國體護持 第六章 第一節 (經濟學の迷走)-2 | らすログ☆

國體護持 第六章 第一節 (經濟學の迷走)-2

はじめに・らすかる☆より  http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html

目次 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html

(經濟學の迷走)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10282706484.html



第六章 萬葉一統

 第一節 世界的危機の諸相
  (經濟學の迷走)-2


 いまや、「經濟(経済)的」といふ言葉は、「政治的」とか「文化的」とかの言葉との比較して、その意味の貧困さが顯(顕)著となつてゐる。單(単)に、採算效(効)率性があるといふ程度であつて、それ以上の深みがない輕薄なものであることが、經濟學(学)の迷走を表してゐる。



 現在、内閣府が經濟(経済)規模と經濟成長などを數(数)値化して發(発)表してゐる世界的基準に則つた國(国)經濟計算(SNA)のうち、たとへば、内で生産された財貨、サービスの付加價(価)値の合計額とされる總(総)生産(GDP)において、これに値的に反映されるのは「市場取引」によるものに限定され、家事勞(労)働や奉仕活動などはこれに含まれてゐない。技術的な問題があるとしても、これも根源的な意味において市場原理主義に支配されてゐることが解る。すなはち、市場取引においては、財貨の破壞(壊)燒(焼)失など社會(会)値の絶對(対)的消滅についても、それを負(財貨の減少)として認識するのではなく、結果的には、正(財貨の增(増)大)と認識してしまふ點(点)に重大な缺陷(欠陥)があるからである。具體(体)的に言へば、ある人の所有する自宅が火事や震災によつて失全し、自宅に居た家族も死し、値ある多くの家財道具も失した例を考へると、これは、まさしく人材の喪失、資源と財貨の減少であり、社的にも經濟的にも「絶的な損失」であることを誰も疑はないであらう。ところが、市場取引からするとさうではない。自宅や家財道具には火災保險(険)、地震保などが掛けられてをり、家族にも生命保などが掛けられてゐると、當(当)然に被害者や遺族に保金が支拂(払)はれる。また、それが何者かの仕業であれば、その者にし、損害賠償を請求して賠償金を支はせる。すると、これらは市場におけるサービスの提供の大となつて、これらの保金などは生産の値に組み入れられる。こんな事故が起こらないときは、生産に値化されないのに、事故が起きると、多額の保金等に相する値が生産に値化される。これは日常頻繁に起こつてゐる交通事故の場合も同樣(様)である。いはば、自宅が失し家族が死ぬなどといふ極めて不幸な事故が起これば起こるほど生産が大し、これが「經濟成長」の指標とされるのである。不幸の大は、經濟展として認識されるのである。



 さらに、過剰生産と過剰消費がなされ、大量投棄がなされればなされるほど國(国)總(総)生産が增(増)大し、健全な社會(会)道德と離反した情況になればなるほど「經濟(経済)成長」したとして歡(歓)迎する背德の學(学)體(体)系が現在の經濟學なのである。


(經濟學の迷走)-3 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10282708997.html