タイトルに「モデニティ」と謳っている以上、これは近代論である。バウマンがこの書で論じている内容は、基本的にはポストモダンのそれに近い。しかし、ポストモダンが、現代を、近代が終焉した次の時代として一線を画すのに対して、バウマンはあくまで近代的事象としてみる。端的に言えば、ポストモダンは、現代を「近代以降」と見るのに対して、バウマンは「後期近代」と見る。これが単に言葉遊びではないことは、最後に触れるが、バウマンがあくまで近代にこだわるのは、新自由主義によって喧噪で、混沌とした荒れ狂った社会をもう一度作り直すのは、何か新しい価値軸を作ることではなく、近代的価値そのものを取り出すことで可能になると信じているからである。バウマンの問題意識は、近代という時代を、「重い近代」から「軽い近代」への移行期とみる点にある。では、「軽い近代」とは何なのか。それは資本の流動化にともない、それまでセーフティネットの基盤を築いてきた福祉体制が崩れていくことで、人々の生が不安定化するにもかかわらず、その責任の主体は個人に回収される、いわば社会無責任体制とも呼ぶべきものだ。かつて国民の人口に関心を示してた国家は、いまでは国民の生の基盤への関心を持たず、むしろセーフティネットの構築を重荷にすら感じている。
バウマンは、こうした状況を「ポスト・パノプティコン」という言葉で説明する。パノプティコンとは、近代的権力の源泉を表すキーワードである。一望総監視体制であるパノプティコンは、ひとりの看守が独房に幽閉されている多数の囚人を監視する。囚人は、いついかなるときも看守の存在を気にせざるをえず、常に監視されているという心理機制が、囚人が自らの振舞いを自律あるものにしていく。つまり、囚人の振舞いを矯正するのは、まさに囚人それ自身という奇妙な循環的な権力がここで生じているのであり、このような内面化を通して、近代の権力は、人々に意識されることなく、支配の論理を円滑に貫徹できる。資本の文脈でいえば、パノプティコンにとって必要なのは土地と労働者である。バウマンによれば、米国フォード社が自社の労働者の賃上げを決行したのは、ファード車を買わせるためではなく、フォード社専属の労働者としてよその工場に流出しないように囲い込む必要があったからだ。労働者は工場という場所に縛りつけられている必要があり、さらには管理者もその現場に縛りついていなければならない。この場所への固定が「重い近代」の特徴である。しかし、現在の労働環境は管理責任の監視人の顔が見えないことが多い。2004年に非正規雇用という雇用の調整弁的労働形態が解禁されたことで、資本は、この不安定な労働者の生への答責性から逃れるようになった。かといって国家がその肩代わりをするわけでもない。パノプティコン以降とも呼べる現象が確実に生じている。
バウマンの巧みな一般化を引用すれば、重い近代の権力原理は支配であったが、軽い近代の権力原理は逃亡である。セーフティネットが崩壊し、個人の生は不安化していっても、そうした生への答責性から逃げ続けるのが現代的権力の在り方である。いまの権力は、いかに現場から逃避し、責任を回避するかが重要なのである。この背景には資本のグローバル化がある。資本はより利益を獲得できる場所をもとめて国境を用意に飛び越えるが、国家は資本をつなぎとめるために、雇用、人件費、税収などの面で資本のいいなりになるしかない。その結果、先進国の製造業を人件費が安く済む途上国へ移転することで、先進国内における雇用が空洞化し、あるいは底辺への競争へと追い込まれる。生活を保障できる職はどんどん先細りになる。これまでの様々な秩序を解体する資本のグローバル化によって被る影響は甚大であり、もはや国家でさえも責任を担えるレベルにはない。資本も国家もこの答責性からひたすら逃げ回るのみであり、責任は個人の能力のレベルで論じられるようになる。非正規、派遣、下請け、ピンハネ、OJTなしの職場環境は、当の労働者の生の責任から逃れ回りたい「軽い近代」がもたらす必然的な帰結であり、もしこのレールからこぼれ落ち路上に放り出されても、努力不足のレッテルを貼ればいい。
個人、責任、主体性という、近代を彩るキーワードでありながら、どこか胡散臭さを感じる言葉には、軽い近代の狡猾な責任逃れがある。結果、私たちは個人ごとに分断され、そこに連帯が芽生える契機すら喪失している。公共圏へのアクセスを欠いた個人という集団は、今後どのような政治的局面に突き当たるのだろうか。バウマンの未来の展望図は、こうだ。「いまはひと気がほとんど絶えた公共広場を、個人と集団、私的幸福と公的幸福の出会い、討論、交流の場として設計しなおし、ふたたび人々でいっぱいにすることである」(53頁)。私の理解が正しいなら、バウマンは近代がもたらした液状化する社会を組み立て直すには、博愛を掲げたあのフランス革命の理念、つまり近代の黎明期の価値をもう一度見つめることが大事だと言いたいらしい。自分の生さえ支えるのがやっとの「軽い近代」において博愛精神を云々するのは的外れもいいとこかもしれない。しかし私は、この博愛精神をケアの倫理と読み替えたとき、近代が構造的に抱えてる矛盾を突破できそうな気がするのだ。この論点は、岡野八代『フェミニズムの政治学』を取り上げるときに引き継いで考えてみたい。