846冊目『アッシュベイビー』(金原ひとみ 集英社文庫) | 図書礼賛!

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二〇〇四年に刊行された金原ひとみの『アッシュベイビー』は、二〇〇三年に芥川賞を受賞した『蛇にピアス』に次ぐ作品である。私はこの本を読んで、何回も「げっ」って思ってしまったのだが、同じような感想を抱くのは私だけではないだろう。小説『アッシュベイビー』は、グロテスクなまでの性描写で横溢している。主人公のキャバクラ嬢のアヤの口から連発される女性の性器の名称(マ○コ)は、この小説中に何度出てきたか分からない。アヤは、レズビアンのモコと交わり、ルームメイトのホクトと交わり、片思いの村野さんと交わる。ヤリマンが主人公の小説なんて、本書以外に思いつかないが、金原ひとみはデビュー二作目にして、とんでもないヤリマンを主人公にした小説を書いたのである。

 

しかし、私が「げっ」と思ったのは、アヤのセックスシーンではない。アヤのルームメイトのホクトの性癖だ。ホクトは小児性愛者である。ある日、どこからか赤ん坊をさらってきて、アヤと住む家に連れ帰ってくる。首も据わらない赤子を丸裸にして、ホクトは勃起する。そして、赤子の股の裂け目に自分の勃起したペニスを入れようとするのだ。ここの描写は、この小説のなかで最もグロく、かつ、言語に絶するほどの不快感なので、とても引用する気になれないが、とにかく、小説『アッシュベイビー』が描く性の饗宴は、こうした異常者まで射程に入れている。ちなみに、ホクトは、動物とも交わる(鶏、ウサギ)。まさに「げっ」としか思えないではないか。

 

ここで注目したいのは、この小説では、異性愛も同性愛も小児性愛も動物愛もすべてパラレルに描いているところだ。つまり、性愛のあり方に階級がない。アヤは、ホクトが赤子の股に裂け目に自らのペニスを挿入しようとしている場面を見ても、なんとも思っていない。いかなる倫理的判断も消し去ったところに、『アッシュベイビー』の性描写は躍動している。ところで、異性愛が文化的に強制された制度であることは、よく知られている。フロイトは、人間はもともと多型的に倒錯している動物だと言ったが、現代では、そうしたエロスは異性へ向けられるものとして管理されている。だから、『アッシュベイビー』は、そうした文化的な偽装を剥ぎ取り、人間が持つ本来の性的多様性をありのままに暴いただけだと読むこともできる。

 

異性愛が制度である以上、同性愛は周縁化され、負のレッテルさえ貼られる。近年、同性婚を認めたり、性的少数者の人権を保障しようといった、異性愛が抑圧してきた、もう一つの「正義」を回復しようという運動が盛んである。ここで考えてみたいのは、小児性愛もそうした「正義」を訴えることができるのか、という問題である。現在では、小児性愛は精神的な障害の一種だと考えられている。私は、『アッシュベイビー』で、アヤとモコの女同士が交わる性描写は、「げっ」と思わなかったが、ホクトの赤子を弄ぶ姿は「げっ」と思った。性愛は文化的に規定されている以上、もしかしたら将来においては、小児性愛の人権が唱えられるかもしれない。そして、ホクトを「げっ」と思ってしまった私は、差別主義者ということになるのかもしれない。『アッシュベイビー』の現代性は、まさにここにある。