847冊目『岩波講座 世界歴史16 国民国家と帝国』(岩波書店) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

近年、通説が覆されつつあるが、従来の考えでは、1648年のウエストファリア条約が国民国家の起源だとされていた。ここではその説の妥当性については扱わない。重要なのは、17世紀に誕生した国民国家の体制を、21世紀の私たちも生きているという現実だ。国民国家論については、代表的な古典が二冊ある。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』と、エリック・ホブズボームの『創られた伝統』である。これら二冊の著作のタイトルは、そのまま国民国家論のキーワードでもある。これらの著作に共通するのは、国民意識は所与のものではなく、政治的に創られたものであることを暴いてみせたことだ。アンダーソンはメディアの役割を、そしてホブズボームは過去の操作を国民国家形成の原理として重視した。

 

しかしながら、2000年以降、国民国家論は研究としての斬新さを失っていったらしい。その理由は、国民国家が創られることや民衆が国民化することが自明の前提とされ、それがどの程度達成されたかをを測定するという議論に傾斜したから、だという(4頁)。たしかに古典、伝統、食生活、習慣、所作等、一見政治的に無縁に思えるこうした領域にこそ、国民国家形成の運動によって「発見」された新しい価値観であるというのは、当初は斬新な視点であったが、こういったタイプの評論は、結局何でも「国民国家の産物なのだ」以上の結論はなく、もはや量産系となってしまった感がある。今ではこうした論は「創られた系」と揶揄されることもある。

 

はたして国民国家はもうすでに研究され尽くしたのだろうか。この問題について考えることはもうないのだろうか。岩波講座の『世界歴史16』は、まさにこうした問題意識をもとに国民国家を議論に俎上に載せている。従来の国民国家論では、国家内部の共同性について論じることが主だったが、それだけは国民国家は捉えられない側面も持つ。近年の国民国家論が注目しているのは、国境の外部にいながら、ナショナルな感性を涵養していた人たちである。つまり、政治亡命者や移民の存在に焦点を当てた国民国家論である。これはトランスナショナリズム論と呼ばれる。また、国民国家の動きに無関心に対応する国民も一定数いたことも、国民のあり方が一様でないことを物語っている。こちらは、ナショナル・インディファレンス論と呼ばれる。

 

また近年、人種資本主義という考えが誕生している。人種資本主義とは、人種マイノリティを搾取する構造的差別をデフォルトにすることで収益を上げるイデオロギーのことである。つまり、西欧の近代性の起源は植民地世界にあるという考えである。本書では、歴史の快挙とされる奴隷制解放も、実は西洋による巧妙な資本主義的支配の形態に過ぎないという指摘も行っている。黒人奴隷が解放されたのは、啓蒙や良心によってではなく、奴隷を自由な労働者として買い直し、より効率的な経営を行うためであったというのだ。これは映画『憲法修正13条』(米国 2016)を観れば、非常に納得の行く話である。実際、奴隷解放された黒人は当初選挙権も与えられず、国民主権の担い手として考えられていなかった。まさに国民国家の運動原理である排除の構造がここには働いている。国民国家を考えることは、今も続く不正を考えるアクチュアルな実践であることを忘れてはいけない。