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1丁目住人のブログ

一人一人が楽しく生きるためのブログ。

上場準備中のIT関連の投資先の取締役会に参加。会社法上では株主が取締役会に出席する必要はないのだが、ここの経営者の考えで、オブザーバーとして参加してもらうように毎回声をかけられている。なるほど、経営側と所有側の情報の非対称性を適宜解消し、「知らなかった」、「何で今更」という批判を前もって刈り取り、経営戦略の遂行に株主を巻き込む作戦と思われる。

投資家からの様々な遠慮ない質問が経営陣へと向けられる。投資家と経営者の互いに容赦ないミーティングである。

今回、このミーティングの内容には関係ないのだが、威厳についてつくづく考えされられた。

というのも、僕が常に年齢以下に見られ、第一印象で舐められるからである。昨年入社したとか言うと、新卒ですか?なんて聞かれたりする。えっ?て感じである。

たしかに、僕の肌はこの歳にしてはピチピチだ。睡眠だって十分とっているから目の周りだってクマなんてない。白髪もシワも殆どなく、お腹だって出ていない。そして、毎朝シェイブしているので髭面でもない。そうすると、あまりまだ苦労していない20代半ばの若者に見えるらしい。笑

本質的には、このギャップを武器にすべきなのであるが、外見が幼すぎるのも後々誤解や先見を解消するコストが高くつく。そこで、老け面になるために、色々と実験をしてみることにしようと思い、ここに記した次第である。


傲慢な人間はとても多い。僕もこれには気をつけなくてはならない。傲慢な人間を意識しすぎることで、僕も同じ罠にはまっていることになるのだから。

傲慢とは、自己の能力や価値や重要性が他人のそれよりも優れていると認められたいと欲望を持ち、それゆえ他者を見下し、横柄になる様のことをここでは指す。

正直な話、他人よりも優れている、勝っていると客観視するモーメントはある。しかし、この感情の生起自体を、排除することは難しいだろう。

他人より優れていることだけで自己満足してしまう人間の器の小ささへの指摘と、ある側面のみ優れているからといって、他者を格下と扱ってしまうことへの反発、大きく言ってこの2つの理由から、驕り高ぶることは良きことではないと古来よりされてきたのかもしれない。

僕は波動で人を見る、と前回触れた。この波動とは生き物(人間)全てが発しているものであり、その生き物の生き様のような、包括的なものである。

波動が良い悪いとは、その波動が好きか嫌いか、とも言い換えることもできる。この波動はその人の能力も人間性も知り得ない深さも、絵画のように感性に訴えるものとして反映するので、傲慢という病にかかっている人を見ると、すぐにそのギャップがわかってしまう。そのギャップとは、その人の虚勢と実際の能力の差分と言ってもいいかもしれない。

幼い頃から似たような見方で大人を判断してきたものの、この数年で、このような見方で人を見るように飛躍的に鍛えられたので、人が使う「事実」という、宇宙の物理法則からすると至って曖昧模糊なるものだけに惑わされず、波動を伝って本質まで早く辿り着けるようになってきた。同じ波動の人は同じ波動の人と繋がるからである。

実際、これこそが僕が世界の多分野での一流と呼ばれる人たちと知り合ってきたノウハウな訳だが、自戒を込めて考えると、この目に見えない波動なんぞばかりを極めようとか、フォーカスして超能力を身につけようとかいう新たなる欲望に取り憑かれると、オウム真理教のようなカルト教団となるのだと思う。

僕の考えでは、この見方はこのような危険性を孕んでおり、邪馬台国の卑弥呼のように、波動で国政などを進めた時期もあったと思うのだが、やはりいつの時代にもカルト的なやり方をする者と、それを恐れて潰そうとする者のタイプが現れ、システムとして根付かず持続しなかったのだと思う。

今回はなかなかすごいテーマになってしまった。。

どのように波動を感じて、どこまでそれを取り入れてシステムとして組み込むかについては、より感性ドリブンな舵取りが要求される21世紀の大きなテーマなのかもしれない。

世界一のスタートアップネイション、イスラエルのベテラン起業家が来日していて、この一週間色々と一緒に過ごしていた。

彼自身20社以上に投資をしていて、そのうち8社がリードインベスターで入っている。スタートアップ界のメンターを務めていたり、イスラエルを代表する人物だ。

彼から学ぶものはとても多い。

まず何でも試すこと。そして、その失敗ではないトライアルから学ぶこと。期待ではなく希望を語ること。常にタフであること。

高飛車に言うつもりはないが、やはり一流の人と付き合うことが大事である。僕にとって一流とは、波動の高さのことである。その人の持っている気のような、オーラのようなものである。

その人が今やっている仕事や就いている地位、外見や人脈などはいわゆる、結果として時間が経って具象化した遅行指数のようなものでそれから判断してもポテンシャルは見えないし、人間の中での相対的な評価なので、アテにならない。(つまり、評価する人のレベルに依ってしまい、たとえ評価者が全員レベルが低くても、相対的に「すごい」ということになってしまう。)

もっと絶対評価による源泉を掴むことが大事だ。それには、感性で補うしかないと考えている。

これから咲こうとしている花のつぼみから、生命の初々しくも力強く凛とした美しいポテンシャルを感じるように、情報ではなく感性で捉える。すると、その人のエネルギー源のような深みが波動(風)として伝わってくる。

この波動で感じた基準で僕は人付き合いをしている。なので、一般的に偉かったり、尊敬されている人でも波動が悪ければ無視である。残念ながらそういう人々はたくさんいて、幅を利かせていたりするので厄介だ。

こういう人たちとは絶妙に距離を取りながら、粛々とやるべきことを彼らに邪魔されずに、上手く立ち行きたいものだ。



起業家や投資家を中心にした社会人、学生、大学教授が集うミートアップイベントに参加した。というより主催側だったのだけれど。

言うまでもなく、近代日本における学生とは、未熟で発展途上な存在である。僕らのような若手~中堅社会人でさえ、世の中の辛酸を舐めたことが少しくらいはあるかもしれないが、それでも世の中のことを多く知らない。こと海外の事情についてはさらに白痴である。

辛いことや苦労も少なく、常に満足に食事が与えられ、指導要領に沿った教育を日本人によって与えられ、つい先日センター試験を終え、やれ「グローバルに通用する人間になれ」とお尻を叩かれている、お酒を飲めるようになっはばかりの子供たちだ。

そういう彼らが今、人生の一つの選択肢として、起業家に憧れている。

それはそれで良いことだ。ポジティブだし、反対するような人も少ない時代だろう。

しかし、やはり起業云々よりも、僕らが真にこれからの10代20代の若者に啓蒙しなくてはならないのは、己と向き合いながら固めてゆく、それぞれの独立した生き方なのである。

成功していると言われる起業家は必ずと言っていい程、強烈な原体験を持っている。多くの場合それはショッキングな出来事であり、それによって時間の有限性を知り、己がなすべきことを悟り、自分なりの貢献をしようと心に決めるのだ。

そのような境遇にステージが進むと、周囲の顔色を見て行動することはもはや無価値である。世間的な幸せや生き方は参考材料にこそなるが、マニュアル通りなぞる必要性もなく、何しろインセンティブが一切ないので、そういう行動はとらない。

まさにアニメ、「ハンター×ハンター」中のグラピカが幻影旅団に復讐する時の「制約と誓約」であり、その背後には、最終的には自分自身にコミットメントしかないのだ。

そういった意味で、"一つの生き方としての起業家はどうでしょうか?"という切り口では、本質を語ることはできないと思っている。

全員に言えることは、様々なことを能動的に経験し、失敗という実験結果を味わって、自分オリジナルの生き方に辿り着けということであり、一つの結果に対して、個の文脈なしにアントレプレナーへ誘導することは、ベンチャーキャピタルという立場上むしろ、ご法度のように感じている。

戦後日本の、大企業を沢山生み出して皆で一緒に成功してゆくというモデルは終わりを告げ、アメリカを始めとした先進国のように、個の生き方や行いが世の中に直に反映される世の中になった。

時代は個の成熟という前提を求める時代になった。だが、まだ日本の個人は成熟し切れていない、というのが僕の見方である。

いつの時代も幸せへのショートカットはなく、螺旋階段のように、満遍なく味わなくてはならないのだと、僕は信じている。

成功を味わい、友人や家族に愛されて愛する。人生の所謂"幸せ"を感じる瞬間。でもそれは階段の踊り場のようなもので、同等に挫折や悔しさ、孤独や悲しみも愛し、波乱万丈を受け入れることで、もう一階上のもっと面白くて眺めの良い踊り場に行けるのではないかと思う。それが僕の成長意欲の源泉だ。

とにかく、若者と交流することは良い。いつも考えさせられる。作用と反作用で、いくらこちらがリードして話してても、何かを与えてもらえる。
昨晩の投稿を見直してみて驚いた。。誤字脱字だらけである。そして、文脈もあまり論理的でなく、スッキリとしていない。

まあ、酔っ払っていた僕の頭の中をよぎった順に書き出してみたので、そういった意味では記録としての意義があるのかもしれないけど、対外的に発信するものとしては粗末であったなと思う。

そもそもこのブログは僕の頭の中を整理することが第一義なのでそれも良いのだが、シラフの時の僕が読んだ時に、結構イライラするので、やはり、書き出すことと、書き整えることは、使う神経が違うのだろう。勉強になった。

ところで最近、僕の嫌いなアメリカのネイティブが使う言い回しを仕方なく覚えている。

例えば、this is itは「いよいよだ」という意味だし、that's thatは「それで決まり」といあ意味、that does it!は「できた!」という意味である。

ヨーロッパや中東に出張の時には、こういった簡単な単語の使い分けによる用法はほとんど基本的なところしか使ったり聞かなくてもコミュニケーションが取れた。

しかしながら、アメリカ、特に西海岸では、こういったくだけた言い回しをカバーしていないと、僕のキャラでは、よそよそしい建前トークから抜け出せないというのが、今感じていることだ。

日本社会でも同様のことがあるように、独特の、波長が合った、言葉の掛け合いで意気投合し、盛り上がることがある。まさにそれである。部外者として認識されてしまえば、それまでなのだ。たまにブロークンイングリッシュでも誰とでも仲良くなれるスーパーマンがいるが、僕はそういったタイプではない。

アメリカと距離を置きたい僕としてはあまり乗り気ではないのだけれども、これを押さえておかないと、どうもイマイチ、コミュニティに入りにくいのでやなくてはならない。

ファイナンスの専門用語と同時に、こういった砕けた用法を習得する。なんだか国内にいながらにしてMBAを取っているような訓練なのだが、ベースが国内でもここまでできるのだ、という驚きを提供し、国内組の中でも英語達者度がトップ層となるのが、今の一つの目標である。

これからの時代ならばテクノロジーが後押ししてくれるし、今まで花が咲かなかったところからどんどん花が咲くような、益々場所にも言語にも予算にも制約を受けないようになってゆくだろう。

既存のやり方を闇雲に踏襲してその山の頂ばっかり見ていないで、頭柔らかく、フレッシュで効果的な方法を常に模索して率先して試してゆきたい。