傲慢な人間はとても多い。僕もこれには気をつけなくてはならない。傲慢な人間を意識しすぎることで、僕も同じ罠にはまっていることになるのだから。
傲慢とは、自己の能力や価値や重要性が他人のそれよりも優れていると認められたいと欲望を持ち、それゆえ他者を見下し、横柄になる様のことをここでは指す。
正直な話、他人よりも優れている、勝っていると客観視するモーメントはある。しかし、この感情の生起自体を、排除することは難しいだろう。
他人より優れていることだけで自己満足してしまう人間の器の小ささへの指摘と、ある側面のみ優れているからといって、他者を格下と扱ってしまうことへの反発、大きく言ってこの2つの理由から、驕り高ぶることは良きことではないと古来よりされてきたのかもしれない。
僕は波動で人を見る、と前回触れた。この波動とは生き物(人間)全てが発しているものであり、その生き物の生き様のような、包括的なものである。
波動が良い悪いとは、その波動が好きか嫌いか、とも言い換えることもできる。この波動はその人の能力も人間性も知り得ない深さも、絵画のように感性に訴えるものとして反映するので、傲慢という病にかかっている人を見ると、すぐにそのギャップがわかってしまう。そのギャップとは、その人の虚勢と実際の能力の差分と言ってもいいかもしれない。
幼い頃から似たような見方で大人を判断してきたものの、この数年で、このような見方で人を見るように飛躍的に鍛えられたので、人が使う「事実」という、宇宙の物理法則からすると至って曖昧模糊なるものだけに惑わされず、波動を伝って本質まで早く辿り着けるようになってきた。同じ波動の人は同じ波動の人と繋がるからである。
実際、これこそが僕が世界の多分野での一流と呼ばれる人たちと知り合ってきたノウハウな訳だが、自戒を込めて考えると、この目に見えない波動なんぞばかりを極めようとか、フォーカスして超能力を身につけようとかいう新たなる欲望に取り憑かれると、オウム真理教のようなカルト教団となるのだと思う。
僕の考えでは、この見方はこのような危険性を孕んでおり、邪馬台国の卑弥呼のように、波動で国政などを進めた時期もあったと思うのだが、やはりいつの時代にもカルト的なやり方をする者と、それを恐れて潰そうとする者のタイプが現れ、システムとして根付かず持続しなかったのだと思う。
今回はなかなかすごいテーマになってしまった。。
どのように波動を感じて、どこまでそれを取り入れてシステムとして組み込むかについては、より感性ドリブンな舵取りが要求される21世紀の大きなテーマなのかもしれない。