ガラスの迷宮 - raindrop_5588 -5ページ目
町はずれの通り。そのあたりは古びた住宅街だ。商店はほとんどない。
そんな通りに一軒、「人形の家」という店がある。人形専門店だ。手作りの人形が数多く置いてある。
── もともとの素材は形もなく、製作者の手によって、人の姿になっていく。
そうして、製作者が納得した時点で、店頭に置かれるのだ。すっかり人の姿になって。(6/8)
音楽。世界は一音の中に還元され、一音はまた世界を喚起する。
── 黒鍵。僕の天秤に投じられる光の屈折。(6/9)
古びた街外れ。草が生い茂り、古い木材が少しばかり置かれている広い土地。
古びた立て札。「**予定地」。
立て札が残る限り、予定地であることに変わりはなく、── いまは荒れているその土地の彼方には、電波塔の灰色の姿。(6/14)
鉄格子のなかで、退屈しのぎに鉄格子を強化している男。
── いくども監禁されてきたのだろう。鉄格子を破壊しているつもりなのだ。
(6/14)
「確かに住んでいた場所」が、「知識の中の場所」へと移る。
雪国に住んでいた男は、今は暖かな街の中に住み、「雪は冷たい」と頭の中で考える。
── 男の前に雪がなくても。(6/3)
嵐の後にやってくる静けさは、嵐の後でしかありえない静けさとなる。(6/17)
人生が成功だったか失敗だったか、死ぬ寸前に決めるしかないだろう。
それなら、その人間にとっての「成功、失敗」を最後に確認するのは、別の人間になる。
── 当の本人にとってどうでも良いものになったときに、結論は出る。(6/9)
夏。乾いたアスファルトの路面には陽炎が揺らめいている。
噴水。砕け散った光という光が空間へと舞い上がり、その輝きは陽炎の中に溶け込んでゆき ── 陽炎は一層激しく燃え上がる。(6/20)
「私ね、チャイナドレスが好きなの」。
夜の向こう側に住む彼女は得られないもののために、そこにいる。
「ここがね、私の居場所なのよ」。
── 明るく乾いた浜辺もあれば、霧の出たあたたかく静かな夜の街頭もある。
(6/20)
久しぶりの雨。高い気温も、冷えた風に押さえ込まれていく。(6/21)
僕の角膜を通して見た風景。目に留まるものが僕の居場所を示す。── 豊かで冷たく、透明な水の流れも、墓地の高い木々のざわめきも、僕の居場所を示す。
(6/21)
川に沿ったグラウンドから、中学生たちが野球をやっている歓声が聞こえてくる。
川の土手はコンクリートでできている。ただの平面ではなく、深さが五十センチぐらいの大きな正方形のくぼみが無数にある。
増水した時、川の水の速度を緩める役割があるのだろう。
──
一人の少女が遊んでいた。
手で川の水をすくって、1リットル入りの牛乳パックに入れ、水がたまると自分のいる場所にまくのだ。
まるで自分の舞台を洗い清めているかのようだった。彼女はその作業を繰り返していた。
── 太陽は川の向こうに傾きかけ、川面は光に満ちていた。(5/1)
ヴェルレーヌに関すること。
夕暮れ時の夢うつつの時、到底、自分が抱くような感情ではないと思っていた感情に胸を支配され、はっと目が覚めた。(5/2)
土曜日の雨上がりの夕暮れ時。まだかすかに降っている。
西の空の雲は薄く、やや朱を帯びた光が緑の空間いっぱいに満ちている。
新緑から水滴がきらめきながら落ち、子供らの笑い声。
アスファルトの濡れた路面に、黄や青の傘が映り、子供らはかけていく。
そうして、扉の閉まった中学校の塀を懸命によじ登り、中に消えて行く。
──
そんな光の中に、どこかから川の音が聞こえてくる。あるいは川の音ではないのかもしれない。── そうして風。いま、空気は清められる。(4/16)
「やい、ここに車を止めるんじゃねえよ、何度言ってもわからねえんだから」。
「ちぇっ、一度しか聞いてねえよ」。(4/11)
僕はI君とよく釣りに行った。I君は釣りが好きだった。淀んだ水の中には魚がたくさんいた。
朽ちた棒杭は水の中から何本も伸びていて、水に波紋を作っていた。
僕らは浮子を見ながら、また、その波紋を目で追っていた。
──
朽ちた棒杭から音もなく生まれたそれは、静かに広がってゆき、そうして穏やかな湖面の中に溶け込み消えてゆくのだ。
── 僕らはいくつもいくつもその波紋を目で追った。 ── それは僕らの少年期の終わりを予告しているかのようだった。(5/5)
彼にとっての説得の調子はいつも同じだ。
言いくるめるだけが目的の、何ら焦点を持たぬ論理。そうしてそんないい加減な論理を支える狂信。それも、自分への利益が当然あるはずの狂信。
これらだけが根底にあるのが、彼にとっての説得だ。(4/27)
サルトル。「きみが医師で、ジャンソンが死体だ」。(4/30)
夜も作業を続けている工場。黒く巨大で奇妙な形をした工場は重い音を轟かせながら、その活動を停止することはない。煙は黒い空に吸い込まれてゆく。
──
その工場の敷地から道路を隔てた所には、小さな公園がある。
子どもたちの昼の楽しみが、そこここに放置されている。(5/12)
何日もの間、曇ったり雨が降ったりしている。雨の切れ目に僕は、自動販売機にコーヒーを買いに行った。
連休の後の夜道は閑散としたものだ。
夜の空間に街灯の輝き。空中の電線も、止まっている自転車も、路面も光を散らしている。淡い靄も出始めている。
── 静かな夜道に、自動販売機から落ちるコーヒー缶の音。(5/9)
梶井基次郎の緊張感の高さ。
極度に高い緊張感は、それと同等の危機に対峙しているのか。
── だがそれは、彼自身がそうであったように、結局、不眠症を与えるものなのだろうか。(5/8)
こだまなど返ってくるはずもなかった。
眼前に何もないからだ。彼はぼんやりとしていた。
叫び過ぎた後の熱と疲労とが、後頭部にわだかまっていた。
──
重なり合う山々は垂れ込める雲の中で、いまは平面的なシルエットになっていた。
どこまでも遠ざかってゆくその風景は、いかなる彼の声にも冷淡だった。
── 何もなければ、こだまは返らない。
彼の住む巨大都市。彼は自分の砂がすっかり流れ落ちているのを感じていた。
(5/7)
彼。曇り空の午後の無目的な買い物。
広い通りに男三人と、学生服姿の女が一人と四人が立ち止まって話をしている。
── どの店に入っても、別段ほしいものはない。
しゃれた店に展示されたしゃれた商品。いくつかのものがわずかに彼の気を引く。
と言って、どうしても欲しいという物でもない。
──
「明日になっても欲しい気分が残っていたら買おう」。彼は店から出る。
おそらく明日になったら、それらへの興味は無くなっているのだろう。
そうして別の物が同じように彼の気を引き、それらも翌日になれば興味が無くなっているのだろう。
── いつでもそうだったのだ。
── 帰り道には、まださっきの四人が立ち止まって話をしていた。(5/10)
風景も音も、「人間」以前から存在したが、言葉は人間とともに生まれた。
言葉は人間とともに生き、人間とともに消滅するのだろうか。
人間以降は無効なものなのだろうか。
──あの漂泊の天才詩人の結論は「無効」だ。── だがもちろんそれも、言葉によって。(5/11)
早朝、白い朝。雨上がりの香が、ひやりとする風に乗ってやってくる。
濡れたアスファルトの路面を何羽かの雀が走り回っている。作業帽をかぶった初老の男が、一人で歩いてゆく。
── どこかから、硬い貝殻の触れ合う、乾いた音が聞こえてくる。
── 枯れかけていた鉢植えのあの植物は、小さなつぼみをつけ始めた。
早朝。雨上がりの白い朝。(7/1)
夜。暗い通りに一ヵ所、ショーウィンドウの明るい店がある。
ショーウィンドウの中には、両側からの光に照らされて、マネキン人形が空間の一点を凝視している。
── 照明の中なのだ、── その顔の明るい部分と暗い部分のコントラストは異様なほどに高く。(6/30)
三島由紀夫の文章は、すみずみまで死体で構成されている。(6/22)
コローの絵画。土で築き上げられた橋、家々、そうして城。
太陽の光を浴びて、その厚みと重さのある風景は、確かな輪郭を持っている。
── いつか時間も過ぎて、太陽の光は去り、嵐に吹かれた痕跡のある木々ばかりが残される。(6/24)
熱も静まってきた夕暮れ時。
崩れ落ちそうな木々の緑が川の両岸をおおっている。川面には、かすかに靄が広がっている。
夕暮れ時、川面を走ってくる冷気と、濡れた緑の香と。
── 遠い日々のあの錯覚。僕の影が、冷気と濡れた緑とを通り抜け、あの崩れるような緑の中に溶け込んでいく錯覚。
──
僕は川に沿って歩き始めた。── やがて川沿いに木々はすっかり見えなくなってしまい、川向こうの彼方に、赤十字病院の建物が姿を現していた。
── 熱も静まってきた夕暮れ時だった。(6/24)
地中の根。それが植物たちの「反抗」を支えている。
── 存在しているものの「表現」。(6/22)
熱は夜風の中に揺れ、流れる。広いテラスの前に茂る、南国産の植物たちのざわめき。
昼間の汗も乾いた僕に、きみが話しかける。僕も二言三言、きみに話しかける。
── 話したことなど、なにも覚えてはいない。── 夜の香はテラスにまでやってくる。(6/29)
深夜。雨に濡れた冷たく硬く、黒い路面に、街灯の光がいくつもの幻想を僕に見せている。
霧雨が僕の肌に感じられる。冷たい空気は僕の体内にまで染みている。
── かすかに響いている音に僕は耳を傾ける。その音は、いまは静まり返った人々の生活の音なのか。
── 雨に濡れた路面に、街灯の光はいくつもの幻想を見せている。(7/27)
音楽。── 浜辺、はるかに揺れる蜃気楼。
ふと立ち止まり、それを見つめる漁師。彼の足を波は洗う。
足跡が残ることもなく、── 彼はまた歩きはじめる。(6/15)
深夜の閃光と轟音との渦の中を疾走したオートバイは、その闇を振り切り、
── 次には光の中で闇に対峙する。
地下室の中、重たい眠り、── 失われているものは、他ならぬ、みずから目をそらしたがっているものなのだ。(6/28)
見上げれば、木々の葉の茂る中、光は踊る。
追放された陶酔、── 古代の神殿。願望は廃墟の中に息絶え、── その名を失った廃墟は、この瞬間の存在だけを示し、風の中に黙す。(6/30)
ヘルムート・リリング。開かれた窓の外に、洗われた風景。
静かな家々と、静かな生活。── 朝もやの中に、目覚めよと呼ぶ声は聞こえる。
(7/13)
城壁は風をさえぎり続け、── せき止められる流れ。
濁った淀みの底の城壁。軍隊の後方、姿を隠す国王は座ったままに、その身を火照らせる。
──
城壁は風をさえぎり続けるのか。影はこの身を離れて駆けめぐり、眼前には何もなく、この身だけが火照る。
── 歓喜が影の破壊にあるのなら、歓喜はやはり、影とともにある。
こうして追われるのだ、歓喜の赤をも破壊し、澄んだ零度の空間へと。(7/5)
風景の中の一ヵ所の屈折が、全体の輪郭をあいまいなものにする。(5/27)
日本の古い時代の芸術と、その素材。
素材がたとえ一片の木だったとしても、そこにどのようなニュアンスでもさしはさんでゆく。素材の制約を受けないのだ。
── 僕には日本語は、ある種の詩想を見つめながらそれを表現した場合、それを完全に表現しうる可能性を持つように思える。(7/18)
少年期。そこにある空白。整理された地図を確かめることが必要になった。
手探りで壁を確かめ、ようやくその建築の全貌を知る。── やってきた道をいつの間にか閉ざして。(7/8)
この日の置き土産の夢。
彼。僕とはそれほど親しくもなかった男だが、その彼が僕に、僕のかつての恋人が結婚したことを告げた。
ところで僕はと言えば、標識に石を投げていた。
──
もう六年も前、故郷であれほど数多く鳴いていたひぐらしは、今年もまたその子らが鳴いているのだろうか。(7/23)
夕暮れ時。すっかり冷たくなった風が川面を走ってくる。川は水の量も豊かで、ゆったりと流れている。
ひとりの男が釣りをしている。長くよくしなる釣り竿を振っている。
── 男の横には、松葉づえが置かれていた。(2/27)
あの街。明るい日差しの下の、はじめて歩く広い道。今年いっぱいで廃止される路面電車がのろのろと走っている。
遠い日々のかすかな微笑みが残っている街。
あの静けさの中に、人はどのような色彩を織り込むこともできるのだろう。
── それは竹やぶの中の細い道にも。また、千年も昔の人々の、いまは語らぬ生の証の中にも。
──
「あの・・・、写真を撮っていただけますか?」。
記録される人の姿。
静けさを求めてやってくる人々。── あの日々は、雨の夜が戻ってくるたび、いつも僕の所にふたたび・・・。(4/11)
昨日の夕方から雨。── 内に燃え尽きることなく、くすぶっているものがある限り、表現は必要になる。── 幽霊ははっきりした形にすれば消え失せてゆく。わからないから幽霊なのだ。── だがいつまで僕は、夜の彼方に・・・。(4/3)
僕にとっては全く謎の、しかも好奇心をかき立てるあの大陸。
海を渡り、大陸を横断したさらにその先にある大陸。砂漠と密林と、洪水の跡と、そうしてそこに住む部族。
「このあたりは、まだ何も知られていない場所なのだ」。
── 僕に何も書かれていない地図を示してくれた男は、そこに住む部族の男だという事はわかっていた。
── なぜ僕の所にやってきたのだろう、僕が呼んだのだろうか?(4/21)
鉱山の跡地を流れる川の向こう側には、鉱滓が積まれた黒い斜面が広がっている。所々には木々がくすんだ緑に茂っている。
高い煙突は、いまは使われず、ただそびえている。空の下の広い空間。
「雪の日に、あの煙突のあたりを歩いたんだ」。友人が僕に話してくれた。(4/4)
黒人霊歌。奴隷として生きた人たちから生まれた音楽は、やはり宿命の奴隷でしかない現代人の心の中にも、響くものを持つのだろうか。
自分ではどうにもならない巨大な流れの中で、人は「精神世界の自由」でもって、夢や希望を作り上げる。
── その巨大な流れは、ある人には夢をかなえてやり、ある人には、かなえてくれはしない。
──
ヨーロッパ世紀末の「我、神を呪う」。── もし人が奴隷なら恨みようもないだろう。だがもし人が奴隷でないなら、やはり恨みもしないだろう。(3/3)
今夜も、同じ時間、同じ場所で、バイクが止まる音がする。三十秒ほど停止して、ふたたび走りはじめるのも、いつもと同じだ。(3/12)
一年以上も前の、あの日々。雨の多い日々だった。まだまだ暖の残った季節の色彩は雨の中に濡れ、ますます鮮やかになっていた。
雨に濡れた路地、曲がり角、そこに並ぶ建物。何もかもがかつて知らないほどに美しく見えた。
美しく見えて当然だった。美しく見える理由があったのだ、── 理由は理由に止まっただけだったのだが。(2/2)
電車の中での長い時間。僕は眠っていた。
ふと目を開けた時、すでにかなりの駅を通り過ぎていた驚き。
── それは、知らずにいた事への驚きなのだろうか。(8/22)
芥川、ルナール、カミュのノート、ランボー。── たとえば音楽のパルティータのように、調性が統一された彼らの散文。(10/28)
酔い、それはタブーの消滅をもたらす。いくらか自由になった気分になり、その気分に見合っただけ何かができるような気になる。
── 自由になれば、なにかができるという事なのだろう。
酔いと酔いでないものの相違は、自由をキーワードにすればわかりやすいのだろうか。(10/18)
ゆるやかな斜面を、石の所々に突き出た道路がじぐざぐに登っている。秋の終わりの枯れた植物ばかりだ。
幼い僕は、母の歩く速さについてゆくのが途中で嫌になり、座り込んで、母にゆっくり歩いてもらおうとした。
そんな僕に慣れていた母は、ゆっくり歩くこともなく、そのままの速度で歩き続けた。仕方なしに僕は、母を小走りに追いかけるほかはなかった。
── あの頃の仙台の田舎の星空は、本当に無数の輝きに満ちていた。(8/24)
「神経」。大切に保管しておくべき灯台。── しばしば捨てたくなることがあるにしても。(10/29)
原口統三。「ドストエフスキーにおいて僕の見る『理知の人』の幻の特徴。── 倦怠の空気にはまり込んで、絶えず不安の暗い影がその身辺をかすめながらも、そこから抜け出すことのできぬ、『冷たい懐疑』と『貪婪たる狡知』と『激しい憎悪』との瞳を持った人物」。
── つまり「現代的」な、理知の人なのだろう。(10/29)
途中までは同じ道を歩き、どこかの地点で、いっしょに歩いていた者の姿を見失う。── 交差点だらけの道。(10/27)
彼における「神経質」。── 目の前で自分の食器に虫が歩くのを見た彼は、大袈裟に騒ぎ立てる。
そのあたりに虫が出ることは、彼もわかっているのだ。
ただ彼は、虫は自分の食器は避けて歩くものだと思っていたのだ。(10/2)
今東光。「それがそうなってしまったのは、摂理というものだ。皆、なるようになるものだ。ならないようになるものなどない」。(9/29)
香山芳久が現代の中学生を評して。
「リンゴの皮がナイフで向けない。はさみで紙を真っすぐに切れない。紐が結べない。釘が打てない。手拭いが絞れない。短い沈黙に耐えられない。ものをポンと投げて渡す。笑うことはあっても笑顔というものがない。正面を向いて見ない。恥ずかしさを示さない。はにかみが少ない」。
── もし、ひとりですべて体現している者が居たら、それはそれでかなりのものだろう。(10/11)
小夜曲。少女は窓を開け、外の風の音を部屋に入れた。
外からの風の音が少年になった。外を見つめながら少女は、風の音を聞いた。
── いつしか彼らは歩いていた。街を、浜辺を。
── 互いに相手がいることに気づかぬほどに、一人であるかのように二人で、親しく。(9/16)
風景。細く、空間をつらぬくモズの声。
ランボー。「血に染まった大地の上に、透明な水素は汚れを知らぬ、数知れない愛の戦慄を」
── ランボーにとっての無垢とは、意味の肥大した世界に入る前、ひとつの戦慄を与える状態なのだ。(10/2)
ひとつの歴史。古代の人々は、槍を投げるその瞬間だけを、自分そのものとしていた。
しかし自らの赤い血を見、その痛みをくり返し知るにつれ、麻酔を風景の中に求め始めた。
くり返し打ち寄せる波の姿、風の中の木々のざわめき、── それを確かに知りながらも、自分はどこか別の場所にいるしかなくなっていった。
── 肥大した文明の破滅は、そうして繰り返される。(9/16)
時間の中を移動していく民族。── つまずき、立ち止まるその場所で、科学は障害を打ち破ってゆく。
そうして再び民族は時間の中を歩き出す。
── いつでも、最初の人々が踏み込んだ場所と同じ、黒い森林に向かって。
(9/6)
雨の中の秋の夜。立ち止まればいつでも聞こえてくる。
歓声が、頌歌が、── そうしてまた哀歌が。
立ち止まればいつでもあらわれる。少女の姿が、友の姿が。
── この秋の日々。
立ち止まれば、そこにはいつでも、風景があらたな表情で僕を見つめている。
(9/30)
蕪村はこの世界に触れようとし、芭蕉はこの世界に触れている。(10/1)
ギリシャの廃墟にそびえる石柱。彼らは、不要なものをできる限りそぎ落としたような岩山に、巨大な建築を求めた。
そうして、エピキュリアンは胸の熱を信じ、ストア派はその身になにも求めるもののない冷厳な存在であるべきことを信じた。
── だが、その二つにどれほどの違いがあるのだろう。(8/29)
古び、不規則に連なる家々のすき間から、秋の虫の音がかすかに響いてくる。
いつしか雨も上がり、蒼い街灯の光の中、軒にいくつかの水滴の、かすかにふるえている輝き。
── 天から下がる振り子は、いつでも僕の頭上で振れていた。(8/29)
木々。鳥たちのさえずり。家々の窓、それらの中、一つ開いている窓から、人がどこかを見ている。
山々の前を通り過ぎる、何人かの人々。商店街。ショーウィンドウ。
── どこかでガラスの割れる音。ごみ箱をあさる犬の姿。
木々 ── ふと肩に、小枝が落ちてくる。(8/16)
夕暮れ時。彼方に傾いていく没落の、その鮮烈な輝き。
川辺で、橋は光を受け、川向こうの家々は光に包まれた影となっている。
── もう光を受けていない川面は、そのさざ波の底へ底へと沈んでゆく。
(10/16)
大切に守られてきたステンドグラスの、不可思議な絵模様。
── そこから透けて見える、外の風景。(10/15)
深夜の火災。夜の彼方から響く警報の鐘の音。そうしてサイレン。
家々の静まり返る、黒い屋根屋根の彼方に赤い火柱。
サイレンの音は絶え間なく、重なり合ってひびく。そこここで犬が吠え続けている。
── 眠り込む家々の屋根の上を走ってくるサイレンの音、── 挽歌なのか、赤い火柱への。(10/22)
自らすべてを捨て去った貧しい人々が波打ち際を歩いていく。
── 闇は風と炎とに追放され、開放された水平線へと、あらたな船は出港する。
(10/12)
禁忌の向こう側、ひしめき合う亡霊たち。
風が様々な予感を運んでくる。目を覚ましたばかりの子どもたちはすくみ上る。
── 黒い死の偶像が人々を幻想のジャングルへと追い込み、次にはそれらの人々を飲み込んでゆく。
── 「痛み」の亡霊は死を作り上げる。(10/18)
郊外。
彼方に、午後の太陽と、街。目の前には黄金色に染った田畑の広がり。
ゆるやかに流れる風が、田畑の香を運んでくる。
風に逆らって空間に浮く、数えきれないほどの羽虫の、かすかな白い輝き。
遠くに見える灰色の工場からは黒い煙が湧き、それは風にたなびいて、次第に淡くなってゆく。
── 郊外。ゆるやかな坂を上りきると、広野のざわめき。── 淡く輝く、羽虫の群れ。(10/17)
水晶の砂漠の彼方、天秤の姿が、都市群の蜃気楼にぼかされる。(9/20)
かつて風景を脅かしていた疲労が、いまは風景を洗い流していく。
都市群の彼方に見える不思議な牧場が、なにもかもを悲惨の中に追いやった。
── 朝になれば悪い夢を後にして、鳥たちは空へとはばたく。
── 若くして死んでいった幾人もの旅人たちの魂とともに。(10/11)
晴れた夜は、どこまでも冷え込んで行く。夜の雑踏のネオン群。男たち、女たち。
冷え込んだ雑踏。イルミネーションに埋もれた無数の飲食店。
── だが、一軒も開いている店はない。(10/21)
土の道に深々と轍 ── 帆はいつでもいっぱいに張られている。
肉体のすべてが略奪者であった男が船頭なのだ。
彼は知っている。最高の財宝は海の底、彼らがいつでも往き来する下にあることを。
しかし海の底だ、── 結局彼らは一文無しだ。
── 海原の輝き、彼らはそれでも海原を渡る。(1/1)
古い時代の音楽。── 季節の中、ようやく雪どけも始まったころの、淡い陽炎のような音の連なり。
田中冬二のよく知っていた陰影の深い、古びた家々の中の生活。
すんなりと延びた木々。── 山々に囲まれた家々と、ひやりとする何か不思議な大気。
── 選択のその一瞬は、前にずっと連なっている。(1/6)
いつのことだったか。まだ雪一色の山道をいくども迷いかけながら、友人と歩いたのは。
足元はるか下、碧い湖を見下ろし、山の斜面に沿った道は、やがて山と山との間に入ってゆき、雪原──雪に覆われた湖の沈黙。
葉のすっかり落ちた白樺林の中を通り過ぎ、登り坂や下り坂を過ぎ、歩きつづけた。
── いま、この場所。立ち止まれば、やってくるものはもうあまりに淡くなってしまった、冷たい大気の香。(1/6)
スタインベック。「逃走」。
大人が必要になるとき、子どもは大人になる。
ペペを中心とするあの作品の世界に、「大人」は一人も出てこない。敵もペペ自身も、少年期末期の恐怖の中にいる。(12/26)
道路に沿う、上水道跡の細長い公園。
どこまで歩いてもそれは続いている。アパートの窓には洗濯物の白い輝き。
生活の静けさに囲まれたその公園に、数人の子供。
──
そこを母親と女の子が通りかかった。女の子は遊んでいる子どもたちの中に混じった。
だが母親は待つことを好まなかったらしい。女の子は遊んでいる子どもたちを振り返りながら、母親に手を引かれていった。
──
午後の日差しの下、家々。上水道を埋め立てたその公園の所々には、名残の橋が残っている。(1/3)
小話。
悪魔のいる森に迷い込んだ兵士は、悪魔に誘惑され、傷つけられ、剣を探し求めた。
だが、ようやく見つけ出した剣は、握りがなく、すべてが刃だった。
手に持つと悪魔は消えたが、手からは血が流れた。仕方なしにそれをさやに収めると、悪魔は再びあらわれた。
── 森のざわめきの中、彼は剣を手に持ったり、さやに収めたりしながら歩いてゆく。(1/12)

