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1丁目住人のブログ

一人一人が楽しく生きるためのブログ。

いやあ試験が終わりひと段落と思いきや、仕事がどっさりもっさり♡という感じでであり、しかも、どれも重たいものばかり。

特に、投資する・しないみたいなところで話がすったもんだしている案件があり、先方の期待とこちらの事情、そして第三者の方々の間に挟まれて胃が痛い。ほんと、投資実行までの交渉プロセスは恋愛のそれよりも緊迫しており、大人の世界である。そして、それを回収するのはもっと難しい。。

常に取捨選択をして前に進み、その場の判断とタフな交渉と発想力が問われる。プレッシャーはでかく、ライバルも強大であり、あらゆる情報に通じていなくてはならない。・・なんて鍛えられる職業だろう。

ダイヤモンドになるには、やはり相応の負荷からは逃れられないのだと言い聞かせ、今週もがんばりたいとおもふ。実際、逃げたくなったことはない。実質を鍛え上げるしかないのだという覚悟はある。

僕が持つ人の成長のイメージとは、積み上げてゆくこととは少し違っていて、より自由になるというイメージである。知識を身につけ、経験を積み、いろんな人と繋がり交流し、知見を得てゆく。そうすることで、やっと、ひとまとまりの成長セットメニューを終えることになる。次の行動に移すときに、より軽やかに本質をつかむことができ、今まで大きな壁だと思っていたものが石ころのように見え、経験にレバーをかけて、より新たな人やテーマと繋がってゆく。

新しい知識や人脈、ものの考え方を得たときに、それに束縛されてはならない。頭で覚えたものも体で覚えさせるところまで本質を吸収し、感性を解放して、新たに出会う何かにアクセスしやすくしておく。肉体は衰えていっても、魂を常に若く保つ。好奇のエネルギーを育み、殺さない。

そういう生き方を貫ぬくこと、それが内的な夢かもしれない。ストレスや苦痛が伴うことはあるが、それを迂回すると、極上の楽しさには遭遇できない。金を稼ぐために仕事をするのではない。たくさん働いて、金を稼ぐことが悪であるかのように聞こえること、それこそが社会の病巣なのであるということに気付かないとならない。

より慈愛に満ちた筋の通った社会を作っていき、世の中を変えることができれば、なんて愉快なことだろう。僕にはそれが、すぐ未来にきていると感じる。

ネパールで大きな地震が起きた。僕が大学生の頃バックパッカーで回っていた中でも最も好きだった街、カトマンドゥの旧市街がめちゃくちゃになっているとのこと。さっき被災地の募金をしてきた。僕は10年前の当時、貧乏旅行だったので、陸路でインドのバラナシから床に穴があいているバスで12時間くらいかけてネパールへと入国した覚えがある。お尻がとても痛くなった。最初のネパールの地はルンビニという仏陀の生誕地と言われている場所であった。そこで菩提樹を見ていたら、誤ってそれまで撮りためたカメラのデータが全て消えたのを覚えている。そこはルンビニの土地であったので、写真を撮るということに強欲になっていることに罰があたったのかとおもい、それ以降僕は、旅では美しい景色は頭に焼き付けるようにして、カメラで写真を撮らなくなった。とってもiPhoneのカメラくらいである。

あちらに住んでいる知人もいて、彼らの安否が気になっており、メールを投げているところだ。どうか無事でいて欲しい。人間とは結局のところ、地球上のすべての痛みを感じることはできず、こうやって直接的に気持ちの繋がっているところに被害があると、はじめて自分事として捉えられるものなのである。でも考えてみると、関心を持っていない人を単純に責めることはできず、それはそういう”作り”になっているだけだ。いかにこの世の中のありとあらゆる情報を集めたとして、行動し、それを本質的に変化させることができるほど忍耐強く行動し続けることができるのはほんのわずかである。ただ今回の天災のように需要が一時的に巨大になったときに単発のアクションで十分な行動、その一つが募金なのである。

最近募金やクラウドファンディングを始めとする金集めの動きが散見されるようになったので、改めて考えてみた。僕という人間一人が生きているうちにできることは限定されている。行動に対してどれだけ本質的な意味があるのか、自問しながら、研ぎ澄ませながら生きていくことが、正しい道であるということを再確認した。
初の大学での講演が終わった。。僕はこういうのはかなり緊張するタイプである。自分が非常によく気づくタイプだし、話を聞いている人の気持ちが手に取るようにわかるので、どんなに小規模でも荒くやり過ごしたくない。適当にやると色々感じすぎてしまって、後で後悔するからだ。

結果、合格点は突破できたように思う。話を聞いていた人や主催者からもコメントをもらってそのように思った。とても良いコミュニティだし、投資家としても、金の話につながらなくとも、こういう質の良い人達とは付き合っていきたいと思う。要するに、直接的な成果に結実しうる付き合いではなく、インフラとなる付き合いである。

そんな中で、一人ちょっと気遣いの不足により、リレーションがうまくいっていない人がいる。こういうのは非常にもどかしい。ストレスだ。”たられば”によって、感じるところもあるのだけれど、それが僕の実力なのだから仕方がない。次回からがんばろう。後に引きずらないことだ。

改めて思ったことは、大学の授業で毎回本当に面白い授業をするということは本当に難しいということだ。単発で面白い講義をすることはできるかもしれないが、毎回となると話が変わってくる。僕はほんの15分~20分ほどの話だけでもこれだけ心労したのだから、もっとアドリブを混ぜて楽にやらないといけない。僕に取って人前で話すということは、最も苦心する仕事の一つである。
先日お会いした関西出身の僕より一回り上のシリアルアントレプレナーから、事業について相談を受けていたのだが、なんとその時の僕の話で、アイデンティティを取り戻したと言って頂き、事業の方向性を大きくシフトしてしまった!

嬉しい反面、なんだか責任重大な気もしている。人の人生を変えてしまった。こういうダイナミズムがキャピタリストの醍醐味なのかもしれない。

正直、僕は人の相談事に巻き込まれやすく、老若男女の色んな人達の相談を受けていて、今まであまり不満足な結果は与えていないと自負している。それはひとえに人へ親切にすると心地よいということと、自分の価値を落としたくないという気持ちからである。

経営者は孤独であり、どんな優秀な経営者でも、心の中で叱咤激励を時には求めている。

僕のメンタリングはそんなハードなものではないけれども、その人の置かれた状況を俯瞰して、冷静に、本人の力の漲る方向性を見出すことは得意分野だ。

そう言った意味で、僕は空気を読まず気丈にガツガツ進むタイプではないし、参謀タイプなのかもしれない。

いくつかの会社の社外取締役でも兼務しながら、自分の好きなことをやっていくのが、結構理想的な働き方なのかもしれない。

そう生きるためにも今がんはらなくては。周囲のみんなが期待してくれるのだが、その分、非常にプレッシャーも遠慮なく強くなってきている。

とにかく業務効率を早めないと、新たなものを取り入れることはできない。個人をベンチャー化しないと、やっていけない。