紗羅双樹 -7ページ目

日本のミケランジェロ・石川雲蝶(2)

 

永林寺を出る頃は雨もすっかり上がっていた。

昼食は道の駅ゆのたににある深雪の里。

魚沼産のコシヒカリの御飯にけんちん汁等の郷土料理が

楽しめ、地元の特産品のお土産も買える。






西福寺開山堂


  曹洞宗の名刹西福寺は室町時代後期に開かれた。

  現在の本堂は1801年に再建。 

  本堂の左手に連立された開山堂は、江戸時代末期の

  1857年に二十三世蟠谷大龍(ばんこくだいりゅう)和尚に

  よって建立された。







  山門の前には雲蝶作の火除け地蔵と「禁葷酒」の戒壇

    石があり、もう一つの山門を潜ると左手に鐘楼がありそ

    の奥に屋根を覆われた開山堂が聳えている。











  その向かいに雲蝶がノミをふるって製作中の像が

    つくられているが、意外と小柄な人であった。





  開山堂の正面階段の上に張り出した廂(向拝)の彫刻

   は、なかの作品を期待するだけの素晴らしいもので

    あった。






  開山堂は曹洞宗の開祖道元と開山芳室祖春をお祭り

    するために建てられたが、一歩足を踏み込み思わず

    息をのんだ。

  越後日光開山堂と呼ばれる訳が分かったような気が

     した。






  大龍和尚は「仏の教えが、雪深く貧しい農村地域の人々

    の心を救う」との信念のもとの建立で、

  雲蝶はその意図をよく理解しての終生の大作であった

    とか。


  開山堂の階段の両脇に立つ仁王像は、高さ2m余の

  ケヤキの一本彫りで、今にも動きそうな迫力で開山堂

  を守っている。


  天井は「道元禅師猛虎調伏の図」が透かし彫りで施

  され、欄間、壁面の作品は、完成までに6年の歳月を

  かけている。


  本堂にある書院障子の「三保の松原」は組子細工で

     あり孔雀遊戯の図は4枚の襖絵で、不老長寿の園に

   通じる石橋が描かれ、雲蝶の落款がある。


  将来穴が開きそうな板の節には埋め木細工が施さ

  れ、花瓶のあやめ、打ち出の小槌、矢羽根など、

  雲蝶の遊び心もうかがえる。


  帰路、バスの中から見えた青田や越後三山の美しさは、

  この旅の興奮をより大きなものにしてくれた。





 

 


日本のミケランジェロ・石川雲蝶(1)


 

平成29年度ダースの会バス旅


  例年は11月に計画をするが、今年は若葉の頃が良いと

  6月となった。

  当初は5月を予定していたが、諸般の事情で間に合わ

    なかった。


  行き先       新潟県魚沼市小出 「永林寺」「西福

                             寺開山堂」

  期 日         平成29年6月21日(水)

  集合場所       所沢駅東口、さいたまりそな銀行横

  集合時間            午前7時45分


  行 程         8;00所沢東口→ 8;30所沢IC→ 上里

                             SA15分 → 10:50堀之内IC→ 11;00

                             永林寺・拝観12:00 → 12:10深雪の里 

                             昼食・買い物 13:10→13:30 西福寺

                            開山堂・拝観14:30→ 小出IC→ 

             上里SA → 17;30所沢東口・解散


   もし天気が悪くても歩くところは少なく、建物の中の見学

     だから延期は無いと計画したがその通りとなった。

  出発時は曇り空であったが、途中の谷川岳SAでは土砂

    降りになって先が案じられた。

  しかし、永林寺に着くころには傘は必要なかった。


石川雲蝶 


   1814年(文化14) 江戸の雑司ヶ谷に生まれる。

  本名 安兵衛

  江戸彫りの一流派である石川流の本流門人で

   20代ですでに彫物師として名を馳せていた。

  30代前半三条の金物商で法華宗総本山、本成寺の

  世話役であった内山又造と出会い、

  「良い酒とノミを生涯与える」との約束で越後に

   入った

  後に内山の世話で三条の酒井家へ婿入りしている。

  ひとたびノミを握ると鬼と化した雲蝶。

  才能は木彫りにとどまらず、石彫りや絵画にも及ぶ

   事から「日本のミケランジェロ」と イタリアのテレビ

   局が撮影に訪れた時、大変感動したらしい。


 



永林寺


 約500年前に創建され、作州津山藩祖松平忠直公、

 越後高田藩松平光長公の位牌を安置する事により

 葵の紋を許された。

 幕末、本堂の老朽化による新築の誓願をしたが、5年

 経っても許可が下りなかった。そこで松平公の位牌堂

 を建てるとの申請に代え許可された

 この寺と雲蝶の関わりは、博打好きの雲蝶とこの寺の

 弁成和尚との掛け勝負で「雲蝶が勝ったらお金を支払い、

 負けたら永林寺の本堂一杯に手間暇惜しまず彫刻をす

  る」という事であった。

 この勝負に雲蝶が負け約束通り永林寺を訪れた。

 しかし、造営の認可に時間がかかった事と、材料が

  揃わなかったことで、弁成和尚の兄弟弟子の大龍和尚

  の西福寺の方が先になった。


 13年の歳月をかけ欄間をはじめとする彫工や絵画など

  100点を手掛けたが欄間の天女の透かし彫りは有名

  である。

  「男の背中は領収書、女の背中は請求書のように彫刻

  せよ」 と弁成和尚に命令された天女。

  親の背中を見て育つのは男ばかりではない。

  天女の透かし彫りは背中が掘られているが、その肉付

  きにより未婚と既婚になっているとか

  細い目、鼻が高く、肌は桜色という当時の美人を掘って

  いるが、

  モデルは雲蝶憧れの魚沼の女性とされている。

  小鳥と戯れる二羽の孔雀、弁成和尚が雲蝶に語り聞か

  せた 物語を欄間や板絵に仕上げた作品等、高炉台を

  支える天邪鬼 のユーモラスな表情、ヒスイの原石に

  彫刻した寝牛や蛙。

  書院障子の月に群雲の建具。鑑賞時間が足りない!














 

 

 


 

 


 

 

箭弓稲荷神社から吉見百穴散策

 

日時     平成29年3月15日(水)  9時30分 


集合場所  所沢駅 東口改札(2階)内側


交通  


 ≪行き≫ 所沢9:38-10:02 本川越ー(乗換:10分)ー川越

                 市10:18(急行森林公園行)ー10:39分東松山駅 


散策コース(約7㎞、120分)

       東松山駅~(10分)~箭弓神社~(15分)~下沼

               公園~(20分)~岩室観音~吉見百穴(昼食)~

               (20分)~東松山ウォーキングセンター~(15分)

               ~東松山駅


 ≪帰り≫東松山14:42-15:02川越市ー(乗換:徒歩15分)ー

       本川越15:17-15:37所沢


  計画日は天候が悪く翌日の実施となった。

  そのため参加者は7名。


箭弓稲荷神社





 

    和銅5年(712年)に創建されたと伝えられ、ご社殿の

   荘厳さと霊験あらたかさで、多くの人々の信仰を集め

   ている。

   現在、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全の守り神であ

   ると共に

   交通安全、厄除、火難除、学業成就、芸能向上等の

   祈願社として信仰を集めている。


 拝殿・本殿

   豪壮な権現造りで天保6年(1835年)に造営された。

   宝物の絵馬7額は拝殿に掲げられている。

   県の指定文化財である。






 神楽殿

   
                    

 

 宇迦之御魂社(團十郎稲荷・穴宮)

   当社を厚く崇敬していた七代目・市川團十郎が

   奉納した祠。

   芸道・技術の向上を願う人々の信仰が厚い。

   5月、10月には團十郎稲荷祭が行われる。




 


社殿には地面に近い所に水に関わりを持つ龍の

彫り物が見受けられる。

火難除の願いを込められているのである。

この神社は牡丹が非常に有名であるが、この時期

はじっくり彫り物を見るのが良い。














吉見百穴


古墳時代後期から末期に作られた横穴墓群。

近くを通ることは度々あったが、一度も訪れた事は無かった。




 


江戸時代の中頃から「不思議な穴」として人々は興味を持っていた。

明治20年当時の帝大の大学院生であった坪井博士が発掘

調査をし、玉類、金属器、土器などの異物が出土し、先住

民族の住居跡と言われていた。

その後、古墳時代の横穴墓であると判明し、大正12年には

国指定史跡となった。

現在219個の穴が確認されている。

 














地下軍需工場跡


昭和19年~20年に吉見百穴とその周辺の丘陵地帯に

大規模な軍需工場が造られた。

米軍の空襲により航空機製造工場の生産能力が壊滅的な

打撃を受けた。

現在のさいたま市にあった中島飛行機工場の移転の為、

この地区に軍需工場が造られることとなった。

しかし、本格的な生産活動に移る前に終戦となった。










国指定天然記念物  ヒカリゴケ

 

 

ヒカリゴケはコケ類の一種で、一般的に中部以北の山地に

見られる。

関東平野に生育しているのは極めて貴重である。

一定の気温と湿度が保たれる吉見百穴は格好の場所で

あったのか。







    吉見百穴城内には埋蔵文化財センターがあり

  その前には明治24年11月ここを訪れ句を詠んだ

  正岡子規の句碑が建っていた。


          神の世はかくやありけん冬籠








  岩室観音


弘法大師が観音像を彫刻してこの岩窟に納めたと伝え

られている。

観音堂は両側の岩に挟まれるように建っている懸造り

である。








此処にある石仏は四国八十八か所の本尊と同じ。






胎内くぐりがあり、出てきた後を振り返るとハート形に

なっていた。








観音堂を抜けて山道を登って行くと松山城跡に辿り着く。

城主は観音堂へ毎日お参りをしていたとか。






東松山は焼き鳥の美味しい所でもあった。







 



 

 

 

 

ダースバス旅

今年のバス旅は賛成多数で三崎方面。

我々で計画を立て、バス会社と交渉して計画書と

参加者の一覧表を提出すれば、市からの補助金

が下りる事になったので、何処へでも行く事が可能

となった。

 

行先    三浦半島(三崎、城ケ島、三笠艦船)

日時    平成28年11月16日(水)

集合場所 所沢駅東口郵便局前

集合時間 午前7時30分

会費    5700円

所沢インターから高速に乗り、首都高を走り三崎に

着いたのが11時になっていた。

 

城ケ島では城ケ島大橋の下に、北原白秋の歌碑と

記念館があった。

歌碑は大きな石で「雨は降る降る城ケ島の磯に・・・」

が彫られていた。

 

 

 

 

 

 

記念館はとても小さい物であったが、二階建てで

白秋ゆかりのノートや遺墨等が展示されていた。

 

 

 

     しぐるるや利休鼠の城ケ島    

 

 

三崎下町は、全国有数の遠洋マグロの漁業基地

として有名で、マグロを食べるのが一番の目的で

あった。

 

近くには、三崎魚市場、海業センター、うらり、

三浦ブランド館、マグロや海藻を加工した店が

並んでいる。

小さい町には古い家も残っていて

昼食に入った店は、かなりレトロな佇まいで

実家に帰ったようであった。

 

 

 

 

 

 

 

横須賀では、世界三大記念艦の「みかさ」の

見学。

三大記念艦とは他にイギリスの「ヴィクトリー」

アメリカの「コンスティチュージョン」で自国の

独立の時の海戦で勝利を収めた事から。

 

 

戦艦三笠は日露戦争で、東郷司令長官が

乗船指揮した、当時の最新鋭であった。

 

乗船すると上甲板のビデオ室で息継ぎも無い

ほどの速さで説明を受け、ビデオを見た。

 

 

その後は館内を自由にまわり往時を偲んだ。

 

 

 

 

 

 

暮れはじめた帰路は横浜を横目で眺め

出発点まで戻った。

 

 

 

 

 

ダースの会の今年最大の行事は無事終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

国立ハンセン病資料館「多摩全生園」見学

日時    平成28年9月21日(水)

集合場所 西武線秋津駅北口

時間    9時30分

 

定刻に集まった人達で資料館までの初秋の季節

ただよう道を約1時間ほど歩いた。

 

 

 

 

資料館はハンセン病回復者が設立した博物館、

彼らが生きてきた証を収集、展示し、同じ過ちが

繰り返されない事を願って・・・・

ハンセン病者等に対する国の名誉回復事業の

一端も担っている。

 

玄関には母娘遍路の像が置かれ、ハッとさせられた。

ハンセン病患者の中には、入院前に四国遍路を

経験した人が少なくない。

病気を知られず、迫害から家族を守るために

遍路にならざるを得なかった。

僅かな路銀を懐に遍路となった病者は、遍路を

もてなす「お接待」にその日その日の糧を求め

札所から札所への旅を続けた。

どんな人間でも皆救いと言って捨てぬ弘法大師の

広大無辺な御誓願の今に生きる証と記されている。

善通寺に建立後資料館に移転された。

 

1階で受付を済ませ、2階の展示室に。

ハンセン病は日本にも古くから存在していたが

明治40年の法律制定から国が対策を始めた。

治療より療養所に患者を隔離をする事であった。

そして、すべての患者を一生療養所に閉じ込めておく

絶対隔離へ方針強化をした。

 

昭和12年2月4日、ある患者の日記

 私は自分がらい者であることによって他人より受ける

 侮辱や嫌悪は何とも思わない。

 同情! これほどたまらないものが他にあるだろうか。

 同情されねばならんほど自分が無価値で無意義な

 存在を証明するものだ。これが俺にはたまらんのだ。

 

第二次世界大戦後、治療薬が出来ても国もそのまま、

社会も患者を受け入れなかった。

 

俳人 村越化石は

  生ひ立ちは誰も健やか龍の玉

 

「私は人を尊び、思いやる心を持っているだろうか」と

ご自身に問いかけて頂ければと資料館の言葉であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鉢形城跡

鉢形城跡

埼玉県大里郡寄居町鉢形

戦国時代の代表的な城郭跡である。

荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれた
天然の要塞である。

交通の要所でもあり上州や信州を望む重要地点。

1476年(文明8年)関東管領であった山内上杉氏の家臣
長尾景春が築城。

後に小田原の北条氏康の四男氏邦が
豪族藤田康邦に入婿し整備拡充した。
鉢形城は関東地方有数の規模となり
甲斐、信濃からの侵攻の備えとして重要であった。

1590年(天正18年)の秀吉による
小田原攻めの際は後北条氏の支城として
前田利家、上杉景勝、真田昌幸等の北国軍に包囲された。
1ヶ月余りの籠城の末、北条氏邦は、
城兵の助命を条件に開城した。

その後は徳川家康の関東討入にともない、
成瀬正一、日下部定好が代官となって
周辺の統治を行った。

自宅から高速道を使って1時間。
さほど広くない鉢形城歴史館の内容に驚き、
何も残ってない城跡に立ち、
此処でも鬨の声が聞こえ、兵どもの夢の跡を感じた。

 


 

川越城

公益財団法人 日本城郭協会監修の日本百名城の本を

友人からプレゼントされ
今年から城攻めをしていこうと考え、埼玉県の手近から始める事とした。

川越城

15世紀
足利氏の勢力に対抗する上杉氏の本拠地として、
上杉持朝が太田道真道灌父子に川越城(河越城)の
築城を命じた平山城。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、
川越城は前田利家に攻められて落城。

その後、徳川の世になり酒井重忠が1万石で
封じられ川越藩の基礎が出来る。

酒井忠勝、松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保など
幕府の要職についた歴代藩主が多かった。

1848年(嘉永元年)に建られた
本丸御殿の一部が現存する。

場内にある三芳野神社は、
童謡「とおりゃんせ」の舞台である。

簡単にお参りできなかった庶民は
帰りには厳しいチェックがあったとか。15世紀
足利氏の勢力に対抗する上杉氏の本拠地として、
上杉持朝が太田道真道灌父子に川越城(河越城)の
築城を命じた平山城。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、
川越城は前田利家に攻められて落城。

その後、徳川の世になり酒井重忠が1万石で
封じられ川越藩の基礎が出来る。

酒井忠勝、松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保など
幕府の要職についた歴代藩主が多かった。

1848年(嘉永元年)に建られた本丸御殿の一部が現存する。

 



城内にある三芳野神社は、童謡「とおりゃんせ」の舞台である。
往きはよいよい帰りは恐いとは・・・・
簡単にお参りできなかった庶民は帰りには厳しいチェックがあったとか。

 

 

   攻防の果ての本丸梅早し

平成28年「草萌掲載句」

1月号(第五十号記念)

  星月夜

  秋闌けて暮れゆく里の駅舎かな

 天窓に樹々のざわめき星月夜

 ひと跨ぎほどの川幅秋の虹

 月光をちからに蕎麦の花の赤

 乾びたる声張る一羽渡り鳥

 白雲に竹伐る音の届きけり

 茅葺の舞台に果てぬ村まつり

五十号記念大会

  菜の花や茫と暮れゆく武甲山

 

3月号(51号)

  落葉

 夕闇へ音の逃げゆく落葉かな

 雨の立冬靴音の遠ざかる

 鳴き交はす鴉しぐれの海野宿

 小流れに洗ふ冬菜のかがやけり

 数へ日や声に引かるる小買物

 冬雲にまぎるる煙波の音

 しぐるるや勘助遺愛の鏡石

俳句年鑑掲載

 埋もれつつレール尽きたり麦の秋

 

5月号(52号)

  城の狭間

 早春の風のはやさよ城の狭間

 春の鳶群れて入江の広さかな

 時を打つ他に音なし春火鉢

 春一番押し戻さるる渡しかな

 翅閉づる力のありて冬の蝶

 人日の寡黙となりぬ雑木山

 冬空へ祈る姿の気根かな

 

7月号(53号)

  古地図

 佃島古地図のままの路地の春

 桜蘂降る山城の石落し

 戦経し城の空堀春の雲

 漣に舟戻さるる初桜

 暮れ泥む窓に垂れたる子猫の尾

 春深し焦げ跡著き隠れ門

 すぐそこと聞く梅林の遠さかな

 

9月号(54号)

  細格子

 止め石の先の薫風細格子

 裏口に迫る万緑昼の月

 夏草や薄き石碑の淡き文字

 ひたすらに海月漂ふ浜離宮

 夏雲を掬ひ取りたる破れ網

 一斉に揺るる蓮の葉空の青

 河骨や疎かならぬ水の反り

本部句会

 夏雲やホテルの中の県境

 こひのぼり渡して川の早さかな

11月号(55号)

  仁王

 秋風や仁王の履かぬ下駄二足

 穂芒のほぐれて風の離れをり

 煙突に日の集まりて秋の暮

 空蝉や上人坂の郭跡

 山百合や良寛像の黒衣

 鳳凰の睨む八方寺涼し

 訪ふ人のなき霊廟よ山法師

  

 

 

 

 

 

玉川上水緑道散策

日時      平成28年5月18日 (水)

時間      9時15分

集合場所   所沢駅改札内

行程      西武国分寺線鷹の台駅から歩いて西武新宿線

         花小金井駅まで7・5キロ

出発      所沢駅発9時21分~東村山駅24分着、同駅発9時27分~

         鷹の台駅着9時33分。

         鷹の橋~ふれあい下水道館見学~九右衛門橋~商大橋

         ~平櫛田中美術館見学~八左衛門橋~喜平橋~茜屋橋

         ~小金井橋~花小金井駅で解散。

 

         

 

         

 

  小平市公共下水道管理センター

    ふれあい下水道館は、昭和45年に着手され20年の歳月をかけて

    平成2年度に汚水整備が完了した。

               

 

    1階のエントランスホールからB1の講座室で説明を受け、順番に

    展示室を下へ下へと見て回った。

    B5の体験室では実際に使われている下水道を、鼻を撮みながら

    見学した。

           

          

       

          

   

          

 

          

 

          

 

          

 平櫛田中美術館

    平櫛田中は、明治5年岡山県生まれ。

    上京後高村光雲の門下生となり、その後岡倉天心、西山禾山の

    影響を受け精神性の高い作品を制作。

    昭和33年には22年の歳月をかけて完成した国立劇場の「鑑獅子」

    は彼の作品の集大成である。

    昭和45年小平に住み始め107歳で亡くなるまでの10年間を過ごした

    邸宅の前には、まだこれから横山大観や竹原はんの像を彫るつもり

    であった原木がそのまま残されている。

    昭和37年文化勲章受章。

 

          

 

          

 

          

 

          

 

          

 

海岸寺

    この地はもともと江戸南泉寺の抱地で、宝林庵という小庵があった。

    享保年間にこの一帯に移住した農民の寺へと言う要望により、秩父

    三峰山にあった海岸寺を引寺したが始まり。

    臨済宗妙心寺派、山号は瑞雲山。

 

        

 

        

 

 

幸手権現堂桜堤 散策

桜の見頃の関係で、この月の課外は定例会日と交代する。


集合日時  平成28年4月6日(水)  9時35分


集合場所  新秋津駅改札口外


交通     新秋津 9:44-10:16 南越谷-(徒歩乗換3分)

        -新越谷10:31-(東武急行 南栗橋行)-

        10:58 幸手




 幸手駅より権現堂桜堤まで2㎞  徒歩約30分

 バスもあるが1時間に1本。この時期は臨時が出ている。


 幸手市は日光街道と御成り街道の合流した地点の

 宿場町 として江戸時代から栄えていた。






 交通量が多いと思ったら日光街道であった。

 時々間口の狭い古い家があり、その長い奥には

 重厚な蔵が残っている。

 その奥までレールが引かれている家があった。





 


 権現堂桜堤には1000本余の桜が1㎞にわたって

 植えられその前には広大な菜の花畑があり素晴らしい

 景色であった。