國體護持 第六章 第一節 (現代産業社會の限界)-3
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html
(現代産業社會の限界)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10283325462.html
第六章 萬葉一統
第一節 世界的危機の諸相
(現代産業社會の限界)-3
政官財(業)は三位一體(体)となつて國(国)際貿易を推進してきたが、これらの體制を支へる多數(数)決原理の民主主義が形骸化し、官僚統制國家(全體主義國家)に陷(陥)つたために、思考が硬直化してゐる。そのため、これらの諸問題を效(効)率良く解消しうる理念や、その解消のための總(総)合的政策が立案されず、刹那的政策又は無策による混迷と無明が續(続)いてゐる。これは、日本だけに限らず世界共通の事態であり、このままの状態が續けば、問題はさらに深刻となり世界各國は悉く破局を迎へる危險(険)が迫つてゐる。
さらに、産業構造を支へる基盤においても變(変)化が生じてゐる。マルクスが指摘したやうな、資本家が勞(労)働者(プロレタリアート)を搾取し、勞働者が窮乏化するといふ一方方向ではなく、その後の資本主義社會(会)は、勞働者が「消費者」となることによつて、勞働者は單(単)なる搾取の對(対)象ではなくなつてきた。資本家に支配され搾取される勞働者が、その得た賃金を以て商品購買力を持つ消費者として資本家の前に登場し、商品のより高い付加價(価)値を求めることによつて、逆に資本家の活動を支配するといふ循環的な協力關(関)係が構築された。この循環の中において勞働運動は終息し始める。しかし、このことは、資本家と協力關係を構築する富裕層の勞働者を生み出したものの、新自由主義(市場原理主義)が席卷(巻)することによつて、增(増)大する絶對貧困層を增大させ、この絶對貧困層は次世代勞働者を供給することが不能となつてゐる。新自由主義經濟(経済)下で不安定な雇用關係や勞働状況にある非正規雇用者や失業者を、precario(不安定な) Proletariato(無産階級)といふ意味のプレカリアート(伊precariato)といふ造語で總稱(総称)することがあるが、これは、まさしく新たに增大しつつある絶對貧困層のことである。結婚、出産、育兒(児)といふ過程を經て、次世代勞働者を社會に送り出す母體(体)となる家族を設けて生活することが貧困のためにできない。これは將來(将来)における勞働の供給不能といふ側面もさることながら、「倉廩(そうりん・米ぐらや穀物ぐら)實(実)ちて禮(礼)節を知り、衣食足りて榮(栄)辱を知る」(『管子』)ことができず、延いては家族の崩壞(壊)といふ由々しい事態を招く。そして、その貧困層の老齡化による社會福祉費の增大によつて、資本家と富裕勞働者層との協力循環の規模は縮小し、勞働運動は絶對貧困層についてのみ生き續(続)け、より過激な方向になるであらう。「格差社會」といふのは、勞働者層の二極化のことであり、マルクスが豫(予)測しえなかつた新たな「窮乏化理論」が登場しうる社會となりつつあるのである。
ところが、前述したとほり、經濟學(経済学)は、これを是正するための經濟(経済)思想や經濟(経済)理論を放棄してゐる。そして、新自由主義(市場原理主義)に對(対)する齒止めがないまま、生産至上主義がさらに增(増)殖し續(続)けるのである。
(生産至上主義の修正と破綻)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10285251493.html
國體護持 第六章 第一節 (現代産業社會の限界)-2
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html
(現代産業社會の限界)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10283325462.html
第六章 萬葉一統
第一節 世界的危機の諸相
(現代産業社會の限界)-2
生産至上主義を支へるのは、徹底した分業體(体)制であり、それは國(国)際分業體制に通ずるのである。分業といふのは、會(会)計學(学)と經濟(経済)學の見地からすると、これまでは一つの企業内で内部取引として處(処)理され、獨(独)自にはGDPの對(対)象と認識されなかつたものが、分業をすることにより社外調達(アウト・ソーシング)することによつて、對外的な取引へと轉(転)換して需要と供給とに分離し、それぞれGDPの認識の對象となる現象のことである。つまり、分業が細分化すればするほど、效(効)率は高まつても仕事の總(総)量に變(変)化はないのに、經濟規模だけは擴(拡)大するといふカラクリになつてゐるのである。
マルクスも、生産至上主義の立場を堅持して、世界市場の建設は、資本主義體(体)制の國(国)際的性格を發(発)展させるものであり、これは、機械制大工業による大量生産の社會(会)的性格の發展と竝(並)んで、「歴史の進歩」を意味するものであるとして、共産主義社會の前提として自由貿易主義を主張してゐた。自由貿易主義は生産至上主義の必然的な歸(帰)結なのである。しかし、その結果は、「南北問題」が一段と深刻化し、國家間の貧富の差(南北格差)は更に擴(拡)大するのみならず、窮乏化する國家の内政を不安定にし、支配者及び富裕層と被支配者及び貧困層との乖離(かいり・結びつきがはなれること)は絶望的な對(対)立状況を生んでゐる。
しかも、資本主義世界において、共産主義が脅威であつたころは、貧富の差が擴(拡)大することに懸念を抱いたが、共産主義が壞(壊)死状態となつた今日では、貧富の差が擴大することを「進歩」のあかしとして歡(歓)迎する傾向にある。
このやうな貧富の差や南北格差が發(発)生する根本矛盾を隱蔽し、生産至上主義を維持するための免罪符として、政府開發援助(ODA)などの經濟(経済)援助を行ふが、その實(実)態は、自國(国)の企業に對(対)する援助や窮乏國家の支配者に對する援助の側面と、その國民に生活物資を供給するための援助の側面がある。前者の欺瞞は言ふに及ばないが、後者もまた結果的には國民の自立再生を阻み、窮乏國家を「人間保護區(区)」とするに等しく、「人間サファリパーク化」であり、「奴隷牧場化」させることになる。物を與(与)へるだけで、仕事を與へない。産業や技術を誘致しないのである。これらの施策が原因となつて、世界各地では、人口爆發が起こり、生活水準は向上しない。そのため、これらの不滿(満)が、宗教紛爭(争)、民族紛爭などを引き起こし、國内紛爭や國家間紛爭が激化して、難民や移住者などの大量發生や大量の人口移動が慢性的に繰り返され、今や一國では對應(対応)しきれない國際問題となつてゐる。
世界全般では、核兵器、原發(発)、軍縮、異常氣(気)象對(対)策、地球環境、人口調整、食料確保、エネルギー確保、貿易摩擦、宗教紛爭(争)、民族紛爭、地域紛爭などの國(国)際問題が山積し、各國でも、交通澁滯、都市集中、水質汚染、ゴミ處(処)理、教育、人醫(医)療、福祉など數(数)へれば切りがないほどの樣(様)々な問題を抱へ、さらに、一方では人工爆發の問題があり、他方では高齡化、少子化の問題があるといふやうに、問題が個別化する樣(様)相を示すなど、これらの問題が一國(国)では解消しえない程度に至つてゐる。
さらに、我が國(国)では、これらの問題に加へて、政官財(業)の癒着腐敗による混迷、瑣末(さまつ・重要でないこと)な論議に終始する政治の空白、出生率の低下と就業可能人口の減少による國勢全般の下降傾向、醫(医)療・厚生・福祉關(関)連豫(予)算の增(増)加傾向、高齡化社會(会)對(対)策の不備、過疎化、農村崩壞(壊)、さらに、水・食料・資源・エネルギーなどの「基幹物資」の自給率の低下、コメの自由化などによる農業の疲弊、經濟(経済)貿易摩擦、ODAの擴(拡)大、占領憲法と自衞隊・PKO、周邊事態、對米從屬(従属)の弊害などの多くの問題に直面してゐる。
※占領憲法=日本国憲法
(現代産業社會の限界)-3 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10283337145.html
國體護持 第六章 第一節 (現代産業社會の限界)-1
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html
第六章 萬葉一統
第一節 世界的危機の諸相
(現代産業社會の限界)-1
現代社會(会)は、工業生産中心の産業經濟(経済)社會である。これは、全産業に技術革新をもたらした産業革命から今日に至るまで全世界を支配してゐる「生産至上主義」で統制されてゐる。この生産至上主義とは、産業生産が大きくなればなるほど人類は、生産によつて得られた豐(豊)富な財貨を所有し、使用し、消費することによつて福利も大きくなるとしたうへで、産業革命による技術革新の恩惠は、全産業部門に飛躍的發(発)展をもたらすことによつて、限りなく歴史は進歩發展するとの單(単)線的な進歩發展史觀(観)のことである。
一般に、全産業構造を理解する説明として、全産業部門を第一次産業(農業、林業、漁業)、第二次産業(鉱業、加工業、製造業、建設業)及び第三次産業(商業、運輸業、通信業、サービス業)に分類し、第一次産業と第二次産業による「生産」部門は、第三次産業の「流通」部門を經(経)て「消費」部門へと向はうとの基本認識が用ゐられる。しかし、ここには、「消費」によつて發(発)生する廢(廃)棄物の無害處(処)理及び資源再生利用處理などの「再生」の觀點(観点)が完全に缺(欠)落してゐた。といふよりも、再生過程は、當(当)初は原則的に産業ではなく、從(従)つて、資本が投下される對(対)象とはならなかつたのである。生産過程で重視されるのは、資本と勞(労)働の「生産性」や「利益性」などの經濟(済)效(効)率の向上であり、再生を踏まへた生産は、これらを低下させることになるから埒外の事柄であるとされた。その觀點の缺落が「公害問題」や「産業廢棄物處理問題」などを發生させ、その處理需要が社會(会)的に認識されることにより、再生過程は新たに産業として新規參(参)入してきたのである。しかし、處理需要が存在しないものは産業化されずに全く放置される。今、地球で起きてゐる諸問題の多くは、再生過程の問題であり、すべて、處理需要がなくて産業化されてゐない部門や、技術的に産業化が立ち遲(遅)れてゐる部門である。
從(従)つて、この生産至上主義は、「生産」部門の觀點(観点)からみれば「生産の擴(拡)大」であるが、「再生」部門の觀點からは「廢(廃)棄物の增(増)大」であつたのである。
ところで、この生産至上主義を「資本」原理から全面的に肯定した資本主義は勿論のこと、資本主義を「勞(労)働」原理から修正したマルクス主義もまた、生産至上主義の本流である。マルクスにも、「再生」の觀點(観点)がなく、「公害問題」の認識はなかつた。本來(来)、公害問題の個別事例や派生形態として認識すべき職業病などについても、專ら勞(労)働原理からの觀點により、これを勞働力の再生産段階の「賃金問題」のみに置き換へたのである。
このやうな生産至上主義によれば、生産に必要かつ經濟(経済)效(効)率の高い資源を用ゐることになる。それは、調達コストで決するのであり、生産に不可缺(欠)な大量消費物資である動力源(エネルギー)を埋蔵燃料(石炭、石油、天然ガス等)とすることは必然的であつた。石炭から石油などへの轉(転)換は、この調達コストと産業的汎用性の問題に盡(尽)きるのである。しかし、石油等の埋蔵燃料の産出といふのは、鉱業の一種で第二次産業に屬(属)するものであつて、その埋蔵燃料は地球の構成物であり埋蔵量が有限であるとともに、その大量消費は、産業革命の發(発)祥地であるイギリスのロンドンで發生したスモッグなどの公害を引き起こし、地球の大氣(気)構成に影響を及ぼすことは當(当)初から豫(予)測しえたのであつて、その利用によつて地球生態系の破壞(壊)と資源の枯渇が起こり、産業自體(体)が限界に到達することは容易に推測できた。
また、自動車や家電製品の生産のやうに、性能には殆ど差異はないのに年々デザインを刷新した耐久消費財を過剰生産し、消費者の過剰消費購入を促進させるための宣傳(伝)廣(広)告などの販賣(売)促進を行つて消費者を洗腦(脳)し、新製品を買ひ替へて舊(旧)製品を廢(廃)棄する奢侈(しゃし・度を過ぎてぜいたくなこと)が「豐(豊)かさ」であるとの歪んだ社會(会)構造である。耐久消費財の概念は既に過去のものとなり、舊(旧)型製品には見向きもしない有樣(様)であつて、今や、自動車などは「生鮮食料品」にも等しい扱ひである。自動車の大衆化(モータリゼーション)は、過剰消費を推進させてゐる。質素儉(倹)約の精神は美德として評價(価)されなくなつた。
(現代産業社會の限界)-2 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10283327735.html
國體護持 第六章 第一節 (貨幣制度の本質)-4
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
目次 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html
(貨幣制度の本質)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10282844634.html
第六章 萬葉一統
第一節 世界的危機の諸相
(貨幣制度の本質)-4
そもそも、金本位制度といふのは、金(gold)が世界的な稀少物であり、その生産量が急減には増加せず總(総)量が安定してゐる上に、それ自體(体)が高い使用價(価)値を備へ、しかも、永久に變(変)質しない耐久財であることによるものである。世界的な稀少物としての耐久財を貨幣にした試行錯誤の結果である。アステカではメキシコ一帯で自生するカカオの實(実)から採取されて作られるチョコレートは王侯貴族だけにしか口にできない稀少物として珍重され、これが貨幣としても用ゐられたことがあつたのも、その一例である。ともあれ、金本位制度が長く維持されたのは、やはり金(gold)の生産量が世界的に急激には伸びず、しかも、それ自體の使用価値があることによる費消量との關(関)係で、その總量に大きな變動がなかつたことにある。つまり、これに對應(対応)する貨幣總量も大きく變動させないことが通貨制度についての國(国)際的な基本的認識であつたからである。
そして、そのことを前提として、國(国)際通貨が流通した。當(当)初は、世界を席卷(巻)した大英帝國のポンドであり、その國家的衰退とともに、次に登場したのがドルである。しかし、現在、國際通貨とされてゐるドルは、アメリカが國家として發(発)行してゐる通貨ではない。平易に言へば、民主的に選任されない者が支配する連邦準備制度理事會(会) (Federal Reserve Board FRB)といふ私的機關(関)である民間銀行が發行する債權(権)證(証)券であり、これをアメリカ政府が買取つて流通させてゐるものである(文獻(献)191)。このやうな事態となつてゐるのは、アメリカが獨(独)立戰爭(戦争)に勝利して獨立したものの、國家經(経)綸の財源が脆弱であつたことから、アメリカ政府は、歐洲の民間銀行から借財し、實(実)質的に通貨發行管理權を賣(売)り渡し、經濟(済)主權を喪失したことによるものである。
そして、國(国)際收支の赤字を補填するための外貨流動資産である我が國の外貨準備高の九割以上が外國爲(為)替であり、その殆どが米國債であつて、金(キン)は一パーセントに過ぎないため、經濟(経済)主權(権)のないアメリカに追随する我が國には經濟主權はおろか國家主權なるものが無きに等しい現状にある。
さらに、前述のとほり、現今の通貨制度に依據(拠)した國(国)民經濟(経済)計算(SNA)において、經濟の規模を測定するについても、財貨の減少といふ、本來(来)であれば負(マイナス)の値として認識しなければならないものも、正(プラス)の値として「絶對(対)値」の計算をする。消費、減耗、減價(価)などは財貨の減少、つまり、有り高計算(ストック)では減少してゐるのに、延べ計算(フロー)をして二倍に增(増)加したものと認識するのである。そこに財貨の有り高と貨幣の有り高とがさらに乖離(かいり・結びつきがはなれること)し續(続)ける原因がある。そして、過剰な生産、流通、消費、そして大量廢(廃)棄といふ無駄の增大を「經濟成長」と錯覺(覚)し、このやうな貨幣制度による徒花にも似た經濟構造において、アメリカを主賓にして花見酒で遊興するといふ極めて不健全な世界に陷(陥)つてしまつてゐるのである。
(現代産業社會の限界)- 1http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10283325462.html
國體護持 第六章 第一節 (貨幣制度の本質)-3
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
目次 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html
(貨幣制度の本質)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10282844634.html
第六章 萬葉一統
第一節 世界的危機の諸相
(貨幣制度の本質)-3
勞(労)働總(総)量に貨幣價(価)値の基準を求めるとすれば、勞働總量に對應(対応)する貨幣總量が一定であるはずがない。日々增(増)減するはずである。そして、勞働總量は、勞働の集約である財貨(商品)の總量に對應するが、財貨は生活や産業活動によつて費消されるので、費消分の貨幣總量は減少させなければならない。たとへば、農業勞働によつて食料が生産されたとする。すると、食料生産總量に對應する勞働總量によつて貨幣總量は決定する。ところが、食料が費消されると、その分だけ貨幣總量は減少しなければならなくなるが、それでも貨幣總量は當(当)然には減少されない。そこに、經濟(経済)の基礎的條(条)件(fundamentals)からかけ離れた水增しの貨幣經濟が一人歩きすることになる。
この點(点)に關(関)して、シルビオ・ゲゼル(Silvio Gesell)は、『自然的經濟(経済)秩序』(1914+660)といふ著作の中で、あらゆる財貨が費消されたり減耗して減價(価)するのに、その價値尺度である通貨だけが減價しない矛盾を指摘して、金利の徴收を否定し、貨幣の退蔵化を防止する提案をした。しかし、この著作はマルクスの『資本論 第一卷(巻)』發(発)刊から約半世紀後であつたことから、マルクスは、勞(労)働價値説と貨幣制度との關係について全く考察できてゐなかつたのである。
人の營(営)みに必要な財貨は、主として勞(労)働によつて增(増)加するものの、それが消費され、あるいは事件、事故、災害などによつても減少する。異種の財貨を物々交換することが交換經濟(経済)の原型であるから、貨幣が財貨の代用であれば、江戸時代において基幹物資であつた米(コメ)に通貨代用機能を持たせた米本位制度の方が、經濟の基礎的條(条)件(fundamentals)を滿(満)たしてゐたはずである。
ところが、財貨總(総)量とは無縁に機能してゐる現在の世界における貨幣制度は、その後に、金本位制度からも離脱し、金融政策を擔當(担当)する通貨管理當局の自由裁量によつて通貨量を增(増)減する管理通貨制度に移行することによつて、益々虚構の經濟(経済)を生み出す元凶となつてゐるのである。
國體護持 第六章 第一節 (貨幣制度の本質)-2
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
目次 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html
(貨幣制度の本質)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10282844634.html
第六章 萬葉一統
第一節 世界的危機の諸相
(貨幣制度の本質)-2
一般に貨幣の機能には、①決濟(済)手段、②價(価)値尺度、③價値貯蔵手段の三つがあるとされる。富の蓄積が諸惡(悪)の根源であるとしたマルクスは、このうちの③に着目したためである。しかし、現實(実)の交換經(経)濟社會(会)は、①と②によつて支へられてゐるために、貨幣制度の廢(廃)止は物々交換を餘(余)儀なくされ、經濟の停滯を生んだからである。ここに共産主義の未熟さがあつた。
その點(点)に關(関)しては、ロバート・オーエン(Robert Owen)の方が論理的であつた。勞(労)働の對價(対価)として有價證(証)券としての勞働券(勞働證券)を取得する。それを貨幣として流通させようとするのである。ウィリアム・ペティが提唱した、勞働のみが經濟(経済)價値を生み出す源泉であるとする勞働價値説を前提とすれば、それなりの論理性はあるが、具體(体)的に、その勞働價値の單(単)位は、提供された勞働時間なのか、勞働の結果(成果)なのかといふ點が解明されてゐない。勞働時間は客觀(観)的に數(数)値化が容易であるが、勞働成果の數値化は困難である。勞働時間が長くても未熟練であつたり勞働内容に瑕疵(かし・過失)があれば勞働の成果は少ない。これに對(対)し、短い勞働時間でも絶大な成果を上げることもある。これは、勞働のみが價値の源泉とする假(仮)説の危うさと、勞働の時間(量)と效(効)率(質)、完成品の精度(品質)の差異を價値的に區(区)別しえない致命的な缺(欠)陥があるといふことであつた。
これら點(点)をそれなりに深く考察を試みたのがマルクスであつた。しかし、資本主義の問題點の指摘と問題意識についてのマルクスの方向性は正しかつたが、勞(労)働力が「價(価)値」を生む源泉であつたとしても、そのことだけが「價格」の決定要因ではないこと、勞働力といふ供給側(生産側)の側面だけで價格を考察し、需要側(消費側)の事情を無視するために、絶對(対)的剰餘(余)價値、相對的剰餘價値、特別剰餘價値などの難解で不明確な概念を定立しなければならないこと、償却資産である機械や建物を不變(変)資本としたこと、同じく不變資本とする原料の減耗損を考慮してゐないこと、これらの價値減少分を勞働力(可變資本)の剰餘價値から控除してゐないことなど、精緻な會(会)計學(学)による論理的な分析からすれば餘りにも稚拙な理論であつた。
そもそも、勞(労)働が經濟(経済)價(価)値の源泉であり、それを有價證(証)券化したのが通貨であるとすれば、富を生み出す者が通貨の發(発)行權(権)を有するものでなければならない。國(国)家が發行權を持つことの根據(拠)が見いだせない。貨幣價(価)値の基準が勞働總(総)量とは無縁の金(gold)の量と結びつけた金本位制度ではなく、國民の勞働總量と結びつけた勞働本位制度でなければならない。ところが、勞働價値説に立ちながら、個々の勞働者に通貨發行權を認めず、國家にそれを獨(独)占させ、しかも、勞働總量とは無關(関)係に貨幣價値を金本位制に結びつけたのは決定的な矛盾であつた。
(貨幣制度の本質)-3 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10282847326.html
國體護持 第六章 第一節 (貨幣制度の本質)-1
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
目次 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html
第六章 萬葉一統
第一節 世界的危機の諸相
(貨幣制度の本質)-1
レーニンは、大正七年(1918+660)のロシア共産黨(党)(ボリシェヴィキ)第二綱領で貨幣制度を戰(戦)略目標として廢(廃)止した。貨幣制度は、資本主義の要諦であり、これによつて私有財産制による富の蓄積を生み、富の遍在と生産財の獨(独)占、階級形成の原因であるとするのがマルクス・レーニン主義の根幹理論であつたからである。ところが、レーニンは、翌年(1919+660)にこれを放棄してしまつた。これによつて、經濟(経済)理論としての共産主義は放棄されたことになつた。
嚴(厳)密にいふと、私有財産制と資本主義とは同じではない。ところが、資本主義の否定のためには、私有財産制と貨幣制度を否定することにあるとした短絡的な認識にマルクス主義の根本的な誤りがある。私有財産制とは、そもそも財産を家族が家産として使用収益することを保護する制度であり、いはば「使用價(価)値の保護制度」である。家族主義、同族主義を基底として、その生活を維持する「恆(恒)産」としての家産を所有することである。「恆産なければ恆心なし」として、これが確保されるがゆゑに民度を維持しうるのである。幕末のころ、歐米では、売却が禁止され、これに對(対)する強制執行も禁止される土地等の特別財産として出現したが、我が國(国)では、古來(来)より、「身代」とか「身上」と呼ばれてきたものである。幕藩制では幕府から領主は「所領安堵」され、家來の家産の承繼(継)が「本領安堵」されてきた。これは、個人所有が原型ではない家産制度である。土地を主とした家族共同體(体)の共同生活基盤となる特別財産であつた。貨幣によつて蓄財するといふことは家産制度にとつて本質的なものではなかつた。
これに對(対)し、資本主義は、個人所有を原型とする。私有財産制と契約自由の原則を前提とするものではあるが、財貨を使用収益することに目的があるのではなく、それを生産要素として商品を生産し、賣(売)却による利潤の獲得に目的がある。いはば「交換價(価)値の保護制度」である。土地も資本も勞(労)働も全て生産の要素として、すべては利潤の獲得のためにある。勞働力も商品と看做す。そこには家産といふ認識は全くない。貨幣によつて蓄財することは、利益の蓄積として資本を形成し、新たな利潤追求のための投資準備となるもので、資本主義の本質的なものである。經濟(経済)價値を抽象的に集約した貨幣によつて蓄積した資本は、それ自體(体)が生き物のやうに自己増殖を図るのであり、これが、資本主義の本質であり原動力となるのである。そして、資本主義は、商業資本主義、産業資本主義、金融資本主義へと變(変)容を遂げ、家産保護のための私有財産制の守備範圍(囲)から遥かに遠いところに行つてしまつたのである。資本主義といふよりも「利潤主義」と言つた方が適切である。
物(商品)には、物の有用性と效(効)用に着目した使用價(価)値と他の財貨との交換によつて認識しうる交換價値の双方があるとされるが、金融資本主義の主役となる貨幣や證(証)券化商品などには、そもそも使用價値はなく、交換價値しかない。これを商品と呼ぶことに概念の混亂(乱)を生んでゐる。このことからしても、金融資本主義は、本來(来)の資本主義(商業資本主義、産業資本主義)から遊離した存在であることが解る。
このやうに、私有財産制と資本主義、貨幣制度の關(関)係を認識すべきなのであるが、マルクスがこれらを一體(体)のものと認識し、貨幣制度の廢(廃)止によつて資本主義が否定できるとしたにもかかはらず、どうして貨幣制度の廢止ができなかつたのかについては、まづは貨幣制度の本質についてさらに考へる必要がある。
(貨幣制度の本質)-2 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10282846123.html
國體護持 第六章 第一節 (經濟學の迷走)-3
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
目次 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html
(經濟學の迷走)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10282706484.html
第六章 萬葉一統
第一節 世界的危機の諸相
(經濟學の迷走)-3
人間は、個體(体)においても一定年齡に達したときに成長が止まる。いつまでも成長し續(続)けて山よりも高い巨人になり續けるのではない。山(地球)より大きい猪(人類)は居ないのである。人間は、個體の成長が止まつてから、より一層德性を高めることに專念するものである。成長期には、榮(栄)養を多く攝(摂)取しても、成長が止まれば、榮養過多は健康を害する。ところが、いつまでも唯物論的に經濟(経済)が成長し續けると未だに爲(為)政者や經濟人は信じてゐるのである。飽和絶滅する危機が迫つてゐるほど圖(図)體が大きくなつた現在でも、まだ成長が足りないとの強迫觀(観)念に苛まれてゐる。成長が止まることが危機と捉へ、經濟成長率が高いことが幸福であると單(単)純に盲信する。成長が止まることが、德性を高める轉(転)機であるとは考へない。しかし、多くの人々は、これが誤りであることを健全な本能の作用によつて解つてゐるはずである。
この點(点)に氣(気)付いたマルサスとその繼(継)承者は、飽和絶滅の危機を認識し、それを回避するためには、飢餓、貧困、戰爭(戦争)などによる人口抑制原理を受け入れた。そして、その上で、このやうな悲劇の繰り返しを回避するために、道德的抑制や政策的な産兒(児)制限などを主張した。實(実)は、このことは大きな問題提起を投げかけてゐる。それは、飢餓、貧困、戰爭を人類の生存にとつて「善」と認識しうるか、といふことである。これを既存の倫理道德で否定することはたやすい。ところが、これを否定して、合理主義と進化論と優生思想に基づき人口抑制を肯定することは不可能である。明らかな矛盾である。軍事的に殺戮することは否定しながら、醫學(医学)的に殺戮することを肯定するからである。そして、いま、温室效(効)果ガスの排出制限だけを熱心に議論する者は、飢餓、貧困、戰爭を「惡(悪)」とし、さらに優生思想も「惡」とする點において共通するが、そんな僞(偽)善者たちの小田原評定の果てには飽和絶滅しかない。しかも、それは、人口問題の對(対)策を疎かにしたことにより、飽和絶滅を察知した人類の自己保存本能の行動によつて訪れる飢餓と戰爭で世界が崩壞(壊)するのである。まさに「愚によつて滅ぶ」人類の姿である。
人類は、決して自然災害や異常氣(気)象だけでは滅亡しない。むしろ、それを契機とした政治的要因によつて滅亡するのである。平成十年にノーベル經濟學(経済学)賞を受賞したインドのアマーティア・センの『飢餓と公共の役割』に關(関)する研究によれば、「貧困とは自由の缺(欠)如である」とし、全ての飢餓や貧困は、たとへ自然災害を契機とする場合であつても、終局的には不平等と自由の缺如といふ政治的要因に全て起因するとした。つまり、人類は、天變(変)地異が多發(発)すると、食料などの確保に不安を抱き生存の危機を感じることによつて、保存本能が作動し、異變に適應(応)しうる少數(数)の強者が自己生存をはかるために食料等を獨(独)占することにより、飢餓と貧困が加速して人口抑制がなされ、これに對(対)抗して適者生存競爭(争)に參(参)加する者との爭奪によつて戰(戦)爭が誘發されるといふことである。
では、マルサスのやうに、飢餓、貧困、戰爭(戦争)を「善」として諦觀(観)するだけでよいのか。確かに、本能は、生存を維持するための指令であり、この「性善説」からしても飽和絶滅を回避するための本能行動によつて起こりうることは、究極の生存を維持するためのものとして受け入れざるを得ない。
しかし、人類は、そのやうな極限状況における生存の維持だけを本能の指令としてきたのではない。それを回避し、そして、その危機感から誘發(発)される飢餓、貧困、戰爭(戦争)もまた事前に回避して繁榮(栄)を保つことも本能の指令なのである。
それゆゑ、マルサス派が主張する、道德と政策による人口抑制といふ方向性は正しいとしても、現状のままでは實效(実効)性に乏しい。それは、人の營(営)みと社會(会)構造を變(変)革せずして、現状のままを維持する限り實現は不可能であることを意味する。そのために、唯物論と進化論、そして、これと不可分一體(体)となつた優生思想と合理主義が忍び込んでくる隙を與(与)へてしまつてゐるのである。
經濟學(経済学)は、このやうな經濟における本質的な問題に全く沈黙し、むしろこれらの問題を解決しうる新たな經濟思想を提示しないことを本分と錯覺(覚)して死學に成り果てた。いまや、經濟思想を主張する熱き經濟學者は一人も存在せず、現在の經濟動向を解説する經濟評論家(豫(予)想屋)しか存在しないのである。
(貨幣制度の本質)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10282844634.html
國體護持 第六章 第一節 (經濟學の迷走)-2
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
目次 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html
(經濟學の迷走)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10282706484.html
第六章 萬葉一統
第一節 世界的危機の諸相
(經濟學の迷走)-2
いまや、「經濟(経済)的」といふ言葉は、「政治的」とか「文化的」とかの言葉との比較して、その意味の貧困さが顯(顕)著となつてゐる。單(単)に、採算效(効)率性があるといふ程度であつて、それ以上の深みがない輕薄なものであることが、經濟學(学)の迷走を表してゐる。
現在、内閣府が經濟(経済)規模と經濟成長などを數(数)値化して發(発)表してゐる世界的基準に則つた國(国)民經濟計算(SNA)のうち、たとへば、國内で生産された財貨、サービスの付加價(価)値の合計額とされる國内總(総)生産(GDP)において、これに數値的に反映されるのは「市場取引」によるものに限定され、家事勞(労)働や奉仕活動などはこれに含まれてゐない。技術的な問題があるとしても、これも根源的な意味において市場原理主義に支配されてゐることが解る。すなはち、市場取引においては、財貨の破壞(壊)や燒(焼)失など社會(会)的價値の絶對(対)的消滅についても、それを負(財貨の減少)として認識するのではなく、結果的には、正(財貨の增(増)大)と認識してしまふ點(点)に重大な缺陷(欠陥)があるからである。具體(体)的に言へば、ある人の所有する自宅が火事や震災によつて燒失全壞し、自宅に居た家族も燒死し、價値ある多くの家財道具も燒失した例を考へると、これは、まさしく人材の喪失、資源と財貨の減少であり、社會的にも經濟的にも「絶對的な損失」であることを誰も疑はないであらう。ところが、市場取引からするとさうではない。自宅や家財道具には火災保險(険)、地震保險などが掛けられてをり、家族にも生命保險などが掛けられてゐると、當(当)然に被害者や遺族に保險金が支拂(払)はれる。また、それが何者かの仕業であれば、その者に對し、損害賠償を請求して賠償金を支拂はせる。すると、これらは市場におけるサービスの提供の增大となつて、これらの保險金などは國内總生産の數値に組み入れられる。こんな事故が起こらないときは、國内總生産に數値化されないのに、事故が起きると、多額の保險金等に相當する數値が國内總生産に數値化される。これは日常頻繁に起こつてゐる交通事故の場合も同樣(様)である。いはば、自宅が燒失し家族が死ぬなどといふ極めて不幸な事故が起これば起こるほど國内總生産が增大し、これが「經濟成長」の指標とされるのである。不幸の增大は、經濟の發展として認識されるのである。
さらに、過剰生産と過剰消費がなされ、大量投棄がなされればなされるほど國(国)内總(総)生産が增(増)大し、健全な社會(会)道德と離反した情況になればなるほど「經濟(経済)成長」したとして歡(歓)迎する背德の學(学)問體(体)系が現在の經濟學なのである。
(經濟學の迷走)-3 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10282708997.html
國體護持 第六章 第一節 (經濟學の迷走)-1
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
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第六章 萬葉一統
第一節 世界的危機の諸相
(經濟學の迷走)-1
そもそも、「經濟(経済)」の語源は、「經國(国)濟民」、「經世濟民」であり、國を治め民の苦しみを救ふといふ意味であつて、本來(来)は「政治」の意味であつた。つまり、「政治」の概念の中から、現在使用されてゐる「經濟」の概念が分離してきたものであつて、本來は「政治」の概念に統一して一體(体)のものと捉へても不自然ではないはずである。
しかし、「經濟(経済)」といふ概念が、明治後期から、財貨(サービスを含む)の生産、流通、消費とその構造を意味する言葉に變(変)化して今日に至つたことから、「經濟の目的」とは、生活に必要な財貨の生産・配分と捉へ、經濟學(学)は「財貨の配分」に關(関)する學問となり、その資源配分の最適な状態を實(実)現するためのものとなつた。
資源や財貨の有限性を認識すれば、消費者が消費する財貨から受ける滿(満)足(效(効)用 utility)を全てについて完全に滿たすことはできない。また、ある財貨による效用を高めるために、その生産量を增(増)大させるとすれば、他の財貨の生産量を減少させなければならないといふ状態、つまり「パレート最適(Pareto Optimum)」又は「パレート效率性(Pareto efficient)」の社會(会)状態にあることから、經濟學(経済学)は、まさにこの財貨の配分のための技術的な學問となつたのである。しかし、配分の公平性が實(実)現しなければ、政治とは無縁の學問となる。そこで、「最適配分」を實現するための「經濟思想」が生まれた。それは、「見えざる手」(アダム・スミス)によつて自然的に秩序が形成され調和するとする「放任主義」と、共産主義などのやうな「統制主義」である。これまでは、非共産主義の各國(国)は、自國の經濟政策といふ「統制」と、國民の自由競爭(争)といふ「放任」との折衷的な運用がなされてきた。それは、放任によつて生ずる矛盾を放置すれば、統制への反動を生むことになり、それが政治思想の共産主義へと大きく傾斜することを恐れたためである。ところが、ソ連や東歐の統制主義が濃厚な國家群が崩壞(壊)し、東歐における冷戰(戦)構造が終焉を迎へると、放任の矛盾から生じる統制への反動を支へる共産主義への脅威がなくなり、世界は露骨に放任主義の方向へ振れた。そして、その結果、いまや經濟全體(体)が「新自由主義(市場原理主義、市場萬(万)能主義)」といふ「欲望の怪物」(欲望經濟學)に支配されて食ひ荒らされてゐるのである。經濟學は、各部門毎に瑣末(さまつ・重要でないこと)に細分化されて極度に技術的・專門的になるだけで、配分の公平性を實現しうる全體像の理論や政策を編み出せず、本來(来)の經濟學は死滅した。といふよりも、「經濟學には正義がない」とされて久しい。「お金がお金を生んでいく經濟」といふ不道德を助長し、額に汗をして働くことを「經濟的でない」とまで言ひ切つて蔑むやうな堕落をしてしまつたからである。つまり、經濟學者(エコノミスト)とか分析家(アナリスト)と稱(称)する者などは、市場原理主義による「賭博經濟」によつて生ずる經濟動向の亂(乱)高下を豫(予)測を生業とする「豫想屋」と成り果て、證(証)券取引所や商品取引所などの「博打場」に出入りする相場師などの博打打ちに情報を提供するだけとなつたのである。
(經濟學の迷走)-2 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10282707584.html