奈良市佐紀町衛門戸[よもんど]に所在する前方後円墳。

佐紀盾列古墳群内では中規模クラスの古墳。

 

 

墳丘内に立入りが可能であり、その高低感や全体感が楽しめます。

周遊路など全体的に整備されており景観良好。

 

 

■佐紀瓢箪塚古墳

国史跡。

古墳時代中期前半の前方後円墳。

 

周濠南東側。

 

南東側には周濠跡がしっかり残っていますが、平常は貯水していなかった可能性が高いと考えられます。濠の調査により葺石、埴輪が確認されています。

 

前方部正面から西側隅にかけては、周濠は無かったとされます。

 

この辺りから墳丘上に登りやすそうです。

 

ここは墳丘南側、前方部中央付近。

土取りにより損壊していることから、緩やかな登り斜面となっています。

 

 

墳丘全長96m。

後円部径60m、後円部高10m。

前方部幅45m、前方部高さ7m。

 

 

 

前方部中央墳頂部を南から北へと進みます・・・・

 

西に見える稜線は佐紀陵山古墳。

 

佐紀瓢箪山古墳の南西側の円墳は、衛門戸丸塚古墳。

 

見下ろすと、前方部南西側には衛門戸丸塚古墳が隣接。

 

■衛門戸丸塚古墳[よもんどまるづかこふん]

佐紀瓢箪山古墳の築造より先行して存在していました。

なので双方隣接部には濠を造らず、墳丘も共存を優先。

 

1913年(大正2年)鉄道建設に伴う砂利採取により双方損傷。

 

再び、佐紀瓢箪山古墳を登ります・・・・・

くびれ部付近から登り傾斜となります。

 

急に丸く開ける平坦部、後円部墳頂。

 

振り返り、前方部を見下ろします。

 

 

西側斜面は芝生に覆われ、右手下には墳丘に沿った遊歩道が見えます。

 

この遊歩道は、こちら墳丘南側よりぐるりと周囲を巡っています。

 

古墳南西側の進入路には石標が建っています。

 

■石標

史跡 佐紀瓢箪山古墳西口

 

墳丘西側を墳裾に沿って、北に向かいます。

 

墳丘西側遊歩道、先にくびれ部が見えます。

 

 

墳丘北西側。

 

墳丘後円部北側。

 

 

■説明板

奈良県教育委員会。かなり不鮮明。

 

 

後円部東側斜面。

 

 

 

 

 

 

墳丘南東側。

 

 

 

周濠北東側付近。

 

墳丘の北側を通る道。

 

墳丘や周濠からは少し離れているようですが・・・

 

 

墳丘北西側。

 

後円部西側。

マラ塚・・・・

もはや令和の時代にはNGワードなんでしょう・・・

 

じゃあ、オセ山推し(^^;としましょうか。

 

 

■オセ山古墳

別称はマラ塚、ゲンオ塚。

帆立貝式前方後円墳。

 

墳丘西側全景。

 

佐紀盾列古墳群に属する帆立貝式前方後円墳。

4世紀後半、古墳時代中期築造。

 

奈良市歌姫町字平山に所在します。

 

 

墳丘南西側付近。

 

墳丘西側の周濠。

 

墳丘西側には帆立貝型の前方部がありました。

 

墳丘北西側の周濠。

 

周濠幅5m。葺石、埴輪あり。

 

 

現存全長65m。

後円部径43m、後円部高5m、後円部二段築成。

 

前方部を西に向け、その前方部の大半は削平により消滅。

 

 

墳丘北側。

 

 

 

 

墳丘東側。

 

 

墳丘南東側。

 

 

墳丘南側。

佐紀盾列古墳群に属する中規模クラスの前方後円墳。

5世紀前半、古墳時代中期築造。

 

奈良市歌姫町、佐紀町にかけて所在します。


 

墳丘東側。

 

墳丘東側。

 

国指定史跡。

 

墳丘長105-108m。

後円部径65-70m、後円部高8.5-9m。

前方部幅52-55m、前方部高1.5-3.2m。

 

 

後円部に馬蹄形の周濠が巡り、前方部は途切れています。

 

数日に渡る降雨後のため水を湛えています。

 

1956年果樹園として開墾にあたり後円部調査。

   盗掘された粘土槨が後円部中央東よりに検出。

1973年削平による開発計画があったものの地主が保存に同意。

1979年より発掘調査、環境整備事業実施。

古墳東側の外提内面を割り石積みし、標柱石と説明板を設置。

 

 

 

■史跡標

史跡 塩塚古墳

 

■説明板

 

墳丘南東側。

 

 

墳丘南側。

 

墳丘南西側。

 

 

墳丘南西側は、一部奈良時代に削平され建物敷地であったようです。

平城京に属する松林苑の一部であった可能性が指摘されます。

 

墳丘西側を南より北へ。

 

 

 

後円部西側墳裾付近。

 

 

墳丘北西側。

 

 

 

墳丘北側。

 

 

墳丘北西側付近。

 

 

墳丘北東側。

墳丘の東側は比較的形状や周濠部分が明確です。

佐紀古墳群のなかでは比較的早い段階に築造された中規模古墳。

一般に、猫塚古墳と呼ばれます。

 

奈良市佐紀町に所在。

 

 

■佐紀猫塚古墳

古墳時代前期後半、4世紀後半築造。

西向きの前方後円墳。

墳丘長120m。

 

奈良時代に墳丘が著しく改変され、もはや原型を留めていません。

 


 

前方部南西角付近。

 

墳丘西側、前方部中央付近。

 

1953年(昭和29年)土取りに伴う緊急調査を実施。

 

前方部竪穴式石室は全長4.6m、幅1.28m。

割竹形木棺を安置。

 

 


墳丘北西側全景、前方部北西角付近。

 

 

1983年離れた古墳北側にて粘土槨を検出。

外提上の小陪塚と想定される埋葬施設。

 

猫塚古墳本体からみれば従属的位置にありながら、副葬品が豊富であったことから、血縁関係は異なるものの、首長権を補完する重要人物であったことが伺えます。

 

 

4世紀あたりの古墳時代の話です・・・・・

 

 

■猫塚北1号棺

古墳時代前期後半代、猫塚古墳と同時期に築造。

 

前方部北側付近。

 

 

 

8世紀あたり奈良時代の話に移ります・・・・・

 

 

松林苑は729-745年にかけて、続日本紀に散見される平城宮離宮の苑地。

猫塚古墳は松林苑の推定範囲の南西隅付近。

 

西側外堤を西面築地に改変して西限、南側外堤を南面築地に改変して南限。

周濠を州浜のある苑池、墳丘を築山として利用されました。

 

1972年松林苑跡庭園遺構を検出。

 

周濠外側、東西10mの斜面を埋めて緩やかな勾配とし、礫敷の洲浜としたことがわかっています。

 

 

 

墳丘北側全景。

 

9世紀、平安時代の話・・・

 

835年(承和2年)超昇寺(超勝寺)創建。

 

1459年(長禄3年)戦乱により衰退。

江戸時代には堂一宇。

明治初年廃仏毀釈により廃絶。

 

当地に小字寺畑の地名が残ることから、寺域であったのでしょう。

 

 

後円部北側。

 

後円部北端付近を東側より。

 

後円部中央付近を東側より。

 

後円部南端付近を東側より。

 

後方の山林が後円部南東側。

 

右奥後方の山林が後円部南側。

 

丸塚、丸山と呼ばれる円墳は国内に数え切れず存在します。

 

分類上、地名を冠するのは神社その他と同じ事です。

衛門戸[よもんど]って、歴史を感じる素敵な字名ですね。

 

奈良市佐紀町衛門戸に所在する古墳です。

 

 

 

■衛門戸丸塚古墳[よもんどまるづかこふん]

ボウズ山。

4世紀後半、古墳時代前期後半築造。

径45-50mの円墳ですが、現状は半壊。

 

 

墳丘東側。

 

墳丘北側の道を北東側より。

 

1913年(大正2年)鉄道建設に伴う砂利採取により損傷。

未調査ながら粘土槨から大量の遺物が出土し宮内庁所蔵。

 


 

瓢箪山古墳より見た墳丘北側。

 

 

墳丘北西側。

 

■石標

史跡 瓢箪山古墳西口

 

上吉堂池より見た墳丘北西側。

宮内庁治定の狭城盾列池上陵陪塚は、湟内陪冢、飛地陪冢4ヶ所(い号、ろ号、は号、に号)と計5ヶ所。

 

 

■域内陪塚

湟内陪冢。2段築成の方墳。南北35m、東西28m。

後円部西側外提に接する無名の方墳。

 

墳丘北側。

 

墳丘北西側。

 

 

墳丘西側。

 

 

墳丘南西側。

 

 

■神功皇后陵飛地い号

円墳。径14m、653.92㎡。

 

墳丘南東側。

 

 

墳丘北東側。

 

 

墳丘西側。

 

 

■神功皇后陵飛地ろ号

円墳。南北33m、東西27m、1165.85㎡。

 

墳丘北東側。

 

 

 

墳丘南東側。

 

 

墳丘南側。

 

墳丘西側。

 

 


■神功皇后陵飛地は号

不整丘。1319.41㎡。古墳か否か不明。

 

墳丘北側を西より。

 

墳丘北東側。

 

 

 


 

墳丘東側。

 

 

サボテンに綺麗な花が咲いていました。

 

 

墳丘南東側。

 

ガクアジサイが目を引きます・・・・

 

墳丘西側は住宅の背後。

 

こちらも住宅背後が墳丘。

 

墳丘西側には、近鉄京都線沿いの高い木立が手前に立ち並び、墳丘付近を目にすることができません・・・・・

 

 

 

墳丘北西側を神功皇后陵より眺めています。

 

■神功皇后陵飛地に号

不整形。1779.58㎡。自然丘陵の南西側斜面。

 

墳丘南側。

 

■大社大神参道

とても細い参道ですが、車の脇を通り右奥に社地があります。

その背後に存在するのが、陪塚に号。

 

 

墳丘南西側。

 

墳丘南側道路を西より。

 

墳丘西側道路を南より。

 


 

 

墳丘西側。

 

墳丘北東側。

 

墳丘東側。

 

墳丘南東側。

 

神功皇后の陵狭城盾列池上陵に治定されている五社神古墳です。

 

神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后で、自ら新羅に遠征したと伝えられています。

 

 

■制札

 

仲哀天皇皇后神功皇后 狹城盾列池上陵

 

 

墳丘南西側より参拝します。

 

 

 

 

 

拝所が見えてきました・・・・

 

 

 

拝所南西側。

 

南西側には低い柵がありますが、その左脇より乗り越え可能な状況。

 

拝所正面。

 

■一般拝所

 

陵名・陵号:狭城盾列池上陵[さきのたたなみのいけのえのみささぎ]

墳形:前方後円

 

 

■特別拝所

 

■陵号標

神功皇后狹城盾列池上陵

 

拝所内に石燈籠がずらり並んでいるのは珍しい光景・・・・・

 

1863年(文久3年)五社神古墳を神功皇后陵に治定。

1745-1790年(延享2-寛政2年)奉納の石燈籠8基が、佐紀陵山古墳から五社神古墳の拝所内へと移設。

 

拝所西側。

 

拝所南東側。

 

 

■見張所

 

 

 

こちらは何でしょう。旧番小屋?

 

 

 

南東側の参拝道。

 

 

 

拝所東側。

 

 

南東側より望んだ墳丘、南側周濠。

 

 

 

南側周濠南東角。

 

 

 

南側周濠を東より。

 

■渡土手

南東角の渡土手。

 

 

 

■御前池

 

御前池越しの前方部東側。

 

佐紀盾列古墳群の中では最も巨大、全国12番の規模。

佐紀盾列古墳群西群、佐紀三陵の一基。

 

後円部墳頂に鎮座していた五社神の祠により命名。

 

 

古墳名・遺跡名:五社神古墳[ごさしこふん]

所在:奈良市山陵町

墳形:前方後円墳

被葬者:不明

考古学上はヤマト王権の大王墓。

 

墳丘長(全長)267-275m

後円部直径(東西)190m、高さ27m、墳頂径40m、4段築成。

前方部幅150m、長さ115m、高さ20.5m、3段築成。

くびれ部幅110m。

西側造出長さ28m、幅83m。

 

墳丘外表には葺石、埴輪を検出。

鍵穴型周濠には6ヶ所の渡土手があり南北に階段状の高低差。

元来は周濠を伴わず、現在巡る周濠は後世に形成。

周庭帯はあったとされています。

 

4世紀末葉-5世紀初頭、古墳中期初頭築造。

佐紀盾列古墳群の中では最終段階の大型古墳。

 

1849年盗掘時の資料よれば、

埋葬施設は竪穴式石室、内部に長持形石棺。

 

2003年裾野補修工事に伴う発掘調査。

2004年調査時に墳丘一部形状変化を確認。

2008年学会による立入調査実施。

 

■御前池

御前池北東側から望む前方部東側。

 

■渡土手

東側中央の渡土手はくびれ部付近に接続。

 

■歴史的風土山陵特別保存地区指定案内板

 

 

■中ノ池

中ノ池東側より後円部東側を望みます。

 

 

 

中ノ池北東側。

 

墳丘北側遠景。北側には近寄れません。

 

墳丘北西側というより、後円部外提及び域内陪塚付近。

 

 

後円部を西側より望んでいますが、全く見えずほぼ後円部外提及び域内陪塚付近。

 

 

 

このあたりまでは後円部外提及び域内陪塚付近。

 

西側の前方部が見えてきます。

 

■歴史風土特別保存地区

 

西側のくびれ部付近。

 

外提南西角。

 

外提南西角の堤上部。

 

南西側周濠南西角。

 

墳丘南西側。

 

南側外提に沿って、東へと進みます。

 

■渡土手

大規模な斜面。

 

 

渡土手上部通路。

 

右には高い水面を湛え・・・・・

 

左のかなり低い水面との調整。

 

南側周濠の外提に沿って東へと向かいます。

 

 

拝所北西へと辿り着き・・・

 

南側正面にはこんもりと山陵八幡神社社叢。

 

あーなるほど!

拝所左側は原則立入禁止なのでしょうけど、致し方なく出口扱いに。

幕末までは永らく神功皇后陵と考えられていました。

 

1875年(明治8年)垂仁天皇皇后、日葉酢媛命陵[ひばすひめのみことのみささぎ]に治定替えし修治が行われています。

 

 

 

墳丘南西側。

 

拝所入口が見えてきます・・・・・

 

■拝所

拝所は墳丘南側、前方部正面に設置されています。

 

 

南側には八幡神社境内が迫っているので、拝所への入口は西側となります。

 

■制札

 

垂仁天皇皇后日葉酢媛命 狹木之寺間陵

 

 

 

 

■一般拝所

 

■特別拝所

 

■陵号標

垂仁天皇皇后 狹木寺間陵

 

陵名・陵号:狭木之寺間陵[さきのてらまのみささぎ]

墳形:前方後円

 

 

日葉酢媛命(生年不詳-垂仁天皇32年)は垂仁天皇皇后。

垂仁天皇(崇神天皇29-垂仁天皇99年)は第11代天皇。

 

 

■石燈籠

狹木寺間陵灯

 

 

船着場でしょうか・・・・・

拝所は墳丘に接続しておらず、周濠にて隔てられています。

 

拝所より東側外提へは進入できません。

 

拝所南側には八幡神社社叢が迫ります。

 

 

 

■傾斜量図

 

前方東西両側に大きな渡土手が設置されているのが特徴的。

 

■等高線図

2023年佐紀古墳群航空レーザー測量調査より。

 

 

1916年(大正4年)盗掘事件。

    埋葬施設、副葬品の記録を保存し、古墳を復旧。

 

後円部頂上中央には東西15.8m、南北16.5m、高さ0.7mの方形壇。

方形壇中央の最高所には、蓋[きぬがさ]形埴輪(高さ1.5m、幅2m)があり、屋根形石、盾形、家形、そして円筒埴輪列を巡らせていました。

 

■蓋形埴輪(複製)

橿原考古学研究所附属博物館蔵。

Wikipediaより。

 

佐紀瓢箪山古墳より見た墳丘東側。

 

墳丘南東部から東側に近寄れないところがストレス・・・・

 

後円部東側。

 

佐紀盾列古墳群の西群、佐紀三陵の一基。

 

古墳名・遺跡名:佐紀陵山古墳

所在:奈良市山陵町

墳形:前方後円墳

被葬者:不明

 

全長203-207m、三段築造。

後円部直径131m、高さ20-21.3m。

前方部幅87m、高さ12.3m。

 

葺石、円筒埴輪があり、3つに仕切られた水位の違う周濠が巡っています。

 

4世紀後半-5世紀前半、古墳前期末葉築造。

佐紀盾列古墳群の中では、最も古い築造です。

 

考古学上は地域の有力な大王墳墓。

同時代の相似形の古墳が畿内各地に見られることから

広域な領域支配の存在が考えられます。

 

 

ようやく後円部北東側に近接する住宅道路。

 

 

墳丘北側。

 

墳丘北西側。

 

墳丘北側付近を西より。

 

墳丘北西側にある立入禁止の入口。

 

 

 



■第二濠

西土手より北にかけて墳丘西側に伸びる周濠。

 

 

 

■渡土手

陸橋、渡土提。

削出からの盛土により形成。

東側最大長33.64m、下端幅16.09m。

西側最大長27.79m、上面幅8.77m、下端幅18.28m。

2018年立命館文學 古墳の渡り土手 近畿地域を中心として

 

コの字形の墳丘南側が第一濠、西側が第二濠、東側が第三濠。

 

 

西渡土手北側。

 

■西渡土手

 

柵の奥・・・

 

佐紀陵山古墳の渡土手は、佐紀陵山型と分類されます。

佐紀陵山型は、左右対称の2~4の渡り土手からの2、3 段の水面の異なる濠を持つ形状。

 

■第一濠

東西渡土手より南側を繋ぐ周濠。

 

南側周濠を西より。

 

南西側。

 

■宮内庁書陵部畝傍陵墓監区佐紀部

 

 

 

 

 

宮内庁管理の陪塚として、成務天皇陵後円部北から北東にかけて3基あります。

 

 

 

 

墳丘への唯一の進入路が墳丘北西側にあります。

 

 

■陪塚い号

四方を住宅に囲まれています。

陵形:方墳

規模:一辺35m

 

墳丘北西側。


 

住宅地背後に見える墳丘北面。

 

こちらも住宅地背後に見える墳丘北面。

 

墳丘東側。

 

墳丘南側。

 

■陪塚ろ号

方墳が東西2基があるようですが、繋がっているのか詳細不明。

陵形:方形2基

規模:一辺25m四方、30m四方

面積:1,766.40㎡

 

東側方墳の南面。

 

脇の廃屋。


 

西側方墳の南西角。

 

西側方墳の北西角。

 

西側方墳の墳頂を北面より。

 

東側方墳を北西側より。

 

■陪塚は号

未調査。3段築成で墳頂部に広い平坦面を持ちます。

墳形:長方丘

規模:長辺70m、短辺35m

面積:1,414.17㎡

 

墳丘北面。

 


 

墳丘北西角。

 

■歴史の道道標

 

 

墳丘南側は立入禁止区域。

 

 

 

墳丘南西角。

墳丘からちょっと離れた位置にある駐車場・・・・

 

もちろん一般参拝用に開放はされていない宮内庁施設。

 

 

 

 

住宅地用にしてはかなり横幅の広めな石段・・・・・

 

これは・・・もちろん参道のための石段なんでしょう。

 

 

駐車場から石段までの雑草状態の空地?

本来ここが参道であれば

敷石や植栽が整備されていそうなものですが・・・

 

しかし石段は立派な造りとなっています。

 

墳丘南西側。

 

■一号濠

一号濠南西角。

 

 

周濠は南側前方部が幅広くなっています。

 

陵名:狭城盾列池後陵[さきのたたなみのいけじりのみささぎ]

墳形:前方後円

 

 

続日本後紀(855-869編纂)によれば既にこの佐紀石塚山古墳は、神功皇后陵(狭城盾列後陵)と混同されていた事実が判明。

 

843年(承和10年)佐紀石塚山古墳を狭城盾列池後陵に治定。

 

元禄の諸陵探索(1697-1699)時、奈良奉行所は分明陵として報告。

 

1863年(文久3年)陵前南側の濠を埋め、南渡土提を設置し拝所としました。

 

 

■南渡土提

 

 

■制札

 

成務天皇 狭城盾列池後陵

 

 

■御陵兆域原標

 

■一般拝所

 

 

■陵号碑

成務天皇狭城盾列池後陵

 

■特別拝所

 

成務天皇[せいむてんのう]は、AD84年誕生-190年崩御(景行天皇14年-成務天皇60年)、在位はAD130-190年(成務天皇元年-60年)。

 

107歳崩御とされ、実在性の低い天皇に挙げられます。

 

 

拝所南西側。

 

拝所南東側。

 

■三号濠

拝所東側は二重濠のような様相。

濠と言うより、かなり浅い庭池のような外濠。

 

 

アヤメ、黄ショウブが咲き誇っています。

 

 

 

■二号濠

二号濠南東角。

 

南側周濠を東より。

 

 

墳丘東側には遊歩道・・・

 

前方部南東側。

 

右手(東側)に並ぶ佐紀陵山古墳(垂仁天皇皇后日葉酢媛命陵)が数十年先に築造されています。

巨大古墳がこれほどまでに近接するのは珍しい配置。

 

 

成務天皇陵東側くびれ部に食い込むように横並びする日葉酢媛命陵後円部。

 

■歴史の道道標

 

 

成務天皇陵後円部北東側。

 

 

成務天皇陵後円部北側と二号濠。

 

 

■北渡土提

後円部北西側の堤。

 

 

墳丘西側へ向けて低地が広がります。

 

後円部頂上西側に高さ2mの小丘があります。

これは過去3回にわたる盗掘のため・・・・

 

1063年(康平6年)興福寺僧静範らの盗掘で16名を配流。

   その後、陵修復、宝物返納。

1634-53年(寛永11-承応2年)里人が採石中誤って石棺を掘り出しました。

   棺内に鏡、刀剣があったので届け出。

   本多政勝は石室復旧を行わず埋め戻させました。

1852年(嘉永5年)奈良奉行所が勾玉類の盗掘犯を捕え、盗掘坑を復旧。

   盗品は月輪陵内に埋納。

 

 

埋葬施設は竪穴式石室で長持形石棺。

副葬品として鏡、剣、玉の出土の伝承があります。

 

 

後円部西側。

 

佐紀盾列古墳群の西群、佐紀三陵の一基。

 

古墳名・遺跡名:佐紀石塚山古墳、石塚山

所在:奈良市山陵町

 

4世紀後半、古墳前期末葉築造。

 

全長218.5m、三段築造。

後円部直径132m、高さ19-23m。

前方部幅121m、高さ16m。

 

葺石に覆われた光景から石塚の命名。埴輪検出。

 

 

西側くびれ部。

 

文久山陵図によれば、くびれ部に造出のような張出しが見られますが・・・

1994年(平成6年)調査時の測量によれば、造出は確認できませんでした。

 

前方部西側。

 

 

前方部南西角。