという政治運動だが、マジョリティから排除されたマイノリティの権利擁護運動が、さらなるマイノリティの排除をもたらしてしまうのである。これが極端に進むと「ポリコレ棒」などと揶揄される。マイノリティもまたひとつの表象である以上、その表象から漏れるさらなる弱者を生み出すことは避けられない。これはある意味、政治運動が抱える不可避のジレンマである。以前書いた時々、時事ネタ#1 基地問題への違和感|與那覇開|noteは、通念的な沖縄イメージから漏れ出てしまう私個人の声を正直に書いたものだが、これも小説『N/A』が抱える主題と根本的な問題は同じである。こうしたマイノリティからも周縁化されてしまう個人の声を救済するのは、文学しかないだろう。そういう意味で、本書は、評論家の東浩紀が言うように、「まさにいま求められている文学」なのである。