紗羅双樹 -6ページ目

生体腎移植顛末記(1)

平成29年春過ぎ、

人間ドックをした病院からの連絡で、危ない状態に突入して

いると言われた長男は腎臓の数値が異常であると知った。

病院を変えた順天堂大学病院で糖尿病治療の薬を

即刻辞めるように指示された。


腎臓は悪くなると坂道を転がるように悪化は早く

元に戻ることはない。


透析は時間がかかり、やりたくないという。


それでは、私の腎臓を提供しようと病院に相談すると

年齢がねえと言われた。


しかし順天堂では手術が出来なく、東京女子医大の

腎臓外科を受信すると、

80歳でも移植の実例があるとの事で先が見えた。


そこでドナーになる旨を告げ、はじめの検査を受けた。

血液検査とお小水の検査しかしなかったが、

人にあげられるほどの代物ではないと言われた。


普通に生活してゆくには何ら問題はないらしいが

今まで腎臓が悪いと言われたことはなかったのに・・・

暫く悶々とした日が続き、長女に思い切って頼むと、

いとも簡単に「良いよ」


長男は妹に頼むのはあまりにも可哀そうと固辞した。


心筋梗塞を起こし、三分の一が壊死し、数本のステントが

挿入されている父親が、主治医に相談すると、

状態は安定しているため、

女子医大でOKが出れば大丈夫。


また先が明るくなった。


しかし悪くなった腎臓は、移殖日まで持たなくなり、

とうとう透析の準備のため順天堂へ入院した。

首から管を入れる手術のあと透析が始まった。

順天堂と女子医大が連絡を取りながら治療は進められた。


その後女子医大で移植に関する様々な検査が始まり

父親は忙しくなった。


移殖日がだんだん近づいて最後の検査で、

脾臓と腎臓にバイパスが出来ていて、腎臓を切り離すと

命にかかわる可能性があるとの結果。

もしもの事があっても覚悟はできているとお願いしたが、

受け付けてもらえなかった。当然である。


そこで妹の番になったが、一度決めたことだから大丈夫と、

小学校でいじめにあってから心を閉ざしていたと思ってた

長女は毅然としていた。


今までいろんな目にあってきたのだろう。

医師との対話もテキパキとしていた。

移殖日が近づいていたせいか、若い人の検査は

意外と時間が掛からなかったように思われた。

どこも悪くなく薬も飲んでなかったからだろうか。




 

二条城

 

   別件で京都へ来たついでに機会を窺っていたが、

   何とか時間が出来たので城攻めをすることとした。


二条城


 1603年、徳川家康が京都御所の守護と、上洛時の

 宿舎として築城した京都市中心部にある平城である。 

 三代将軍家光の時代、後水尾天皇行幸のために

 城内は大規模な改修が行われた。 

 天守は1750年落雷で焼失。本丸御殿は市中の火災に

 よる類焼で失われた。

 その場所には、1894年旧桂宮邸が移築された。 


 二の丸御殿の正門である唐門は、切妻造、桧皮葺の

 四脚門で豪華絢爛な極彩色の彫刻がある。


二の丸御殿


 全6棟の書院造の代表として日本建築史上重要な遺構

 である。

 

 二の丸御殿最大の建物である遠侍は、来殿者が控える

 間で猛々しい虎の絵や壮大な空間は、徳川の権力の

 大きさを実感させた。

 

 続いて将軍への用件、献上物を取り次ぐ所である式台

 式台の間があり、大広間へと続く。


 二の丸御殿の障壁画は、狩野探幽が一門の総力を挙

 げて制作したもので、大広間は大政奉還が表明された。

 

 大広間に次ぐ公式の場である黒書院、将軍の居間と

 寝室の白書院がある。


 二条城は徳川の栄枯盛衰と、日本の歴史を見てきた

 貴重な遺産である。











 

 


 

信州気まま旅(5)

 

  生島足島神社 


   曖昧な記憶のリーダーの運転で綺麗な神社に到着

  した。

  大したものである。

  綺麗と言うのは鳥居を始め色んな所が赤で

  塗られている。

 

  まず神社名から読めなかった。

  いくしまたるしま神社と読む。


  日本のへそと言われ、列島の真ん中に位置する。








  創建は不明。

  平安時代に制定された延喜式に記載されている。

 

  生島大神と足島大神の2柱が主祭神で、

  生島大神は万物を生み育て生命力を与える神で

  宮中で祀られる神の中に生島神、足島神と記載があり

  朝廷との繋がりの深い神々である。


  戦国時代には武田氏や真田氏に信仰され、江戸時代は

  歴代上田藩主の厚い庇護を受けて来た。


  境内は池に囲まれた小島の上に、権現造りの本社が

  北面し、正対して摂社諏訪社本殿が建てられている。

  なぜここで諏訪社が出てくるのかと思ったが  

  諏訪大神が6ヶ月間滞在し、生島足島両神に米粥を煮て

  奉ったといわれている。  ナルホド。









  諏訪社は、本殿、門とも安土桃山時代の様式を伝えて

  いる。

  樹齢800年の大欅があり、夫婦円満のご神木「夫婦欅」

  と呼ばれている。






 境内社

  荒魂社 ( 祭神は生島足島両神の荒魂 )、八幡社、

  子安社、秋葉社等がある。






  歌舞伎舞台は江戸期の農村歌舞伎舞台の典型的な

  姿を残している。

  信玄が必勝を祈った「願文」や真田昌幸・信幸父子の

  朱印状等が展示され、回り舞台やすっぽんではと

  思われる奈落への跡が残っていた。






  あまり期待していなかった所であったが、

  大変な神社を見つけられたと大満足の旅であった。

 



 

 


 

 

信州気まま旅(4)

 

  昨夜も早く就寝したが、あまりに早すぎて3時には

 パッチリ。

 それ以後は寝返りを繰り返し朝になるのを待ちかねた。

 昨日の朝食で、ほかのグループのテーブルに

 大きな大きな 蓋付きのお椀がどんと置いてあったので、

 グレードが違うのかねと話していた。

 今朝はそれが我々のテーブルに用意されていた。





 気まま旅も今日まで。


 宿の展示に須坂の宣伝があったので、

 今日は須坂から上田に行って見る事とした。


 須坂は菅平の保養所が利用できてた時、

 散々通った所である。



 久しぶりに行ってみると随分整備されているのに驚いた。

 そこに直虎の旗が・・・

 直虎は此処ではなかった筈なのに。


 蔵の町須坂は江戸時代、

 藩主堀氏の館町として繁栄した。

 明治から昭和の初期までは製糸業で隆盛を極めた。

 今も当時の豪壮な蔵造りや町屋の建物が残っている。
















 もうひとりの直虎   

 1615年須坂初代藩主堀直重以来、14代続いた堀家は

 一万石余の小藩であったが、13代直虎は

 15代将軍徳川慶喜の大政奉還後、要職に就き歴史の

 転換期にその名を残した。

 今年は没後150年祭が開催されていた。          





 上田には、赤くてとても綺麗な神社があるとの事で

 高速に乗った。

 此処でもおしゃべりに夢中になり今回も出口を

 通過してしまった。

 次の出口の事務所にお願いして戻してもらった。

 今まで何度やった事だろうか・・・・


 上田城の前の蕎麦屋で昼食としたが、目の前に

 百名城がある。

 このまま見過ごすのは忍びない。

 一人で慌ててスタンプを押す為、城内に入った。

 あいにく今日は売店が休み。

 道を隔てて観光センターでと書いてあるので、

 そちらまで。

 目出度く登城のスタンプを押すことが出来た。




 蕎麦屋はお昼時とてかなりの繁盛。

 朝食がまだ消化されて無い為、

 ざるの小盛りをお願いした。


 支払い時、50円の値引きがあった。

 気は心、良心的な店と思った。




 

 



信州気まま旅(3)


 

 まゆみ人形館へ行く途中に、

 茅葺の山門の寺を見つけていたので其処まで引返した。

 西敬寺という寺であった。

 創建は慶長7年(1255)、親鸞の弟子で下総出身の

 釈善巧により開山。

 当初、川中島倉科にあったが川中島の合戦により焼失。

 その後、中野牛出、飯山深沢を経て現在地へ。




 

 本堂は二度の火災後の安永9年(1780)に再建された

 ものである。

 寄棟造りで正面三間向拝付。













 山門は茅葺の薬医門、鐘楼は入母屋、鉄板葺。

 寺の中は花が咲き乱れとても雰囲気の良い

 古刹であった。


 さあ、次は野尻湖。

 到着までに綺麗なリゾート地や雪山を見た。





 

 野尻湖は新潟県との境にありナウマンゾウの化石が

 発掘されている。

 4万年前の狩猟生活の場として、

 現在でも発掘調査されているとか。


 もう何年前になるだろうか、黒姫にコスモスを見に来た

 行ってみたいと思ったが、

 日帰りの旅で、一茶関係の方へ行く予定があったので

 諦めた。

 湖岸が入り組んで芙蓉の花に似ているといわれている

 が、確認する事は出来なかった。




 

  宿に帰ってからのお楽しみは温泉と食事。

  今夜も食べきれないほどの料理が出た。





     
 
  かくして二日目の夜は更けていった。






 

信州気まま旅(2)

 


 今までの疲れが溜っていたのか、昨夜は早く寝たにも

 拘らず ぐっすり眠れた。

 温泉効果であろうか。


 朝食は二階の食事処。


 バイキングかと思いきや、食卓の上には朝食の用意が

 ありバイキングは一部であって、

 ご飯はお粥になさいますか、それとも普通の御飯ですかと

 聞きに来る。

 このスタイルは初めて。

 各ホテルで独自の方法で客寄せかなと思った。

 今朝も沢山の料理が並び、食べきれない

 しかし食後のコーヒーはバイキング方式で頂いた。


 気まま旅であるので、本日の行き先はまだ決めてない。

 ふとリーダーが口にした「まゆみ人形」の言葉に惹かれ

 ここから遠いのと聞くとまあまあとの事。

 行ってみようとナビに登録して出発。


 到着したところは長野県飯山市、上越の隣まで来た。

 平日にもかかわらず駐車場には県外ナンバーが目立つ。

 高橋まゆみ人形館の入り口を入ると、ギャラリーは

 3ヶ所に別れ、映像コーナー、カフェ、ショップがあり、

 老若男女の楽しげな声が響いている。















 作者の高橋まゆみ氏は


 通信教育で人形作りの基礎を学び試行錯誤を重ね

 現在の創作人形に辿り着いた

 独特の田舎のじいちゃんバアチャンの人形である。

 展示の人形には一つづつ題名やコメントが付き昭和を

 思いださせ目頭が熱くなった。


 奥信濃の冬は深い

 春を待ちわびた村人たちの体はうずき

 ふきんと(蕗のとう)やつくしが顔を出す頃 

 彼らの季節がやってくる 

 農道を歩くじいちゃんばあちゃんが手をふる 

 やさしさはいつもそばにいた   (パンフレットより) 





        嫁さんとの折り合いが悪く位牌片手に

             所帯道具を持って家出のバアチャン


 人形館を出て気が付いた。

 此処は豪雪地帯、前の仏壇通りの歩道は雁木造り

 だった。 




 


 

信州気まま旅(1)

 

  チャリティーコンサートでお世話になる

  音楽事務所の先生をご招待して信州へと計画したが、

  先生は体調不良との事でリーダーと二人で

  行く事とした。


  何処へ行くかは足の向くまま気の向くまま、

  行方定めぬ旅がらすとなった。

  高速道路に乗ってから何処へ行こうか?


  昨年、安曇野に行った時、

  高速を降り損ねたり曲がり損ねたりし、

  何度も姨捨を通った。

  きっと呼ばれているのだから一度行ってみようと

  話していたのを思い出した。


  しかしこれがまたおかしなことになった。

  高速を降りてカーナビに入れその通りに走っていたら

  元の所へ戻ってしまった。姨捨は鬼門らしい。


  もう一度走ってみたが同じ事になってしまった。

  農作業をしている方に教わってもダメ。

  教え方が悪いのか、此方の頭が悪いのか。

  細かく細かく聞いてやっと何とか姨捨の棚田に

  辿り着いた。


  足の悪いリーダーは危ないと思われるところへは

  行く事が出来ない為、

  まあまあの所で手を打った。

  姨捨の棚田は遠く善光寺平を望むことが出来

  大変眺望が良い。













 

  何だか胸のつかえが下りたようでホッとして

  今日のホテルに向かった。


  奥裾花峡温泉の「うるおい館」。

  温泉好きのリーダーが探し出した宿。

  峡というからかなり山の中を想像していたが、

  善光寺の近くでこれでは街中である。

  老舗旅館という雰囲気は無く、普通の温泉場に

  宿泊施設があるという程度であった。ここへ二泊する。



  部屋に案内されて窓のカーテンを引くと、

  目の前に崖がありその前に浅い川が流れていた。

  なるほど少し峡を感じる景色である。



  温泉は内風呂も露天も広く温泉が売りというのが

  よく分かった。

  そして温泉のみ利用する人もかなり多いと聞いた。


  ここでの夕食はお部屋食で、料理の品数も多く

  お品書きが添えられている。

  いつも思う事だがとても食べきれない。



   まだまだこんなものではなかった。




焙烙灸

 

焙烙灸

 

 鎌倉時代、普段から頭痛持ちの武将が、土用の戦の最中

 鎧兜姿で落馬。

 その時、通りかかった僧が兜の上から握りこぶし大の蓬を

 据え火をつけて祈祷をしたところ、たちどころに頭痛が

 治った という故事に習って、

 日蓮宗に伝わったといわれている。


法華寺

  明治初年、所沢の有志たちによって作られた

  法華経信仰の講社の教会場として発足。


  曼荼羅を本尊とし、鬼子母神を守り本尊として勧請

  されていた。

  明治29年には千葉県中山の法華経寺(日蓮宗大本山)

  から守り本尊としての鬼子母神のご分身をいただき、

  ともに安置されている。


  戦後、講社は消滅したが、昭和29年に現在の長谷川

  住職により宗教法人法華寺が発足。


鬼子母神


   何百人もの子を育てるだけの栄養をつけるために

    人間の子を捕えて食べてしまっていた。

      そのため多くの人間から恐れ憎まれていた。

      それを見かねた釈迦 は、彼女が最も愛していた

      末子を隠した。

      彼女は半狂乱となって探し回ったが発見する事が

      出来なく、釈迦に助けを求めた。


      そこで釈迦は、

      「多くの子を持ちながら一人を失っただけで嘆き悲しん

   で いる。

   それなら、ただ一人の子を失う親の苦しみは如何程

   であろうか」と諭した。


   以後、彼女は子供と安産の守り神となった。


  今年も暑い暑い土用の日に二度目の焙烙灸に

  参加した。



  寺の二階の本堂に上がり、ご本尊にお参りし、ご住職

  の祈祷が始まった。




  本日はNHKと毎日新聞社蚊が取材に来ている。


  参加者の頭の上に護符を乗せ、その上に蓬を三個

  据えた焙烙を乗せ火をつける。

  暫くすると煙で本堂全体が燻され、その間祈祷は続く。






  火が消えるとご住職とが副住職のお二人で木剣と

  経文で参加者の体を、

  「家内安全、身体健全」と大きな声で唱えながら

  なでて終了。





         本尊を燻して果てぬ土用灸


  この寺の焙烙灸の起源は定かではないようだが、

  鬼子母神が祀られた当初からの行事であったとも

  言われている。

 

  暑いさなかの暑い行事ではあったが、

  大変爽やかな経験であった。

  きっと、偏頭痛は退散するであろうと思う。


  夕方のニュースにバッチリ写っていたらしい。

 


 

等々力渓谷と九品仏散策(2)



    九品仏浄真寺   

 

    浄真寺は山号九品山唯在念佛院。   


    もともと浄真寺の地は、世田谷吉良氏系の奥沢城で

    あった。

    小田原征伐後廃城となったが、1675年(寛文5年)

    名主の七左衛門が寺地として貰い受け、1678年

    (延宝6年)、越後国村上泰叟寺の珂碩上人を招き

    開山した。

 

    緑の濃い参道が5分位あり、総門に辿り着く。

    潜ってすぐ右手に閻魔堂がある。












    木々に囲まれた先に仁王門があり、入って左手に

    鐘楼があるのが目に留まる。

    関東でも名楼といわれる美しい建築で、四周には

    十二支が刻まれている。

    境内には天然記念物のカヤ、大銀杏はじめ樹木

    が多い。

    サギ草の群生地であったが駐車場拡張の為、

    随分少なくなってしまった。











    本堂と向かい合う形で建つ三佛堂には

    阿弥陀如来像が三体ずつ納められていて合計

    九体ある。

    中央の堂に上品上生・上品中生・上品下生、

    北の堂に中品上生・中品中生・中品下生、

    南の堂に下品上生・下品中生・下品下生である。










    本堂からの庭も手入れが行き届き落ち着いた

    気持ちになる。












    十分な時間ではなかったが、古刹の威厳の中

    にも親しさを感じた。








    涼しい境内から自由が丘まで歩いたが、

    暑さに参ってしまい駅前のティールームで休んで

    帰る羽目となった。



 







 

 

 

 

等々力渓谷と九品仏散策(1)



 

ダースの会 7月活動


   日   時    平成29,年7月19日(水)  8時40分

 

   集合場所    所沢駅 東口改札口 (2F) 内側

 

   交   通                             

   ≪行き≫    所沢 8:50 (準急 元町・中華街行)ー

             9:47 自由が丘 9:55ー(普通 溝口行き)

             ー9:59 等々力駅


  散策コース(約4km、120分)

         等々力駅~(5分)~等々力渓谷~(15分)~

         日本庭園~(10分)~等々力不動~(15分)~

         等々力駅(昼食 60分)-(電車 3分)ー

         九品仏駅~(5分)~九品仏浄真寺~自由が

                   丘駅


   ≪帰り≫   自由が丘15:16-(特急 飯能行き)ー

                         16:04所沢

 

  蒸暑い時期の散策なので、参加者は少ないのではと

  思っていたが21名もの参加があり、賑やかな散策と

    なった。


 等々力渓谷


  等々力渓谷は、武蔵野台地の南端を矢沢川が

    侵食して出来た約1kmの渓谷である。

  東京都区内にある自然豊かな唯一の渓谷であり、

    地上との気温差は4度もあった。


  矢沢川にかかるゴルフ橋の傍の階段を降りると

    下流にむかって、木道の散策路がある。

  以前来た時は通勤に使っている人がいたが、

    今日はキャリーを引いた老婦人に出会った。

  荷物を持って如何上がるのか気にはなったが・・




 


   前日かなりの雨が降ったので水量が増え、歩く

   のには少々危ないのではと思っていたが、全く

    その気配はなかった。





    ケヤキ、コナラ、イヌシデ、シラカシ等の木漏れ日

    が涼しさを演出する。








    30ヶ所以上の湧水が発生し、セキショウ草地や

    湿生植物が点在する。


    古墳時代末期から奈良時代にかけて作られた

    横穴墓が発見されている。

    橋を渡りその中の、等々力渓谷3号横穴古墳を

    覗いた。

    典型的な横穴墓で土器やイアリング等の副葬品

    が人骨と共に発見された。








  等々力不動尊に登る前に不動の滝があり、申し訳

  程度の水がチョロチョロ。

   以前はもっと多かったような気がするが、水不足かな? 

   その前に甘味処があり蚊に刺された記憶がある。










  龍轟山明王院 等々力不動尊は平安時代末、興教大師

  によって開かれた霊場。桜や紅葉も多く渓谷を代表する

 樹林地になっている。










 等々力不動尊の対岸には昭和36年に建築された書院

 建物と日本庭園がある。

 心地よい風が吹き抜け秋の紅葉が楽しみな所である。










 等々力駅までとってかえし、材木屋と言う中華料理店で

 昼食を済ませ、電車で九品仏に向かった。