「未来と芸術展」感想~SECTION5: 変容する社会と人間
どうも遊木です。
もう6月も残り数日……驚きです…時の流れ…怖い…。
さて、今回は森美術館「未来と芸術展」の感想その⑤です。ついに!ラストです!長かった!
これだけ一つの展覧会について書いたのは、2017年のメディア芸術祭以来ではないかと。
その①冒頭で述べたように、これらの感想はあくまでも私の主観です。見る人によってはまったく違う感想を抱くと思うので、この長かったブログも素人の一意見程度に読み流して下さい。
もしこの記事をきっかけに、アートや紹介作品に興味を持って下さった方がいらっしゃいましたら、是非自分で調べ、考察し、意見を見つける楽しさを味わって頂ければと思います。
①「SECTION1 都市の新たな可能性」についてはこちらからどうぞ。
②「SECTION2 ネオ・メタボリズム建築へ」についてはこちらからどうぞ。
③「SECTION3 ライフスタイルとデザインの革新」についてはこちらからどうぞ
④「SECTION4 身体の拡張と倫理」についてはこちらからどうぞ。
SECTION5 変容する社会と人間
最後のセクションは名前の通り、変容していく社会や人間は、今後どのような問題に直面し、どのようにして新たな価値観や倫理観を築いていくのか、という点に切り込んでいます。
これまでのセクションは分野ごとに特化したパーツのような印象を受けましたが、最後のセクションではそれらを集約し、展覧会名でもある「未来と芸術」という形にまとめ上げた印象です。
技術の進歩によって変容する倫理観、死生観、ものの価値、人のあり方。これらは決して二人三脚で変化するものではありません。大抵は技術の進歩が先行し、だんだんと人間の考え方がそれに追いつき、ようやく日常のものとして受け入れられるケースが多い。そして、そのスピード感の差が、時に個人や社会を混乱させる場合もあります。現在のコロナ騒動で、身に染みた人もいるのではないでしょうか。
このセクションの作品たちは、「旧時代のパラダイムに縋りつくその手は、いつでも放す準備をしておけ」そう訴えているようにも感じました。
未来に向け、価値観の刷新を予見させる作品はいくつかありましたが、そのひとつが《シェアード・ベイビー》です。
本作では「遺伝的に複数の親を持つ子供が実現したら、子育てはどう変化するのか」というテーマをもとに、バイオテクノロジーが家族の定義や子育てにどのような影響を与えるのか、そのあり方をどう変化させるのか、思考実験をしています。
この作品は、ミトコンドリアDNA疾患の治療で、3人の親の遺伝子を引き継いだ子供が生まれたという、2016年のニュースから着想を得て制作されています。世界ではすでに、複数の遺伝情報を持つことが認められている国もあるようです。
実の親が3人いる、というのは今の私たちからすると、なかなか想像できるものではありません。技術がさらに発展し、病気の治療以外でも複数人で一人の子供を持つことが合法化されたら、一体“家族概念”はどうなるのでしょうか。
この作品は、「将来的に家族という考え方が消失するかもしれない」という可能性を提示しているように思えました。もしかしたら、血縁上の親、子、兄弟、姉妹、祖父母、それらの繋がりには何の意味もなくなるかもしれない。生みの親と育ての親が当たり前のように違い、子育ては好む人、そのキャパがある人に任されたり、学校のようなある程度の集団で行うものになるかもしれない。
このような未来の可能性が示されたとき、人々はマイナスの印象を受けるのでしょうか。それとも“アリ”だと考えるのでしょうか。
これは私見ですが、仮に現在の家族概念がなくなったとしたら、今よりも家族関連で苦しむ人が減る可能性はあると思います。育児放棄によって不幸になる子供が減ったり、DVで苦しむ人も、もっと簡単に助けられるようになるかもしれない。働き方も、何かと話題になる男女差が是正され、各々が望む形に落ち着くかもしれない。
一方で、固定された家族の不在=帰る場所がない、と捉えることもできます。己の巣となる場所があやふやな状態で育った場合、アイデンティティの形成にどのような影響を与えるのかは考えなくてはなりません。独立心が強い人間となるのか、逆に、過度に依存心の強い人間に育つのか。そして、幸福度にどのくらいの変化が出るのか。
一見机上の空論のようにも思えますが、技術的に可能になる日はそう遠くない気もします。当然、人間社会には倫理観というものがあるので、そう簡単に我々の日常になるとは思えませんが、パラダイムシフトは何がきっかけに起こるかわからない。常に心のどこかで留めておく論題なのかもしれません。
同じく、ストレートな表現でありながら、未来の価値観について考えさせる作品が《末期医療ロボット》です。端的にいうと人間の死を看取るためのマッサージ器ですが、これは“看取るもののいない人”向けに考えられた作品です。近い将来に広く実用化し、人の死生観にも影響を与えるのではないか、と感じさせるものでした。
今の時代、「孤独死」は決して珍しいことではありません。年々子供の出生率が下がっている現状を考えると、その数は今後も増えていくことでしょう。もしかしたら、“身内に看取られること”が贅沢となる日が来るかもしれない。
この作品の設定は、ロボットが他界する人の腕をさすり、「誰も来られなくて残念だが快適な死を」と慰めながら最期を看取る、というものです。孤独に人生を終えようとしている人へのせめてもの慰めとして、たとえロボットでも傍にいてくれた方が良いのか、という問いかけが含まれています。
私がこの作品を鑑賞した時、まず思い浮かんだ言葉が“死に方のプロデュース”でした。死に方について、現在もある程度の選択肢はありますが、どこか閉鎖的な感が否めません。それは単純に実現できるできないという問題もあるでしょうが、やはり、死を積極的に待つことを不謹慎と捉える人が多いからだと思います。
しかし、技術の進歩によって、個人が望む理想的な最期がより細かい注文も含めて実現可能になったとしたら、その価値観はどう変化するのでしょうか。
今やネットを介して世界中の人と繋がれる時代です。もしかしたら、逆に孤独死という言葉は消え、ネットの向こうの誰かに看取られることが、当たり前になる日が来るかもしれない。もしくは、SAOに出てきたメディキュボイド相当のものが開発され、ヴァーチャル世界内での死を望む人が出てくるかもしれない。物理的な孤独は度外視され、あるいはロボットに一任され、精神的な孤独にのみ配慮された、そんな社会がくるかもしれない。
生まれ方を選べない我々が、死に方の自由を手に入れたとき、それは人類にとって幸せなことなのか、ロボットは人にとってどのような存在になっていくのか、彼らに義務や権利が与えられ日がくるのか。
ストレートな表現とは裏腹に、様々な角度から疑問を投げかけてくる作品です。
ロボットのあり方、というテーマに近い題材を扱っているのが《スーパーデットハンターボットの裁判》です。(撮影し忘れたので適当に検索してください)
この動画作品では、「アルゴリズムが結果的に人を死なせてしまった場合、その法的責任をアルゴリズム自体に問えるのか」という議題(事件)設定をし、実際の裁判のように扱っています。そして、問える派と問えない派に分かれて意見を交わすことで、現状の法整備や倫理観では、責任の所在を追求することがいかに難しいかを提示しています。
他のセクションでも似たような議題がありましたが、私は個人的に、ロボット、AI、アルゴリズム、これらに義務と権利が発生しない以上、罪と罰とは切り離された存在だと思っています。彼らに独立した義務と権利がないまま、その罪をそれ自体に問うのは、単なる開発関係者の逃げではないかと。
人間ですら、「親の責任」という考え方があります。たとえ子供が、親が予期せぬ、望まぬ成長を遂げたとしても、じゃあ知らないとはならないでしょう。湯川先生も言ってましたしね。「責任を取れない人間は、科学者であってはならない。そういう科学者に未来を作る資格はない」と。
この先、ロボットたちに権利が与えられる可能性は十分あります。自動学習、AIなどによる社会貢献を求めるならば、使役する側はその立場に胡坐をかいていないで、彼らとの付き合い方を真剣に模索していく必要があるのかもしれません。
余談ですが、このセクションで手塚治虫と諸星大二郎の漫画を扱ったことに「ほほーぅ」となりました。絶妙なところをついてくるな、と。そして、展覧会最後の作品がモノリスだったのも、上手いまとめ方だと思いました。物語性を感じます。
個人的に、展覧会自体にストーリーがあるものは良い展覧会の印象です。
私はある時期からずっと、科学と現代アートの相性の良さはどこから来るんだろうと考えていました。が、この展覧会を通じて、その共通点を見つけたような気がします。
科学と現代アートは、どちらも“思考を停止させない”という共通思想のもと、成り立っているジャンルなのではないでしょうか。土台が同じなら、相性が良いことにも納得できます。
個人的に、美大にはもっと理系の専門的なことを学べる授業が増えれば良いのにと思いますね。いや、今のカリキュラムは全然知らないんですけど。
実は大学2年生まで、私は現代アートが嫌いでした。嫌いなものが評価されることが解せなくて、逆に一年間みっちり現代アート系の授業を詰め込んだ記憶があります。その結果、作品の奥深さと様々な価値観を追う姿勢に触れ、今では好きなジャンルの一つとなりました。
大学の授業をきっかけにこの数年で学んだのは、あるがまま鑑賞するには偏った知識ではいけないこと、感性は努力で磨くこと、そして、思考を停止させないことです。考えることをやめた途端、現代アート作品は単なる物質になるのだと思います。かつて何も知らなかった私が「いや、単なる意味不明の物体やん」と考えたように。
今後もうんうん悩み、頭を沸騰させながら、様々な作品に触れていきたいと思います。
長々と失礼しました!
aki