851冊目『近代とはいかなる時代か?』(アンソニー・ギデンズ 而立書房) | 図書礼賛!

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本書はタイトルの通り、「近代とはいかなる時代か?」について書かれた本である。副題には「モダニティの帰結」とある。本書を読むことは、文字通り、近代とはいかなる時代かを考えることである。近代をイメージする概念として、理性という言葉が出てくる。理性を信奉したデカルトが、近代哲学の父と呼ばれるのはそのためだ。人間は理性を行使し、真理に迫ることができる。そして、この理性は誰にも等しく均等に分配されている、デカルトは『方法序説』(814冊目)でそう述べた。理性を信奉する合理主義は、市民革命、科学革命、産業革命をもたらし、まさに近代の原動力となった。そして、この理性の時代の延長を我々は生きている。

 

しかしながら、ギデンズは、実にユニークな角度から、近代の本質に迫っている。ギデンズが近代の特性を析出する際のキーワードが、脱埋め込みである。前近代においては、個人は共同体に埋め込まれていた。所属こそが自分の人生そのものであり、そこでは時間も空間も局所的な意味しか持っていなかった。しかし、近代という時代は、この時間と空間が局所的な土台を喪失し、抽象物となって浮遊する。その象徴が鉄道である。物資や人を遠隔地まで運ぶ鉄道は、物理的に人やモノを根から引き離すことで空間概念を変え、厳密なスケジュール管理によって、時間概念も変える。まさに、鉄道は近代の象徴なのだ。

 

もちろん、鉄道だけではない。貨幣もまた、時間と空間を〈いまここ〉から分離する。貨幣という交換の尺度を発明することで、遠地との取引を可能にし、また貨幣を貯め込むことで将来に大きな買い物をすることができる。このように、ギデンズは、時間と空間の概念が一変したところに近代の本質を見る。ギデンズ流に言えば、理性よりもまず、特定の場所に埋め込まれていた時間や空間がその制約を脱する「脱埋め込み」こそ、近代の本質として析出されねばならない。そうであれば、情報機器の発達によって、この脱埋め込みは今なお加速中ということになる。だから、ギデンズは現代をポストモダンの時代とは捉えず、モダニティが徹底化した時代だと捉える。ギデンズのこの立場は、バウマンとも共通している(696冊目『リキッド・モダニティ 液状化する社会』))。

 

近代の本質が「脱埋め込み」だとすれば、近代は必然的にグローバル化に向かっていくことになる。人・モノ・金が制約を超えて自由に往来することは、まさに近代的な運動である。しかし、この流動性によって、失われるのは存在論的安心感である。ギデンズは、本書でたびたび「信頼」の問題を取り上げるが、それは存在論的安心感を失った近代人にとって本質的な問題だからである。ここで、東浩紀の言う「人工知能民主主義」に話を飛躍させるが、モダニティの徹底化した現代において、情報技術が発達することで、かえって人々は情報の取捨選択をすることができなくなってしまった。おそらく、AIは、現代人がもっとも信頼を寄せるものとなる。しかし、この「人工知能民主主義」は、容易にファシズムに直結する(844冊目『訂正可能性の哲学』)。いささか文脈は異なるが、ギデンズの言葉を引用しよう。「全体主義とモダニティは、たんに偶発的なかたちでなく、本来的にも結びついている」(213頁)。近代の帰結は全体主義なのか。この問題を抜きにしてポストモダンなど論じることはできない。