844冊目『訂正可能性の哲学』(東浩紀 ゲンロン) | 図書礼賛!

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村田沙耶香の小説に「生存」という短編がある(823冊目『信仰』)。生存率というデータが人間の生を支配するようになったディストピア小説だ。その世界では、生存率の高低によってA,B,C、Dというふうにランク付けされる。Aランクの人々は生存率80パーセントを超えるが、Dランクの人々は、生存率は10パーセントにも満たない。それどころか、Dランクの人々は最終的には野人になり、人間であることからも脱落する。学校の通信簿には、成績とは別に生存率が掲載され、生存率のランクごとに住む地域は異なり、ランクが対等でない者同士の結婚は、不可能ではないが、極めて難しい。人々は、生存率のために勉強し、生存率のために就活し、生存率のために仕事し、生存率のために婚活する。ここにはもはや人間の生といったものはない。生存率というデータに統御された、無機質な人々の群れがあるだけだ。

 

もちろん、生存率による管理社会のディストピアは、小説の話に過ぎない。しかし、フィクションは現実を誇張することで、現実の諸問題を照射する働きがある。実際、村田沙耶香が描く生存率の世界は、どこか既視感がある。言ってみれば、生存率の世界は、生存率を算出するテクノロジーに人間が支配される世界だが、このテクノロジーに人間が従属する構造は、現実社会にそのまま重ねることができる。ところで、最近2000年放送の日本ドラマ『池袋ウエストゲートパーク』(主演:長瀬智也)をサブスクで観たのだが、当然のことながら、この時代は誰もスマホなんて持ってないし、SNSで情報発信をすることもない。主人公が「ソフトってなに?」というセリフを吐く場面するある。これがたった20年前のドラマなのかと思うと、隔世の感がありすぎて恐ろしいくらいだった。

 

テクノロジーの進展はますます加速している。シンギュラリティという言葉も生まれ、もはや機械の方が人間より賢いと判断される時代となった。たしかにAI医療が、実際の医者よりも的確にそれも短時間で病因を特定できたなどいう記事を読むと、医者の経験はそれほどたいしたものではないと思わないではない(1)。政治の分野では、AI技術による情報集積に基づいた統治が、投票行為が主な政治的意志表明の手段だった従来型の民主主義をアップデートできると主張する識者まで登場している。著者の東浩紀は、このデジタル情報技術に支えられた新しいタイプの民主主義観を「人工知能民主主義」と呼んでいる。東浩紀の『訂正可能性の哲学』は、救世主かのように崇められている人工知能民主主義について、哲学的な観点から意義申し立てを行っている本である。では、人工知能民主主義の何が問題なのか。

 

人工知能民主主義の問題点。それは、人々を群れとしてしか扱わないということである。どういうことだろうか。常時ネットにつながれた私たちの個人データは、ビッグデータとして取り込まれている。購買履歴、移動手段、ネット視聴時間等、こうした個人データがビッグデータを構成し、それがビジネスに転用される。しかし、ビッグデータが扱うのは、群れとして平均値である。つまり、ビッグデータは、「私」ではなく、「私に似た人々」にしか興味がないということだ(228ー229頁)。ここで、村田沙耶香の短編「生存」の世界観を思い出してほしい。ここでも対象となっているのは、個人ではなく、群れとしての平均値である。この小説の冒頭では、生存率アドバイザーが親の経済状況を勘案し、まだ生まれぬ赤子の生存率を算出するのだ。ここでは、個人が誕生する前からその生がすでに規定されている。

 

データ集積による人工知能民主主義は、個人を扱わない。そして、何より恐ろしいのは、人工知能が弾き出した数字に従うことが合理的な統治手法ということになり、異論や反論を一切受け付けなくなることだ。そもそも人間の無能を乗り越えるものとして人工知能民主主義が誕生している以上、人間の反論など無価値に等しい。しかし、これがファシズムではなくて、一体何だというのか。『訂正可能性の哲学』では、まさに訂正するという実践的価値を中核に、ファシズムに陥らないための処方箋を与えている。東浩紀は、ウィトゲンシュタイン、クリプキの議論から訂正の概念を取り出し、ルソー、アーレント、トクヴィルの著作を思想的に読み替え、訂正可能性こそが政治的な正義の原理であることを導いていく。ここの論の運びは実に見事で興奮さえ覚えた。さて、ここにきて、なぜ観光客が必要なのかも分かってくる(821冊目『観光客の哲学 増補版』)。観光客の存在こそ、訂正の運動そのものなのだ。

 

(1)AIは医者にとって代わる?─2040年「医師余り社会」に備えて | ゴールドオンライン (gentosha-go.com