國體護持 第六章 第一節 (經濟學の迷走)-2
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(經濟學の迷走)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10282706484.html
第六章 萬葉一統
第一節 世界的危機の諸相
(經濟學の迷走)-2
いまや、「經濟(経済)的」といふ言葉は、「政治的」とか「文化的」とかの言葉との比較して、その意味の貧困さが顯(顕)著となつてゐる。單(単)に、採算效(効)率性があるといふ程度であつて、それ以上の深みがない輕薄なものであることが、經濟學(学)の迷走を表してゐる。
現在、内閣府が經濟(経済)規模と經濟成長などを數(数)値化して發(発)表してゐる世界的基準に則つた國(国)民經濟計算(SNA)のうち、たとへば、國内で生産された財貨、サービスの付加價(価)値の合計額とされる國内總(総)生産(GDP)において、これに數値的に反映されるのは「市場取引」によるものに限定され、家事勞(労)働や奉仕活動などはこれに含まれてゐない。技術的な問題があるとしても、これも根源的な意味において市場原理主義に支配されてゐることが解る。すなはち、市場取引においては、財貨の破壞(壊)や燒(焼)失など社會(会)的價値の絶對(対)的消滅についても、それを負(財貨の減少)として認識するのではなく、結果的には、正(財貨の增(増)大)と認識してしまふ點(点)に重大な缺陷(欠陥)があるからである。具體(体)的に言へば、ある人の所有する自宅が火事や震災によつて燒失全壞し、自宅に居た家族も燒死し、價値ある多くの家財道具も燒失した例を考へると、これは、まさしく人材の喪失、資源と財貨の減少であり、社會的にも經濟的にも「絶對的な損失」であることを誰も疑はないであらう。ところが、市場取引からするとさうではない。自宅や家財道具には火災保險(険)、地震保險などが掛けられてをり、家族にも生命保險などが掛けられてゐると、當(当)然に被害者や遺族に保險金が支拂(払)はれる。また、それが何者かの仕業であれば、その者に對し、損害賠償を請求して賠償金を支拂はせる。すると、これらは市場におけるサービスの提供の增大となつて、これらの保險金などは國内總生産の數値に組み入れられる。こんな事故が起こらないときは、國内總生産に數値化されないのに、事故が起きると、多額の保險金等に相當する數値が國内總生産に數値化される。これは日常頻繁に起こつてゐる交通事故の場合も同樣(様)である。いはば、自宅が燒失し家族が死ぬなどといふ極めて不幸な事故が起これば起こるほど國内總生産が增大し、これが「經濟成長」の指標とされるのである。不幸の增大は、經濟の發展として認識されるのである。
さらに、過剰生産と過剰消費がなされ、大量投棄がなされればなされるほど國(国)内總(総)生産が增(増)大し、健全な社會(会)道德と離反した情況になればなるほど「經濟(経済)成長」したとして歡(歓)迎する背德の學(学)問體(体)系が現在の經濟學なのである。
(經濟學の迷走)-3 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10282708997.html