706冊目『フェミニズムの政治学』(岡野八代 みすず書房) | 図書礼賛!

図書礼賛!

死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

これほどまでに近代の桎梏を乗り越えようとラディカルに思想を展開している本に出会ったことはなかった。近代の桎梏とは何か。それは自律的な人間主体という設定である。バーリンの『自由論』でも述べられている通り、圧政のもとで生きたり、特定の誰かに支配されることは、自由な生き方とはいえない。自由を阻害するそうした外的要因を取り除いたときに、人の自由は保証される。だから、近代国家の政治思想は、宗教と特定の価値観について中立であることが求められている。政府が特定の価値観を国民に押しつけることは、国民の自由な生き方を奪うことであると批判される。しかしながら、この自由を権利として確立させることは、逆説的に市民社会を閉塞した状況に追い込んでしまっている。近代的自由は、自律的な人間主体を尊重した上で成員の差異と平等を保証する。それが結果的に、各成員の差異と平等を保証するために、法という抽象的な存在がより強調されることになってしまうのだ。「共約不可能な差異が存在する状況下-リベラルな社会状況-における市民の『義務』は、具体的な生をさまざまな文脈において生きている市民間の互いの応答というよりも、むしろ一般的な原理・原則の遵守を強調する傾向になる。その結果、具体的な市民一人ひとりの現状については無関心であっても構わないような、一種の無責任状態を生む」(38頁)。空腹で死にそうな人間がついに万引きをしてしまっても、「泥棒は泥棒だ」「だからといって法を犯すのはいけない」と糾弾するのが近代市民社会である。自律的な人間主体を設定したことで、責任主体の義務の宛先は法になり、市民同士の相互応答は重要視されなくなる。

 

しかし、人間はもともと依存的な生を生きていたのではなかったか。近年、ケアの倫理という考えが、政治的にも哲学的にも注目を集めている。ケアの倫理とは、自律的な人間主体の設定からこぼれ落ちてしまう人間の弱さを積極的に補っていこうとする思想である。空腹で死にそうな人がいたら、万引きをしないでも生きているいけるように彼らの具体的な窮状に寄り添う必要がある。ケアの倫理とは、言ってみれば、人間は決してひとりでは生きられず、必ず他者の助けを必要とするという前提のなかで社会を生き抜く思想である。この人間の依存的特性は、考えてみれば当然の話である。誰しも赤子のときは、母親にケアをされることによってその生を支えられてきた。この事実から逃れられている人はひとりもいないだろう。しかし、近代の政治思想は、そうした人間が依存的存在であることを捨象し、ひとすら自律的な側面だけを強調してきた。ホッブスの『社会契約論』にしても、ロールズの『正義論』にしても、そこで前提とされているのは、自律的な人間主体であり、脆弱で依存的存在としての人間は全く想定されていない。さらにエリ・ザレツキーによれば、人間の主体性は資本主義社会おいてさらに強化される。効率とスピード重視を至上命題とする資本主義が円滑に機能するためには、社会の責任は決して問われてはならず、自らの能力不足として自己責任に回収される必要があるからだ。主体性は、この責任を押し付ける建前として持ち出されているイデオロギーにすぎない。ホッブスから現代に至るまでの政治思想は、人間は他者に依存する生き物であるという原初の姿を忘れさせることで成立する。この「忘却の政治」によって簒奪されてきた依存を、政治的考察として出発点にしようというのが、ケアの倫理なのだ。

 

ケアの倫理がもっとも体現する場所は、近代政治が排除してきた領域である家族空間である。先ほど述べたとおり、近代の政治空間は、法律さえ守っていれば他者の窮状に無関心であることが許される社会である。こうした社会では貧困層を生む格差社会への批判がなされず、「貧困だからとって万引きはいけない」というように法令遵守でもって断罪する傾向にある。しかしながら、家族という場は、こうした近代社会が排除してきた領域、すなわち、人が人をケアし、ケアされる場として絶えず実践が行なわれる空間なのだ。実は、家族には政治的にも哲学的にも重要な位置を持っているのである。家族成員は、たしかにゲゼルシャフトの社会成員とは異なる関係の実践がある。母親は、言葉で自分の意思を発信できない赤ん坊の泣き声をしっかり聞いて、その赤子が何を求めているのかを判断しなければならない。母の事情などおかまいなしに泣き続ける赤子に時にいらだつこともあるが、それでもそうした軋轢を非暴力で対処することが求められている。近代社会では家族の情緒的な絆が取り上げられるが、いくら家族とはいっても、員間の軋轢とは無縁ではない。こうした軋轢に非暴力で応答する家族の関係の実践は、私たちが他者へと向ける視線のヒントになる。ハイデガーは人間の自由が保証される条件として保護することの重要性を説いている(「建てる・住む・思考する」)が、これはケアの倫理を補強する考えである。ハイデガーのこの考えは、外的障害を取り払うことで人間的自由を実現する近代政治の前提とは対極にある。ハイデガーは保護することに積極な価値を置いていた。「危害からの保護」「不必要な苦痛を与えられないこと」などは、人間的自由にとって必ず乗り越えなければならない課題である。貧困、限界集落、自然災害を被った地域で生きる人々は、そのように生きていたいと思って生きているわけではない。現状を改善しようにも、ひとりの力ではどうしようもない難局なのだ。ここにケアの倫理が要請されてくる。

 

ケアの倫理のキーワードは「修繕」である。修繕とは、「過去との継続性が壊れたり、断たれたりしそうになったとき、その継続性を維持しようとする活動」(295頁)のことである。近代政治の中心は、応報的な正義である。法が破れたら違法行為を罰して法の権威を回復することが目指される。こうした法的な裁きによる正義が社会の中心を占めるあり方は、被害者の回復や加害者の社会復帰という関心が希薄になり、つねに罰則の在り方のみに人々の注目があつまるようになる。しかし、修繕を正義とする考え(修復的正義)は、人と人が関係を紡ぐあり方にこそ関心を向ける。この修復的正義が倫理的な要請にもっとも応えていると思えるのは、すでにその声を聞かれぬまま亡くなってしまった過去の人々を私たちの社会に召喚することができるからである。従軍慰安婦となった女性たちは、長い間、その恥辱に苦しみ、声をあげることさえできなかった。ガヤトリ・スピヴァグが言うように本当の被害者は声を上げることさえできない(『サバルタンは語ることができるか』)。しかし彼女たちの証言を聞くことにとって、私たちは、彼女の語りには出てこないもっと深刻な被害者、そして今生きているこの世界にも自らが語ることができないばかりに声が聞かれない弱い者の存在がいるのではないかという事情に思い当たるはずなのだ。しかし近代ではこうした弱いものへの関係の修繕を志向するのではなく、「当時において合法だった」と法的な判断に訴えることで、弱者が虐げられた事実を正当化しようとする。しかしこれは自律的主体を設定した近代の論理から当然導かれる帰結なのだ。今は強者でも、いつなんどき弱者に転落するか分からない。人間が必ず老いることを考えれば私たちは少しずつ弱さに向かっていく存在だということもできる。そうであれば、正義がなされる社会とは、こうした弱者を見捨てず、関係を修繕する社会ではないか。「...つまりわたしたちにとっての他者からの視線からすると、つねに物理的に支えなければ「個」としては存続し得ない存在に対する「『集合的責任』にわたしたち一人ひとりが呼びかけられていることを伝えている』(338頁)。修復的正義は、依存性を捨象し自律的な主体を前提とした近代社会の在り方そのものを相対化し、変革のきっかけを私たちに与えてくれる。そして、それは「現在の国民国家の在り方を変革する力を持つ」(322頁)ものでもあるのだ。