神功皇后の陵狭城盾列池上陵に治定されている五社神古墳です。

 

神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后で、自ら新羅に遠征したと伝えられています。

 

 

■制札

 

仲哀天皇皇后神功皇后 狹城盾列池上陵

 

 

墳丘南西側より参拝します。

 

 

 

 

 

拝所が見えてきました・・・・

 

 

 

拝所南西側。

 

南西側には低い柵がありますが、その左脇より乗り越え可能な状況。

 

拝所正面。

 

■一般拝所

 

陵名・陵号:狭城盾列池上陵[さきのたたなみのいけのえのみささぎ]

墳形:前方後円

 

 

■特別拝所

 

■陵号標

 

 

拝所内に石燈籠がずらり並んでいるのは珍しい光景・・・・・

 

1863年(文久3年)五社神古墳を神功皇后陵に治定。

1745-1790年(延享2-寛政2年)奉納の石燈籠8基が、佐紀陵山古墳から五社神古墳の拝所内へと移設。

 

拝所西側。

 

拝所南東側。

 

 

■見張所

 

 

 

こちらは何でしょう。旧番小屋?

 

 

 

南東側の参拝道。

 

 

 

拝所東側。

 

 

南東側より望んだ墳丘、南側周濠。

 

 

 

南側周濠南東角。

 

 

 

南側周濠を東より。

 

■渡土手

南東角の渡土手。

 

 

 

■御前池

 

御前池越しの前方部東側。

 

佐紀盾列古墳群の中では最も巨大、全国12番の規模。

佐紀盾列古墳群西群、佐紀三陵の一基。

 

後円部墳頂に鎮座していた五社神の祠により命名。

 

 

古墳名・遺跡名:五社神古墳[ごさしこふん]

所在:奈良市山陵町

墳形:前方後円墳

被葬者:不明

考古学上はヤマト王権の大王墓。

 

墳丘長(全長)267-275m

後円部直径(東西)190m、高さ27m、墳頂径40m、4段築成。

前方部幅150m、長さ115m、高さ20.5m、3段築成。

くびれ部幅110m。

西側造出長さ28m、幅83m。

 

墳丘外表には葺石、埴輪を検出。

鍵穴型周濠には6ヶ所の渡土手があり南北に階段状の高低差。

元来は周濠を伴わず、現在巡る周濠は後世に形成。

周庭帯はあったとされています。

 

4世紀末葉-5世紀初頭、古墳中期初頭築造。

佐紀盾列古墳群の中では最終段階の大型古墳。

 

1849年盗掘時の資料よれば、

埋葬施設は竪穴式石室、内部に長持形石棺。

 

2003年裾野補修工事に伴う発掘調査。

2004年調査時に墳丘一部形状変化を確認。

2008年学会による立入調査実施。

 

■御前池

御前池北東側から望む前方部東側。

 

■渡土手

東側中央の渡土手はくびれ部付近に接続。

 

■歴史的風土山陵特別保存地区指定案内板

 

 

■中ノ池

中ノ池東側より後円部東側を望みます。

 

 

 

中ノ池北東側。

 

墳丘北側遠景。北側には近寄れません。

 

墳丘北西側というより、後円部外提及び域内陪塚付近。

 

 

後円部を西側より望んでいますが、全く見えずほぼ後円部外提及び域内陪塚付近。

 

 

 

このあたりまでは後円部外提及び域内陪塚付近。

 

西側の前方部が見えてきます。

 

■歴史風土特別保存地区

 

西側のくびれ部付近。

 

外提南西角。

 

外提南西角の堤上部。

 

南西側周濠南西角。

 

墳丘南西側。

 

南側外提に沿って、東へと進みます。

 

■渡土手

大規模な斜面。

 

 

渡土手上部通路。

 

右には高い水面を湛え・・・・・

 

左のかなり低い水面との調整。

 

南側周濠の外提に沿って東へと向かいます。

 

 

拝所北西へと辿り着き・・・

 

南側正面にはこんもりと山陵八幡神社社叢。

 

あーなるほど!

拝所左側は原則立入禁止なのでしょうけど、致し方なく出口扱いに。

幕末までは永らく神功皇后陵と考えられていました。

 

1875年(明治8年)垂仁天皇皇后、日葉酢媛命陵[ひばすひめのみことのみささぎ]に治定替えし修治が行われています。

 

 

 

墳丘南西側。

 

拝所入口が見えてきます・・・・・

 

■拝所

拝所は墳丘南側、前方部正面に設置されています。

 

 

南側には八幡神社境内が迫っているので、拝所への入口は西側となります。

 

■制札

 

垂仁天皇皇后日葉酢媛命 狹木之寺間陵

 

 

 

 

■一般拝所

 

■特別拝所

 

■陵号標

垂仁天皇皇后 狹木寺間陵

 

陵名・陵号:狭木之寺間陵[さきのてらまのみささぎ]

墳形:前方後円

 

 

日葉酢媛命(生年不詳-垂仁天皇32年)は垂仁天皇皇后。

垂仁天皇(崇神天皇29-垂仁天皇99年)は第11代天皇。

 

 

■石燈籠

狹木寺間陵灯

 

 

船着場でしょうか・・・・・

拝所は墳丘に接続しておらず、周濠にて隔てられています。

 

拝所より東側外提へは進入できません。

 

拝所南側には八幡神社社叢が迫ります。

 

 

 

■傾斜量図

 

前方東西両側に大きな渡土手が設置されているのが特徴的。

 

■等高線図

2023年佐紀古墳群航空レーザー測量調査より。

 

 

1916年(大正4年)盗掘事件。

    埋葬施設、副葬品の記録を保存し、古墳を復旧。

 

後円部頂上中央には東西15.8m、南北16.5m、高さ0.7mの方形壇。

方形壇中央の最高所には、蓋[きぬがさ]形埴輪(高さ1.5m、幅2m)があり、屋根形石、盾形、家形、そして円筒埴輪列を巡らせていました。

 

■蓋形埴輪(複製)

橿原考古学研究所附属博物館蔵。

Wikipediaより。

 

佐紀瓢箪山古墳より見た墳丘東側。

 

墳丘南東部から東側に近寄れないところがストレス・・・・

 

後円部東側。

 

佐紀盾列古墳群の西群、佐紀三陵の一基。

 

古墳名・遺跡名:佐紀陵山古墳

所在:奈良市山陵町

墳形:前方後円墳

被葬者:不明

 

全長203-207m、三段築造。

後円部直径131m、高さ20-21.3m。

前方部幅87m、高さ12.3m。

 

葺石、円筒埴輪があり、3つに仕切られた水位の違う周濠が巡っています。

 

4世紀後半-5世紀前半、古墳前期末葉築造。

佐紀盾列古墳群の中では、最も古い築造です。

 

考古学上は地域の有力な大王墳墓。

同時代の相似形の古墳が畿内各地に見られることから

広域な領域支配の存在が考えられます。

 

 

ようやく後円部北東側に近接する住宅道路。

 

 

墳丘北側。

 

墳丘北西側。

 

墳丘北側付近を西より。

 

墳丘北西側にある立入禁止の入口。

 

 

 



■第二濠

西土手より北にかけて墳丘西側に伸びる周濠。

 

 

 

■渡土手

陸橋、渡土提。

削出からの盛土により形成。

東側最大長33.64m、下端幅16.09m。

西側最大長27.79m、上面幅8.77m、下端幅18.28m。

2018年立命館文學 古墳の渡り土手 近畿地域を中心として

 

コの字形の墳丘南側が第一濠、西側が第二濠、東側が第三濠。

 

 

西渡土手北側。

 

■西渡土手

 

柵の奥・・・

 

佐紀陵山古墳の渡土手は、佐紀陵山型と分類されます。

佐紀陵山型は、左右対称の2~4の渡り土手からの2、3 段の水面の異なる濠を持つ形状。

 

■第一濠

東西渡土手より南側を繋ぐ周濠。

 

南側周濠を西より。

 

南西側。

 

■宮内庁書陵部畝傍陵墓監区佐紀部

 

 

 

 

 

宮内庁管理の陪塚として、成務天皇陵後円部北側から北東にかけて3基あります。

 

 

■陪塚い号

四方を住宅に囲まれています。

陵形:方墳

規模:一辺35m

 

墳丘東側。

 

墳丘南側。

 

■陪塚ろ号

方墳2基があるようですが、繋がっているのか詳細不明。

陵形:方形2基

規模:一辺25m四方、30m四方

面積:1,766.40㎡

 

東側墳丘の南面。

 

脇の廃屋。


 

西側墳丘の南西角。

 

西側墳丘の北西角。

 

西側墳丘の墳頂を北面より。

 

東側墳丘を北西側より。

 

■陪塚は号

未調査。3段築成で墳頂部に広い平坦面を持ちます。

墳形:長方丘

規模:長辺70m、短辺35m

面積:1,414.17㎡

 

墳丘北面。

 


 

墳丘北西角。

 

■歴史の道道標

 

 

墳丘南側は立入禁止区域。

 

 

 

墳丘南西角。

墳丘からちょっと離れた位置にある駐車場・・・・

 

もちろん一般参拝用に開放はされていない宮内庁施設。

 

 

 

 

住宅地用にしてはかなり横幅の広めな石段・・・・・

 

これは・・・もちろん参道のための石段なんでしょう。

 

 

駐車場から石段までの雑草状態の空地?

本来ここが参道であれば

敷石や植栽が整備されていそうなものですが・・・

 

しかし石段は立派な造りとなっています。

 

墳丘南西側。

 

■一号濠

一号濠南西角。

 

 

周濠は南側前方部が幅広くなっています。

 

陵名:狭城盾列池後陵[さきのたたなみのいけじりのみささぎ]

墳形:前方後円

 

 

続日本後紀(855-869編纂)によれば既にこの佐紀石塚山古墳は、神功皇后陵(狭城盾列後陵)と混同されていた事実が判明。

 

843年(承和10年)佐紀石塚山古墳を狭城盾列池後陵に治定。

 

元禄の諸陵探索(1697-1699)時、奈良奉行所は分明陵として報告。

 

1863年(文久3年)陵前南側の濠を埋め、南渡土提を設置し拝所としました。

 

 

■南渡土提

 

 

■制札

 

成務天皇 狭城盾列池後陵

 

 

■御陵兆域原標

 

■一般拝所

 

 

■陵号碑

成務天皇狭城盾列池後陵

 

■特別拝所

 

成務天皇[せいむてんのう]は、AD84年誕生-190年崩御(景行天皇14年-成務天皇60年)、在位はAD130-190年(成務天皇元年-60年)。

 

107歳崩御とされ、実在性の低い天皇に挙げられます。

 

 

拝所南西側。

 

拝所南東側。

 

■三号濠

拝所東側は二重濠のような様相。

濠と言うより、かなり浅い庭池のような外濠。

 

 

アヤメ、黄ショウブが咲き誇っています。

 

 

 

■二号濠

二号濠南東角。

 

南側周濠を東より。

 

 

墳丘東側には遊歩道・・・

 

前方部南東側。

 

右手(東側)に並ぶ佐紀陵山古墳(垂仁天皇皇后日葉酢媛命陵)が数十年先に築造されています。

巨大古墳がこれほどまでに近接するのは珍しい配置。

 

 

成務天皇陵東側くびれ部に食い込むように横並びする日葉酢媛命陵後円部。

 

■歴史の道道標

 

 

成務天皇陵後円部北東側。

 

 

成務天皇陵後円部北側と二号濠。

 

 

■北渡土提

後円部北西側の堤。

 

 

墳丘西側へ向けて低地が広がります。

 

後円部頂上西側に高さ2mの小丘があります。

これは過去3回にわたる盗掘のため・・・・

 

1063年(康平6年)興福寺僧静範らの盗掘で16名を配流。

   その後、陵修復、宝物返納。

1634-53年(寛永11-承応2年)里人が採石中誤って石棺を掘り出しました。

   棺内に鏡、刀剣があったので届け出。

   本多政勝は石室復旧を行わず埋め戻させました。

1852年(嘉永5年)奈良奉行所が勾玉類の盗掘犯を捕え、盗掘坑を復旧。

   盗品は月輪陵内に埋納。

 

 

埋葬施設は竪穴式石室で長持形石棺。

副葬品として鏡、剣、玉の出土の伝承があります。

 

 

後円部西側。

 

佐紀盾列古墳群の西群、佐紀三陵の一基。

 

古墳名・遺跡名:佐紀石塚山古墳、石塚山

所在:奈良市山陵町

 

4世紀後半、古墳前期末葉築造。

 

全長218.5m、三段築造。

後円部直径132m、高さ19-23m。

前方部幅121m、高さ16m。

 

葺石に覆われた光景から石塚の命名。埴輪検出。

 

 

西側くびれ部。

 

文久山陵図によれば、くびれ部に造出のような張出しが見られますが・・・

1994年(平成6年)調査時の測量によれば、造出は確認できませんでした。

 

前方部西側。

 

 

前方部南西角。

キショウブ(黄菖蒲)があちこちで見られる季節に。

 

 


 

とはいえ黄菖蒲は明治期に移入され、その繁殖力の強さから野生化している要注意外来生物のようです・・・

 

 

奈良市山陵町[みささぎちょう]にある高野陵[たかののみささぎ]。

 

大和国西大寺往古敷地図をもとに佐紀高塚古墳に治定。

 

一説には称徳天皇の真陵は、西大寺資財流記帳によれば西大寺寺域西限あたりとされます。

 

 

 

拝所は墳丘西側に位置します。

 

■拝所

 

 

 

■制札

 

稱德天皇 高野陵[たかののみささぎ]

稱德は称徳の旧字体。

 

今まで意識していませんでしたが、文字は陽刻されているんですね・・・

 

孝謙・稱德(称徳)天皇(718-770:在位749-758、764-770)は奈良天平時代の天皇であり、史上6人目の女性天皇。

 

治世は藤原仲麻呂(706-764)との勢力争いに終始し、寵愛した道鏡(700-772)と仏教興隆に寄与しました。

 

■一般拝所

 

■特別拝所

 

 

陵名:高野陵[たかののみささぎ]

陵形:前方後円

 

 

■陵号碑

稱德天皇高野陵[しょうとくてんのう たかののみささぎ]

稱德は称徳の旧字体。


 

 

 

スダジイの花が咲き誇り、初夏の香りでいっぱい!

 

 

 

 

 

地表に根が這う光景。

 

 

■見張所

 

 

 

 

拝所北西側より。

 

 

 

拝所南西側より。

 

地表に根が這う光景が印象的。

 

 

墳丘南西側と周濠南西角。

 

そのもう少し南より。

 

墳丘南側、その東へは立入禁止。

 

もちろん禁止区域には入りません。

・・・・・外周からの観察しかしませんので。

 

南側周濠の東西を仕切る土手なのか、土橋なのか。

 

 

水は無く周濠の形状のみ。

 

墳丘南側。

 

 

 

墳丘外提南東端かと。

 

墳丘東側。この辺りは公園整備されているような整然とした佇まい。

 

墳丘北東側。

 

遺跡名:佐紀高塚古墳

 

佐紀盾列古墳群(佐紀古墳群)西群を形成。

佐紀丘陵南麓の丘尾を切断して築造。

 

佐紀盾列古墳群では中型規模、墳丘主軸が他と異なり東西方向。

この地の主要古墳に随伴する古墳であったものと考えられます・・・

 

4世紀古墳時代前期後半築造。

 

前方後円墳。

墳丘長127m。

前方部後円部とも3段築成。

前方部幅70m、後円部直径84m。

周濠は幅の狭い鍵穴型。

 

 

平城京の右京北辺二坊に位置します。


 

墳丘後円部北東側あたり。

 

 

墳丘後円部北側。

 

墳丘北側。

佐紀石塚山古墳の第13代成務天皇陵拝所より南を見ています。

 

墳丘北西側。

 

■奈良県道52号精華線

 

■孝謙天皇陵前交差点

墳丘北西側。

 

墳丘西側。

春日大社の砂ずりの藤は藤原道長の子孫、近衛家による献上と伝えられています。

 

1309年(延慶2年)絵巻「春日権現記」の中に砂ずりの藤が描かれています。

 

 

 

 

参道に新しい鹿がお目見えしていました。

 

■神鹿

2023年(令和5年)12月建立。

 

めっちゃ強そう・・・

 

 

 


 

 

 

■砂ずりの藤

ノダフジの変種。樹齢800年。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■慶賀門

 

 

 

 

 

 

塗装修理を終えているようで色鮮やかになっていました。

 

■榎本神社

祭神:猿田彦大神
南廻廊内西端、外側に面して鎮座する摂社。春日造。

 

 

 

 

一夜竹から伸びる藤の幹が印象深い達磨寺です。

 

 

 

■西門

 

 

■一夜竹

 



見事に咲いています・・・・・

 

 

 

 

本堂を背景に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

■ハナミズキ

 

■薬師石

 

 

■方丈北門

■勅使門

北門。表門。

江戸前期建立。

 

 

 

 

 

 

■手水舎

 

 

■毘沙門天堂

 

■扁額

毘沙門天

 

■毘沙門天堂本堂

 

提灯は毘沙門天王。

 

 

 

 

 

 

■山門

正門。南門。通用門。

重要文化財。江戸前期建立。

 

 

 

 

 

 

山門入ってすぐ南にあるのが、白衣辨財天。

 

■白衣辨財天堂

 

■鳥居扁額

白衣辨財天女

 

■白衣辨財天狛犬

 

 

■覆屋扁額

白衣辨財天

 

覆屋内部の天井には大量の赤提灯が・・・・

 

■白衣辨財天本堂

 

 

 

 

覆屋内、南東角の弁財天。

 

■鳥居扁額

金鍔辨財天女、霸降辨財天、水吉辨財天

 

 

白蛇の絵馬。

 

 

 

 

弁天池に囲まれた弁天島。

 

 

■大聖歓喜天碑

大聖歓喜天王像は伏見城内に豊臣秀吉が祀っていたもので、元和年間(1615-24)再興時に当地に遷座し「聖天さん」と親しまれています。

 

 

山門東側背面。

 

 

 

 

■顕正碑

 

 

中門前の石段。

 

 

■客殿

 

■鎮守社

祭神:白鷹龍神、赤桃明神、白玉明神

 

■鳥居扁額

白鷹龍神、赤桃明神、白玉明神

 

 

 


 

■ヤマモモ

京都市指定保存樹。

 

 

 

 

 

 

京都市東山区三十三間堂廻り町、三十三間堂の東向かいにある寺院。

 

俵屋宗達の白象は目にしたかったので大満足でした。

動きや表情が感じられ、ユーモラスな趣きがとても印象深い!

 

アニメの技法にも通じているようで興味深いですね。

 

 

■勅使門

北門。表門。

江戸前期建立。

 

■山門

正門。南門。通用門。

重要文化財。江戸前期建立。

 

1594年(文禄3年)淀が父浅井長政の菩提寺として養源院創建。

1619年(元和5年)落雷により伽藍焼失。

1621年(元和7年)崇源院(江)により境内再興。

 

当初は浅井家菩提寺として創建しましたが、崇源院(江)による再興もあり、しだいに徳川将軍家代々位牌所も兼ねながら存続していきます・・・

 

 

 

■客殿前手水舎

 

 

 

 

■客殿

本堂。御位牌殿。

重要文化財(附:鬼瓦には元和七年二月吉日の銘)

西面に奥玄関(車寄)、北面に奏者所、北東隅に内仏壇及び廊下がそれぞれ附属。

 

1600年伏見城の戦い。

1619年(元和5年)伏見城破却。

1621年(元和7年)伏見城の殿舎を移築。

一重、入母屋造、本瓦葺、西面奥玄関、北面奏者所附属、本瓦葺。

北東隅内仏壇及び廊下附属、桟瓦葺

桁行11間半22.8m、梁間9間半18.9m。

六間取りの禅宗寺院方丈形式。

牡丹の間は秀吉の学問所。

本尊は阿弥陀如来。

 

 

客殿内部は有料拝観となります。

 

廊下天井は鳥居元忠を弔う、血天井と呼ばれる伏見城遺構。

1600年8月26日-9月8日(慶長5年7月18日-8月1日)伏見城の戦いにて自刃し、血に染まった床板を、のちに天井に移築して保存。

1600年10月21日(慶長5年9月15日)関ケ原の戦いが終わるまで戦後処理が進まず血糊が染み込み洗っても削っても取れなかったとのこと。

 

杉戸は俵屋宗達による白象図、唐獅子図、波と麒麟図。

襖は俵屋宗達による松図、狩野山楽による牡丹図。

ともに元和再建時に製作。

 

 

■玄関

客殿西面に入母屋造妻入、軒唐破風付の奥玄関を附属。

 

玄関、客殿南西側。

 

玄関南側。

 

 

 

客殿東南端から矩折りの廊下が護摩堂に接続。

 

■護摩堂

重要文化財(附:廊下)。非公開。

江戸前期建立。

質の高い伽藍再興期の様相を良好に伝えるものとして重要。

 

客殿東側には、養源院書院庭園が広がります。

かつては書院の南に位置していた庭園遺構ですが、今は書院は現存しません。

平成初期に復元されています。

 

 

■養源院書院庭園

京都市指定名勝。伝小堀遠州作。非公開。

江戸中期には存在が確認できますが作庭時期不明。

昭和末期にかけて荒廃が進行。

1991-93年(平成3-5年)庭園保存整備事業。

 

■養源院指図

宮内庁書陵部蔵。1608年(元禄11年)。

左が北。

客殿の東北端から北には内仏壇、その東が風呂屋。

内仏壇の北には書院、小書院、茶所があり、その西には上台所、台所。

 

つまり表門、表参道、中門の正面には台所その奥に書院。

南に御位牌殿、その南東に護摩堂を配置。

 

■養源院惣絵図中井主水正控

京都府立総合資料館蔵。1707-10(正保4-7年)あたりと推察。

中央下部が御位牌殿(客殿)、右下に護摩堂。

上部に描かれている書院は現存しません。

 

上図の東に養源院書院庭園を合成。

 

■養源院書院庭園

平成元年調査実測平面図。


 

 

■延命地蔵尊

 

 

 

■鐘楼堂

重要文化財。

質の高い伽藍再興期の様相を良好に伝えるものとして重要。

1650年頃建立。

桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、本瓦葺。

 

 

 

 

■客殿

 

 

 

客殿の北に伸びる部分、寺務所や庫裡のような

 

■中門

重要文化財(附:番所、築地塀2棟)。非公開。

江戸前期建立。

質の高い伽藍再興期の様相を良好に伝えるものとして重要。

 

 

中門前の石段。

宇陀市室生室生にある西光寺。


 

 

 

 

 

 

 

 

道を跨ぐほどの巨樹。

 

■城之山桜

樹齢300年。

大野寺(奈良県宇陀市室生大野)の親木と伝えられています。