ネパールで大きな地震が起きた。僕が大学生の頃バックパッカーで回っていた中でも最も好きだった街、カトマンドゥの旧市街がめちゃくちゃになっているとのこと。さっき被災地の募金をしてきた。僕は10年前の当時、貧乏旅行だったので、陸路でインドのバラナシから床に穴があいているバスで12時間くらいかけてネパールへと入国した覚えがある。お尻がとても痛くなった。最初のネパールの地はルンビニという仏陀の生誕地と言われている場所であった。そこで菩提樹を見ていたら、誤ってそれまで撮りためたカメラのデータが全て消えたのを覚えている。そこはルンビニの土地であったので、写真を撮るということに強欲になっていることに罰があたったのかとおもい、それ以降僕は、旅では美しい景色は頭に焼き付けるようにして、カメラで写真を撮らなくなった。とってもiPhoneのカメラくらいである。
あちらに住んでいる知人もいて、彼らの安否が気になっており、メールを投げているところだ。どうか無事でいて欲しい。人間とは結局のところ、地球上のすべての痛みを感じることはできず、こうやって直接的に気持ちの繋がっているところに被害があると、はじめて自分事として捉えられるものなのである。でも考えてみると、関心を持っていない人を単純に責めることはできず、それはそういう”作り”になっているだけだ。いかにこの世の中のありとあらゆる情報を集めたとして、行動し、それを本質的に変化させることができるほど忍耐強く行動し続けることができるのはほんのわずかである。ただ今回の天災のように需要が一時的に巨大になったときに単発のアクションで十分な行動、その一つが募金なのである。
最近募金やクラウドファンディングを始めとする金集めの動きが散見されるようになったので、改めて考えてみた。僕という人間一人が生きているうちにできることは限定されている。行動に対してどれだけ本質的な意味があるのか、自問しながら、研ぎ澄ませながら生きていくことが、正しい道であるということを再確認した。