コロナ禍で際立つ〈独学のすゝめ〉 ~ヨコハマトリエンナーレ2020雑感~
須々木です。
先日、現在開催中のヨコハマトリエンナーレ2020の全会場を回ってきました。
例によって、思ったことを書き留めていこうと思います。
好き勝手書いていきますが、素人のメモ書き程度の内容なので、そのつもりで。
さらに言うなら、ほぼ自分向けのメモ書きです。
偉そうに語っているところは、寛大な心でお願いします。
なお、「そもそもヨコハマトリエンナーレとは?」という人は、以下のページを先に軽く見ておくと良いです。
● 横浜トリエンナーレについて (公式サイト内)
● 横浜トリエンナーレ (wikipedia)
僕は、第4回展(2011年)から毎回見ているので、今回の第7回展(2020年)で4回見たことになります。
このブログでは、第5回展(2014年)のとき、そこそこガッツリ書きました。
他の回については、遊木が書いているものがあるので、興味があればそちらもどうぞ。
《当ブログ内のヨコハマトリエンナーレ関連過去記事》
▽ ヨコハマトリエンナーレ (2011-09-29 by aki)
▽ “忘却”の先に ~横浜トリエンナーレ2014雑感~ (2014-10-27 by sho)
▽ ヨコハマトリエンナーレ感想①現代アートにおける作品と空間の矛盾 (2014-10-31 by aki)
▽ ヨコハマトリエンナーレ感想②アートの定義 (2014-11-01 by aki)
▽ トリエンナーレ2017感想~1=1ではもはや満足できないアート展~ (2018-02-15 by aki)
まず、今回のトリエンナーレで特徴的なのが、「テーマ」から展覧会を構想する(一般的なやり方)のではなく、オープンな複数の「ソース」を出発点とする方法をとっているという点です。
詳しくは、実際に「ソースブック」を見て欲しいのですが、ざっくり言えば、今回の展覧会の舵取りをするアーティスティック・ディレクターが提示したいくつかのテキストを参照し、議論を交わしアイデアを共有する中で、全体を形作っていくというもの。
土台の組み方から、今回のトリエンナーレは違っているので、これが最終的にどのような形となるのかは、会場に行く前からかなり興味をひかれました。
ところで、公開されている「ソースブック」を読むと分かってもらえると思いますが、そもそも関係者の読解力の高さに驚かされます。
これを読み込んで議論してモノをつくっていくのか・・・と。
そもそも、どんな分野でも、一定以上の存在感を放つ人は、大前提として高い読解力を持っている気はしていましたが、アート分野でもそのように感じる場面は多いです。
今回のトリエンナーレのタイトルは、
ヨコハマトリエンナーレ2020
「AFTERGLOW―光の破片をつかまえる」
(英題: Yokohama Triennale 2020 “Afterglow”)です。
タイトルに込められた意図については、サイトを見て欲しいのですが「光の破片をつかまえる」力の一つが、読解力なんだろうなとは思います。
読み解くべき対象は、テキストだけとは限りませんが。
以下、会場の作品をいくつかご紹介(敬称略)。
なお、サイズや配置的に写真で全体像を伝えることが困難なもの、動的なのでそもそも静止画像ではどうしようもないものが大半なので、その点はご了承を。
あと、作品説明もここでするのは大変なので、興味があれば現地に行ってください(会期は10月11日まで!)。
そもそも、誰かに説明されるというよりは、自分で見て感じるべきものですし。
では、メイン会場のひとつ、横浜美術館の展示作品から。
「予期せぬ共鳴」(イヴァナ・フランケ)。
MARK IS側の「美術の広場」から横浜美術館を写したものですが、建物全体をプリントメッシュで覆うという大掛かりな作品。
毎回、トリエンナーレでは美術館前の空間に何か作品がありますが、今回は美術館の建物自体を組み込む形に。
入ってすぐの空間。
天井から無数のガーデン・ウィンド・スピナーが吊り下げられています(回転し続けているものも多いので、実際に見ないと雰囲気は分かりにくいと思います)。
見た目は綺麗ですが、中には不穏なモチーフも紛れ込んでいます。
竹村京の作品群。
思い出の詰まったさまざまなモノを「蛍光シルク」を使って修復しています。
いずれも独特な光を放っていました。
発想としては伝統的な修復技法である金継ぎに通じますが、ノーベル賞を受賞した緑色蛍光タンパク質の遺伝子を導入した蚕が吐き出した糸を使用することで、現代的な種々のテーマも内包しているのでしょう。
レボハング・ハンイェの作品。
その場で流されていた動画作品とセットです。
「つながりの啓示―Nagula」(ロバート・アンドリュー)。
上部のレールを行ったり来たりしながら、ノズルが壁に吹き付けられていた土の層を洗い流し、会期中、徐々に言葉が現れてきます。
「地球に身を傾ける」(ローザ・バルバ)。
スクリーンには、放射性廃棄物貯蔵管理施設に関する不穏な雰囲気の映像が流れています。
また、映写機自体も絶妙に不安感を煽る特徴的な挙動をしています。
「アルゴス」(キム・ユンチョル)。
ガイガー・ミュラー管がミューオンを捉えて光ります。
「クロマ」(キム・ユンチョル)。
常に点灯しているわけではありません(画像は点灯中のもの)。
エリアス・シメの作品群。
離れて見ると、落ち着いた色合いの抽象画のように見えますが、接近して見ると・・・。
主に、パソコンを構成する様々なパーツを大量に使用してつくられています。
4枚目の作品はかなり巨大ですが、パソコン内の配線を大量に使っています。
「からみあい」(エヴァ・ファブレガス)。
腸をモチーフにした作品です。
腸というのは、何十億ものバクテリアが生息する一つの世界であり、数百万ものニューロンが存在する巨大な神経ネットワークを有する器官でもあることに着目し、思考のきっかけを与えてくれる作品です。
見た目も特徴的ですが、感触もかなり癖になります。
「ジャイアント・ホグウィード」(インゲラ・イルマン)。
200年近く前のヨーロッパで、珍しい観賞用植物として一世を風靡したそれは、環境のあちこちに広がり、さらに実は炎症を引き起こす樹液をもっていた。
はじめ「ありがたい」と思っていたのが、実は・・・というパターンは、人類の歴史の中で幾度となく繰り返されてきたストーリーでもあります。
「宇宙工芸船(金星)」(オスカー・サンティラン)。
金星と同じ成分の土で作られた作品。
宇宙に関して重要な情報を得るべく、金星が太陽の前を横切るという珍しい天体現象に各国の天文学者が注目した1874年。
観測のため各国から日本に観測隊がやってくる中、メキシコ観測隊は横浜に入港しました(紅葉坂にも「金星太陽面経過観測記念碑」があります)。
地球と金星と太陽を繋ぐ現象が、横浜と世界の国々を繋ぎ、過去と現在まで繋ぐという。
青野文昭の作品群の一つ。
傷ついた家具などを材料とし、補い合うことで新たな作品にしています。
綺麗に修復するわけではなく、歪な形状をそのまま残し、別の形態を目指しています。
「動物故事」(ジャン・シュウ・ジャン)。
不思議な世界を垣間見せるストップ・モーション・アニメーションと実物展示。
画像は、美術館の旧レストラン厨房を活用した展示物。
動画作品を鑑賞し、さらに奥に進むと、このようになっています。
続いて、もう一つのメイン会場、プロット48へ(横浜美術館から徒歩6分ほど)。
こちらの会場は、2019年5月まで横浜アンパンマンこどもミュージアムとして運営されていた暫定施設を活用したものです。
場所は、みなとみらい48街区。
なお、アンパンマンこどもミュージアムは、同じくみなとみらいの61街区(マリノスタウン等の跡地)へ移転&開館しました。
プロット48は、主に北棟と南棟で作品を観覧できます。
というわけで、南棟から。
アモル・K・パティルの作品群。
連結された4つのカセットプレイヤーも、他の作品たちも、常に動作しています。
画像2枚目、3枚目については、写真では何がどう動いているのか想像もできないと思いますが、奇妙に生物的に蠢いています。
「マルチチュード」(アンドレアス・グライナー)。
容器の中は、ただの水ではなく、非常に小さな夜光虫(単細胞藻類)がいます。
日中に光合成をし、暗闇で発光する特徴を持ちます。
パフォーマンスのときは、1枚目の画像のとおり、ピアノの上に配置され、照明を完全に落とした暗闇の中、演奏の弦の振動に呼応して淡い光を放ちます。
「ヴォルカナ・ブレインストーム(ホットラーバ・バージョン)」(エレナ・ノックス)。
昨年の黄金町バザールで非常に強い印象を受けた作品が、ついにヨコハマトリエンナーレへ。
ちなみに、そのときのブログはこちらを参照。
この作品、かなり説明が難しいので、アーティストのサイトのページでも適当に見てください(だいたい英語ですが、下の方に日本語のチラシっぽいものがあります)。
雑に言えば、「エビのためのポルノ」を追求した作品です(?)。
ちょっとこの作品だけは、会場の作品解説パネルをそのまま掲載しちゃいます。
たぶん読んでも意味不明だと思いますが、現場で見てもなかなかインパクトがあります。
かなり広いスペースを使い、かなりやりたい放題やっています。
真面目に突き詰めていることはわかるけれど、同時に遊び心も果てしなく。
結果、「どうしてこうなった・・・」と言えるものが現れるという。
アリュアーイ・プリダンの作品群。
古布などを使ったものです。
南棟を出て・・・
「バランシング・アクトⅢ」(ジョイス・ホー)。
南棟と北棟の間の中庭空間を区切るような金属製の隔たり。
しかし、その土台はロッキングチェアのようになっていて、押せば簡単に揺れます。
ここから北棟。
「プラネット・ブルー」(ラス・リグタス)。
現代アートの展覧会では、時々、強めの狂気を感じることがありますが、今回はこの作品がそれに当たると思いました(エビも凄かったが)。
この場にあるような物体と、ライブストリーミング配信がセットになった作品です。
「1、2、3 ソレイユ!(2020)」(ハイグ・アイヴァジアン)。
白と黒のコントラストが目を引きますが、白はチョークの白です。
フランスにおいて1998年のサッカーワールドカップ以降、警備体制が大きく変化したことを題材としています。
群衆、スペクタクル、権力、監視など。
個々の作品については、こんな感じで。
他にもいろいろありましたが、キリがないので。。
※ Instagramにも画像をアップしています。適当にご覧あれ。
そして、ここから先は、さらにまとまりなく、全体を通して感じたことを羅列していきます。
「思いつくままに」という方針なので、本当にまとまっていません。
ご注意あれ。
「テーマ」でなく「ソース」で構築された展覧会という特徴は、随所に見られたように思います。
その意味で、アーティスティック・ディレクターの色は確かに出ているなと。
なお、個人的に非常に面白いと感じた第5回展(2014年)でも同様の感覚がありました。
また、アーティスティック・ディレクターが、今回、初めて日本人ではありませんが、非欧米のインドから呼んだというのは良かったと思いました。
現代アートに限らず、「欧米こそ、お手本である」みたいな刷り込みが日本に蔓延っている気がしますが、この発想が場合により発想や感性の自由度を下げているようなところも感じます。
視野を広げてこその現代アートだと思うので、現代病とも言える視野狭窄に抗うという意味でも、納得のチョイスだと思いました。
賛否を問わず現代のキーワードとして存在感を増す「多様性」という点においても、インド的感性というのは、何らかの刺激や気付きを与えるもの。
インドのカオス的なまでの多様性、その清濁は、今回のトリエンナーレの根底にあったようにも思います。
そして、文化の玄関口たる港町としての歴史を重ねてきた横浜との親和性も感じます。
もっとも、横浜のアート界隈は、アジア系にかなり振れている気がしなくもないので、今後のトリエンナーレで海外から再び呼ぶ場合、欧米系なのか非欧米系なのか、少々気になるところではあります。
今回のトリエンナーレでは、欧米的価値観に対し結構批判的に捉える雰囲気を感じるところがあったので、この路線の継続か、揺り戻しでバランスをとるのか。
横浜にアジア系の文化が混在しているのは事実ですが、開国させたのは欧米であり、まず欧米文化の流入があったのもまた事実。
どちらも横浜の重要な側面だと思うので、あまり片方に寄るのもいかがなものかとは思わなくもないです。
今回のヨコハマトリエンナーレに、「テーマ」は設定されていませんが、「ソース」を読むと、そこにいくつかのキーワードがあることに気付きます。
「独学」「発光」「友情」「ケア」「毒」の五つです。
観覧ガイドなどにも書かれていますが・・・
「独学」: 人に教えられるのではなく、自ら学ぶこと
「発光」: 学んで光を外に放つこと
「友情」: 光の中で友情を育むこと
「ケア」: 互いをいつくしむこと
「毒」: 世界に否応なく存在する毒と共生すること
アーティスティック・ディレクターから「ソース」が発表されたのは、昨年のことです。
しかし、まるでコロナ禍を予言していたかのような、不気味なまでの時代性を感じさせます。
コロナ禍はまだ収まっていませんが、それでもなお、というよりは、だからこそ、今やるべき展覧会だったという気がします。
国際的な展覧会で、先陣を切ってリアルに客を入れて開催した意義は、十分あると思いました。
(もちろん、会場での対策もかなり厳重でした)
国際的イベントでありながら、当然、普段と比べて外国人の姿が見られなかったのは、少々勿体ないと思いましたが、こればかりはしょうがない。
これが最善手だと言えるものだったと思います。
ところで、話が変わって、少々マイナスな点も触れたいと思います。
ここ数年感じることが多くなってきましたが、動画作品が多い・・・。
しかも、長い動画作品が増えてきました。
以前は、基本的に動画作品もすべて見ていましたが、今回は数時間に及ぶものもあり、現実的に見ていられないものがいくつもありました。
とは言うものの、実際には、長さはそれほど重要ではありません。
どちらかと言うと、中身に思うところがあります。
素人だからそう感じるだけかもしれませんが、単なる記録映像、単なる証言集のようなものが延々と続くタイプのものが増えてきたように思えますが、これらはアートの範疇なのだろうかと、そこそこ疑問に思いました。
もう少しうまくまとめれば、NHKでドキュメンタリー番組として放送できそうなタイプの作品も複数ありました。
社会における矛盾、問題提起などの題材が複数ありますが、これらは、映像の一部を見て何かを感じればそれでOKというより、しっかり見られてこそ価値があるものなのではないかと思います。
わざわざ字幕までつけてつらつら語っている映像は、展覧会の会場ではなく、YouTubeに置いた方が、余程有効に機能するのではないかと。
ある程度の人数が入るシアターで上映されているわけでもないので、会期中、それをしっかり見る人がどれだけいるのか。
多くの人に見てもらうことを放棄しているようにも感じられて、なかなかポジティブな印象は持てませんでした。
いったい何のための作品なのか。
この流れが、一過性のものであって欲しいなと思う次第です。
もちろん、展覧会にあってこその動画作品(または動画を活用した作品)もありましたが。
今回もインパクト大の「ヴォルカナ・ブレインストーム」について。
昨年の黄金町バザールで見ていたわけですが、二つの異なる会場で観覧すると、個人的には、黄金町という場の方が、より淫靡な感じが引き立って良かったと思いました。
今回のトリエンナーレではじめて知って「なんじゃこりゃ」と思った人にこそ、黄金町バージョンを見てもらいたかった。
残念ながら無理な話ですが。
ただ、より明るく開けた今回の会場においても、やり方がぶれないのは非常に良かったと思いました。
やはり強かった・・・。
ヨコハマトリエンナーレと黄金町バザールを比較すると、「場」が持つポテンシャルの差を感じる部分もあります。
横浜美術館という「場」に対して、アーティストやキュリエイターが扱いづらいのかなと思うことがあります。
逆に、黄金町は「場」がもっているバックグランドが超強力なので、扱いやすい気はします。
黄金町の場合、そこに作品を置くだけで、意図してるしていないを問わず、作品が「場」の記憶を吸収し連結し有機的に広がっていきます。
一方、横浜美術館は、バブル期の再開発に端をなした、整えられた世界の整えられた美術館として、多層的な意味を背負うだけの懐の深さはまだ感じられない。
アートには清濁両面が必要だと思いますが、横浜美術館は、なかなか「濁」を置きにくい。
これは、他の一定規模以上の美術館に広く共通することかもしれませんが。
この点は、今回、プロット48の「ヴォルカナ・ブレインストーム」を見て、より強く感じたところです。
いつの時代においても、アートにはそれなりの存在価値が生じる。
では、この時代においてはどのような存在価値があるのか。
個人的には、「すっきり理解できないものを理解できないまま受け入れる思考の訓練」として重要な意義を感じます。
GAFAが国家を凌いで巨大なシステムを生み出す現代において、データはたえずカテゴライズされ、分かりやすさの正義の元、人々の前に並べられる。
プログラムの都合は、生身の人間の思考回路にも影響を及ぼし、現代人は曖昧さに対する許容が退化してきたように思えます。
そのような状況において、アートは、曖昧さを失わない。
アートの鑑賞は、曖昧さの許容訓練とも思えます。
ある一つの課題に対して、「絶対的な解」があるように感じてしまう現代の病に対するリハビリとも言えます。
時代や出自など、膨大なファクターにより鑑賞者の差が生じ、受け取り方の差が生じることは必然的であり、それを型に嵌めようとすれば、破綻が生じるのもまた必然。
にもかかわらず、絶対的な何かを信じ掲げ、時に喧嘩を売り強要し、殊更に嘆き・・・なぜ、これ程までに明確な罠に自ら突っ込んでいくのか。
かつては、日常はより曖昧で適当だったのだろう。
地球には多くの未踏の地があり、未解明の概念に拘っていれば、社会は回らなかった。
しかし、科学の進歩は、曖昧さを潰していき、受け身の人々は、曖昧さから離れて生きるようになり耐性を失った(「死」が身近なものでなくなったのと同様)。
今回のヨコハマトリエンナーレは、「ソース」を出発点としました。
括るものがなければ、展覧会は単なる個の集合であり、単なる作品の陳列であり、それ以上の価値は創出されない。
よって、何か括るものが必要となりますが、それを「テーマ」ではなく「ソース」としたのが肝です。
「テーマ」というのは、ある意味、それを定めた時点で、ゴールの一歩手前にいるとも言えます。
科学者たちも、良いテーマに出会えることの重大さは身に染みている。
「これだ」と思える研究テーマとの出会いが、その後の研究者人生を大きく左右します。
しかし、「ソース」となると、そこから各個人がどのような「テーマ」を見出すかという時点で大きな幅が生じます。
この「幅」こそが必要であり、故に、曖昧さに不慣れになった現代に対し、アートの存在意義をまざまざと感じさせる優れた手法だと感じました。
今回、各作品に添えられたキャプションは、かなり特徴的でした。
非常に詩的であり、意識的に解釈の幅を残しています。
「啓蒙」ではなく「独学」を推すというメッセージを端的に感じさせるものであり、面白い試みであり、新鮮なものでした。
一方で、これはこれでやはり啓蒙のようにも思えました。
作品解釈を明示しない代わりに、アートの難解さや曖昧さを明示し、味わい方を誘導されているようにも思えました。
「よく分からないままで正解だ」と敢えてレクチャーされている感覚は強い。
先回りして挫折の原因を丁寧に取り除いた感じでもあります。
手取り足取りの誘導は、現代的なUIの概念を思わせますが、アートの鑑賞シーンにおいて、賛否は分かれるかもしれないと感じました。
それで、結局「テーマ」と「ソース」の差は何なのか?
意地悪な言い方をすれば、「ソース」とは、複数の「テーマ」を何重にもオブラートに包み、敢えて分かりにくくしたものなのか。
「ソース」の選択は、アーティスティック・ディレクターの中にある潜在的「テーマ」に基づくはず。
とすると、「ソース」を掲げても「テーマ」の不在にはならない。
遍在であり混在である。
「ソース」の存在は、むしろ「テーマ」の解釈を縛っている印象も受ける。
長いテキストは、端的なワードより、余白を潰し、明確に定義する力を持つ。
今回のトリエンナーレの「ソース」は、乱雑に動く羊の群れに投入された、牧羊犬のようなもの。
極めて統一の難しい領域に、秩序をもたらしているようにも感じました。
「テーマ」(題目)だけでなく、そこにストーリーを付加する手法は、聖書的でもあります。
読み解くことで、思考や行動に枠組みが与えられる。
「ソースブック」は、今回のトリエンナーレにおける「聖書」として機能しているのでしょう。
そして、「聖書」は、啓蒙の象徴とも言える。
故に、個人的には、「独学」とは多少の距離を感じます。
なお、横浜のアート界隈だと、個人的な感覚で、横浜美術館は「啓蒙」のイメージ。
黄金町やBankARTは「独学」のイメージです。
これはなかなか皮肉なことで、横浜美術館については、今後、何らかのアップデートを勝手に期待したいところです。
すでに触れた通り、「場」として、なかなか扱いにくい気のする横浜美術館ですが、改めて前々回のトリエンナーレ(2014年)のときは、見事だったという思いを新たにしました。
この特性をすべて受け入れた上で、考え得る最高の形に整え直していたと思います。
今回のトリエンナーレも、つくり方、特にその発想は面白かった。
しかし、横浜美術館はそう簡単に手懐けられないなと。
「ソース」で掲げられている内容は、まるでコロナ禍とそれに伴う社会や個人の変容を予見していたかのようで、この2020年にやる展覧会として、本当に見事に合致しています。
だからこそ、何かもったいなさを感じてしまう。
何か、もう一歩が欲しかった。
間違いなく行って良かったし、いま見るべきものだと思ったし、たくさん刺激をもらいましたが、同時に、どこかにモヤモヤが残る感覚。
とはいっても、もしかして、これこそが「AFTERGLOW」なのかもしれませんが。
「ソースブック」にもある、アナログテレビの放送終了後のホワイトノイズの話。
ビッグバンの名残である宇宙マイクロ波背景放射の電磁波、その「光の名残」を意識せずに見せられていたわけですが、この電磁波が宇宙に描くゆらぎと同様、壮大なスケールで広がるモヤモヤとの付き合い方を、各々が考えていく必要があるのでしょう。
sho