848冊目『煩悩』(山下紘加 河出書房新社) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

初めて読んだ山下紘加の作品は、芥川賞候補作だった『あくてえ』(789冊目)だった。そのとき、この小説家はこれからも読むべき作家だと思った。書かれる言葉が一つ一つ丁寧に選び取られていて、短い作品ではありながら、重厚感がある。行間に潜む物語やその余韻を想像力できちんと救いあげられるかどうかで、彼女の作品を読む印象はだいぶ変わってくるだろう。読者もまた試されているのだ。小説『煩悩』は、主人公涼子と、その友人安奈との歪な友人関係を描いた作品である。友情をテーマとした小説は、実に多いが、この小説はそのような安易な主題を見事に裏切っている。涼子と安奈は学生時代からの友人だが、はたしてこの友情は本物なのか偽物なのか。そもそも友情とは何だろう。この小説は、そうした既成概念を揺さぶる。

 

友人付き合いとは何なのか。人は何のために友人を作るのか。中学生になった時、友人付き合いについて少し考えさせられたことがある。小学生のとき、地味でおとなしい男子生徒のN君がいた。私は学校ではちょっと話したくらいで、学校外で遊んだことはほとんどなかった。とても友人と言えるような仲ではなかった。中学生になったとき、そんなN君がヤンキーになったのである。中学の入学式には、N君は眉毛を全部を剃り落とし、髪を金髪にして出席していた。小学校時代の彼を知っている私は、そのあまりの変貌におおいに驚いた。N君は結局、三年間ヤンキーとして過ごし、他校との喧嘩でも実績を上げるなどして、周囲からは立派な不良として認められるようになった。

 

さて、そんなN君にたくさんの友人が出来たのである。小学生の頃は、休み時間でもぽつんと机に座って一人で過ごすようなN君だったが、中学生の頃は、N君の周りには常にたくさんの人がいた。不良仲間だけではない。真面目で普通な生徒も女子生徒も、N君と話したがった。実は私もその一人だったのが、魂胆として「N君と仲良くなっておけば、ヤンキー達から睨まれることはない」という打算的な考えがあったことは否定できない。小学校時代とは違って、中学時代の友人付き合いは、このような政治性があった。むろん、このような動機で仲良くなった友人を本当の友人と言えるのかはおおいに怪しい。カントが人を手段ではなく、目的として扱え、と言ったのは確かに倫理的には正しい。

 

涼子と安奈の場合は、どうだろう。涼子と安奈は頻繁に会うし、会えば必ずどちかが駆け寄って熱い抱擁を交わす。二人でいるときは、身体を密着させて過ごす。だが、涼子は、安奈に彼氏が出来たことを素直に喜べない。なにより、彼氏が出来たということをずっと安奈が黙っていたことに釈然としない。涼子は時に安奈に厳しい言葉を吐く。「安奈はバカだもんね」。むろん、本当の友人だからこそ、強い言葉で非難するということはあるが、はたして涼子の場合はどうなのだろう。小説の終盤はなかなかの衝撃的な展開が待っているが、それは実際に読んでいただきたい。果たしてこの涼子と安奈の関係は、親密か支配か、目的か手段か。はたまたそんな二項対立を超えたところにある何かか。読者の読みが問われている。