民の声新聞 -16ページ目

【31カ月目の福島はいま】不安と確信とあきらめと。交錯する汚染地住民の思い~郡山市・浄土松公園

米の収穫が進み、日に日に秋が深まる福島県郡山市。依然として放射線量の高い個所が点在する中、汚染地に暮らし続ける人々は何を思うのか。13日、郡山市内の公園で開かれた秋まつりの会場で、わが子を遊ばせる大人たちに聴いた。被曝への不安と安全だという確信と何も変えられないことへのあきらめと…。安倍首相が笑顔で安全性を世界にアピールするのとは裏腹に、複雑な思いが交錯している。誰もが少なからず、被曝への不安を抱いているのだ。


【腹が立った安倍首相のスピーチ】

 郡山駅から路線バスで西に約30分。陸上自衛隊の演習場に隣接した「浄土松公園」には、季節外れの暑さの中、遊具で子どもたちの歓声が響いていた。ベンチでは、多くの親子連れが持参した弁当を広げている。

 60代の女性は、白河市内の幼稚園に通う孫の姿に目を細めながら言った。「不安はありますよ。決して現状が安全だとは思っていません。でもね、現実にはどこかに行かれるわけでなし、ここで生きて行かないといけないんですよね…」

 安倍首相の五輪招致スピーチ。「汚染水はコントロールできている」と世界に向けて宣言している姿を見て、震災後に耳にした言葉を思い出した。中通りは新幹線も走っているし、汚染していないことにしないといけない─。こういうことだったのかと感じたという。「首相は何を言っているんだと腹が立ちました。汚染も被曝も無いことにしようとしている国は信用できません」。

 原発事故から2年7カ月が経ったが、決して過去の出来事にはなっていない。郡山市内の自宅周辺も、除染をしても大きな数値の変化はないという。そうは言っても…。女性は葛藤が続く。

 「せっかくの連休で孫が遊びに来ると言えば、来るなとも言えない。こんなに天気が良いのに外で遊んじゃダメと言うのもね…。世の中、危険なものは他にもあるから、こればかり怖がっているわけにもいかないしね。結局、食べ物に気を付けることくらいしかできないわね」
民の声新聞-浄土松③
民の声新聞-浄土松①
民の声新聞-きのこ岩
(上)多くの子どもたちが遊んでいた浄土松公園

(中)モニタリングポストは0.250μSV前後

(下)〝陸の松島〟と呼ばれ、福島県の名勝天然

記念物に指定されている「きのこ岩」。手元の線量

計は0.3-0.4μSVを示した

=郡山市逢瀬町多田野


【この程度の数値で危険、危険と騒ぐな】

 「0.3μSV?いまだに放射線量の高い自宅周辺よりはマシですよ」。市民文化センターのある堤下町から来たという30代の夫婦は声を揃えた。9歳、8歳の子どもが声をあげて走り回り、妻の腕には1歳の子どもが抱かれている。

 ベビーカーに手をやった夫は、やや不機嫌そうに声を荒げた。「この程度の数値で危険、危険と騒ぐなよ」。妻が苦笑まじりにとりなす。「現在の数値を気にするような人は、もう避難し尽くしたんじゃないですか?」。夫は大きくうなずいた。

 実はこの夫婦、2人とも福島県外の出身。夫の転勤で数年前から郡山市内に生活している。原発事故後に県外避難をするか否か話し合ったことがあるが、「いずれ異動で再び福島県外に転居することになる」として見送った経緯があった。どうせ数年間の我慢だ、そんな思いが垣間見えた。

 多くを語らない夫に代わり、妻が話した。

 「被曝を恐れて室内に閉じ込めておくのと、こうやって伸び伸びと公園で遊ばせるのと、どちらが子どもの身体にはマイナスなのでしょうか?私は外で遊べないストレスの方が悪影響を及ぼすと思いますよ」

 子どもたちは汗をかきながら、遊具で遊び続けていた。
民の声新聞-浄土松②
民の声新聞-浄土松④
浄土松公園の広場は、除染によって放射線量が

1/4になったとされる。しかし、一歩、山に入ると

0.4μSVに上がる


【「どうしようもない」と空しさ募らせる父親】

 あきらめてしまった人もいる。

 30代の男性は、小学校3年生と幼稚園児の2児の父。「マヒしちゃったというか、1人で頑張ってもどうしようもないですよね」と力なく話した。

 原発事故直後は、線量計を購入し、放射線量の低い場所を探して子どもを遊ばせていたという。福島県外に避難しようと、夫婦で真剣に話し合ったこともあった。「でも、年老いた両親を残して自分らだけ逃げるわけにはいかなかった」。子どもたちを守ろうと、活動に参加したこともある。しかし、何も変わらない。他の親たちが次々と後から続いてくるわけでもなかった。国は汚染を認めて子どもたちを逃がすどころか、五輪招致のために安全性を世界にアピールする始末。「コントロールできていると言って、あのザマですからね。まったく…」。

 怒りは増すばかりだが、結局、今は活動に参加することをやめてしまった。放射線量を測ることもなくなった。自宅を出る前に、インターネットで公園の放射線量を調べたのはしかし、やはりわが子への健康被害に対する不安が消えたわけではないからだ。

 「中通りは汚染されていない?風評被害?それはおかしいな。だいたい、『東北の人は我慢強い』なんて初めの頃に言われてしまって…馬鹿にしてるよ」

 この時ばかりは、サングラスの向こうの目つきも語気も力強くなった。しかしすぐに、子どもたちが食べ終えた弁当箱を優しい表情で片付けた。「どうしようもないよ」とつぶやきながら。


(了)

【東海第二原発】東海村の相沢一正議員に聞く「再稼働反対」と「新村長」

「世界平和をこころに秘めて、ともれ明るい原子力、ソレ」─1980年に村制25周年を記念して作られた「東海音頭」の一節だ。歌うは都はるみ。群馬県高崎市、神奈川県横須賀市との招致合戦の末、日本初の「日本原子力研究所」が完成したのが1956年。以来、茨城県東海村は、まさしく〝原子力村〟として原子力とともに歩んできた。現在停止中の東海第二原発の再稼働・廃炉について、そして新しく村長に就任した山田修氏について、村会議員の相沢一正さん(71)に聞いた。相沢さんは言う。「原発は人間の生活とは共存できません」


【廃炉にしても村の財政に影響ない】

 「正直言うと、福島原発事故が起きるまでは『大きな事故は抑えられるかも知れない』とどこかで思っていた。だが、実際には起きてしまった。福島は、前々から私たちが指摘してきたような事態になっている。被曝地はもう、帰れない。これから先、どのような健康被害が出るか分からない。やはり、原発は即刻、やめるべきなんです」

 JR常磐線・東海駅近くの自宅で、相沢さんは静かに語り始めた。「何としても、東海第二原発の廃炉を実現しないといけません。今の動きを見ていると、3.11前に戻そうと言う空気が感じられます」。

 東海第二原発の建設計画が浮上した頃、日本原電の責任者が口にした言葉が忘れられない。「安全性は動かしながら確かめて行きます」。直感的に、地域住民がモルモットにされることを意味するのではないか、と思ったという。       

 「ある意味、彼は正直だったのかもしれませんね」。小さなトラブルは頻発した。「死の灰」と呼ばれる放射性廃棄物は増える一方。だからこそ、再稼働を認めず、このまま廃炉を実現したい。では、廃炉後のエネルギーはどうするのか。

 「現実をご覧なさいよ。今でも原発は止まっているのに(電力は)足りているではありませんか。放射能の危険は、人には解決できないんですよ。今までの政策が偏っていた。代替エネルギーはあるんです。多くの技術が開放されれば、まったく問題ない。第一、(電力の大量消費を背景にした)右肩上がりの経済成長を望む方がおかしいでしょ」

 一般会計の7割を原子力に依存していると言われる村の財政はどうするか。

 「東海第二を廃炉にしても、すぐに村の財政が駄目になることはありません。固定資産税と交付金を合わせても15-20億円ほどです。村の財政は180-190億円ですからね。そう多くは無いんですよ。それに、東電の常陸那珂火力発電所から固定資産税や法人税が入ってくる。カバーするものはちゃんとあるんです」
民の声新聞-相沢一正議員
東海村の相沢一正議員。自宅前に看板を新設。

「原発と人間は共存できない」と東海第二原発の

廃炉を訴える


【廃炉のスタンス同じだった村上前村長】

 9月8日に実施された村長選挙。4期16年にわたって村長を務めてきた村上達也氏が引退。副村長だった山田修氏が初当選を果たした。だが、「脱原発をめざす首長会議」の世話人でもあり、東海第二原発の廃炉を明言していた村上前村長に対し、山田新村長は「中立の立場」として、原発政策に対する態度を明らかにしていない。

 「もう一期、村上さんにはやって欲しかった。しかし、擁立は失敗した。次は5期目。奥さんも亡くし、モチベーションが下がったこともあるだろうが…」。村内の原発推進派は「とにかく村上以外の人間を村長に」と立候補断念を画策したという。「村上さんは同じ方を向いていた。脱原発をめざす首長会議に加わったことで、これなら一緒にやっていけると思った。彼に任せれば良いとまで思っていたんだ」。立候補を望む約1000人分の署名が集まったが、出馬には至らなかった。

 東日本大震災で自動停止した東海第二原発を再稼働させるには、立地自治体の意向が影響する。東海村は村上村長が廃炉を明言していた。だが、橋本昌茨城県知事は今年5月、廃炉を求める17万もの署名に対し「重く受け止める」とは答えたものの、東海第二原発の再稼働に関しては態度を明確にはしていない。

 実は東海第二原発も、あわや電源喪失寸前だった。「あと70㎝津波が高かったら、大惨事になっていた」。5.4mの津波は、3台ある冷却用海水ポンプのうち1台を使用不能にした。日本原電は公式サイトで「仮に津波があと70cm高く、非常用ディーゼル発電機を冷却する海水ポンプ3台がすべて使用不能になったとしても、原子炉および使用済燃料プールへの注水に必要な電源(430.6kVA)を有していました」と緊急事態だったとの見方を否定しているが、相沢さんは「結果オーライではないんだ。第一、原電はデータを十分に出していない」と憤る。

 「(知事と村長の)ツートップを何とかしたい。状況としては以前より悪くなった。改めて運動を立て直して、廃炉を村長に迫りたい」。23日には、自宅をはじめ村内4カ所に「再稼働反対・廃炉に!」と赤字で書いた看板を設置した。30日の村議会で所信を表明する新村長へのメッセージだ。
民の声新聞-東海村

東海の「と」とガンマ線を組み合わせて作られた

村の紋章。60年にわたって村は原子力とともに歩

んできた=東海村役場


【原発ない社会へ曙光見出したい】

 1942年、茨城県日立市の出身。茨城大学文理学部を卒業後、福島県立平工業高校教諭を経て、同大人文学部の助手を努めた。反原発運動に身を投じるきっかけとなったのが、1973年の東海第二原発設置許可処分取り消しを求めた訴訟。30代だった相沢は、原告団の代表に就任。活動の中で、原子力資料情報室代表だった高木仁三郎氏(故人)の考えに強く影響を受けたと振り返る。

 「原発は人間の生活とは共存できません。得をするのは、一部の利益集団だけ。国民は騙されているんですよ」

 今や、家族も含め住民の2/3が原子力関連になった東海村。福島同様、原発立地自治体の住民は、原発への不安を抱いていても容易に口に出せない雰囲気がある。ましてや、隣近所に原子力施設で働く人がいればなおさらだ。相沢さんは「これまで圧力のようなものは無かった」と話すが、こんなこともあった。村会議員に初当選した直後の村議会。「原発は麻薬中毒のようなものだ」と発言したところ「問題発言」としてやり玉にあげられ、議事録から削除された。「原発を一基造ったら、もう一基、もう一基となる。そんなことは誰もが分かっていることなのにね…。原発推進派の逆鱗に触れたのでしょう」と振り返る。

 その議会は6月の定例会で、東海第二原発の廃炉や再稼働中止を求める意見書採択に関する請願を賛成少数(3人退席)で不採択とした。一方で原発の安全性向上を求める請願も不採択となった。「廃炉を求めないが、再稼働も否決されたということです。つまりはイーブン」と相沢さん。「原子力発祥の地と言うけれど、国策の場として求められただけですからね。財政を見返りに。本当に多くの村民が〝原子力村〟を誇りに思っているのでしょうか」

 「私ももう、71歳。動ける時間は少ない。〝ごまめの歯ぎしり〟かもしれないが、途中で撤回せず最後まで貫徹したい。原発のない、ゆっくりとした平和な社会へ、曙光を見出したいんです」


(了)

特定避難勧奨地点の暗と暗。〝明〟無き愚策に翻弄され続ける住民~伊達市霊山町下小国地区

逃げるも〝暗〟とどまるも〝暗〟。年間被曝線量が20mSVを超すとして1年半にわたって特定避難勧奨地点にしていされた伊達市霊山町下小国地区。住宅ごとの指定は住民の対立を生んだ。避難した住民への支援は来年3月で打ち切られるが、除染は中途半端で高線量のまま。〝明〟なき愚策に翻弄され続けている住民たちを追った。


【勧奨地点に指定されれば逃げていた…】

 「何も変わらないよ。何も。福島は安全?何が安全だ。逃げるなって言われて、今まで通りにやれるわけがないじゃないか。東京五輪の話題を見るたびに、はらわたが煮えくり返る」

 50頭の乳牛を扱う酪農家の妻(58)は、怒りを吐き出すように一気に話した。

 福島原発が爆発して3カ月後の2011年6月。玄関前の放射線量は2μSVを超えていた。だが、3μSVを下回っているとして特定避難勧奨地点には指定されなかった。国も市も、地域でなく住宅ごとに指定する方式を採用したため、この酪農家のように高濃度に汚染されたにもかかわらず、わずかな数値の差で指定の有無で隣家と格差が生じた世帯がいくつも生まれてしまった。住民を被曝から守るはずの国の施策が逆に、地域の分断を招き被曝回避にもつながらなかった。

 「あの時、支援するから逃げろって言われていたら、息子も若いんだし気持ちを入れ替えて北海道にでも行ってやり直しましたよ。でも、残れって言われた。自宅の除染は確かにやってもらった。0.3μSVくらいにはなった。でも、周囲の放射線量は高いまま。息子が独身で孫がいなかったから良いようなものの…」
 息子(30)は黙々と乳牛に餌を与えていた。勧奨地点に指定された世帯は、避難先の住宅補助のほか、国民健康保険料や税金の減免措置を受けられた。だが、この酪農家が得られたのはわずかな賠償金のみ。2カ所の畑でアスパラガスを栽培し出荷しているが、震災前の価格との出荷額の半分しか、昨年は東電から支払われなかった。今年は半分さえ払われるのか分からない。

 現在、勧奨地点の指定にかかわらず各種減免措置を受けられるよう伊達市と交渉している。指定を受けられたいくつかの世帯も地域での格差をなくそうと仲間に加わった。なぜ、こんな思いをしなければいけないのか。妻は半ばあきらめ顔で次のように語り、畑へと向かった。

 「腹立つけど、東京五輪は日本のためになるんでしょ?日本のために福島は我慢しなきゃいけないんでしょ?日本のためには…しょうがないんだね」
民の声新聞-乳牛②
民の声新聞-汚染堆肥
(上)特定避難勧奨地点の指定から外された酪農

家の乳牛。妻は「東京五輪の大騒ぎは、本当には

らわたが煮えくり返る」と語った

(下)汚染された堆肥の仮置き場。手元の線量計は

0.6μSV前後を示した=伊達市霊山町下小国

【除染完了?雨どいのコケは120万ベクレル】

 特定避難勧奨地点は昨年12月、説明会も事前の説明も無いまま解除された。避難先での住宅支援(借り上げ住宅)は、来年3月で打ち切られる。伊達市は、下小国地区の住宅除染は100%終了したと盛んに帰還を促す。しかし、宅地の放射線量は1.0μSV以下に下がったものの、一歩、敷地から外に出れば依然として1.0μSVを超す個所が多いのが実情だ。

 勧奨地点の指定を受けて市内の西側のマンションに一家5人で避難した家族の40代の母親は「指定が解除されたから、今から新しい住まいを購入しても、何の支援も受けられない。すべて自己負担。(今は親だけが暮らす)自宅周囲の放射線量は高いままだから、子どものためにも帰ることができない」と苦悩を打ち明けた。
 そこにさらに、困った問題が浮上した。既に元の自宅近くには除染で生じた汚染物の仮置き場が2カ所、完成しているが、さらにもう1カ所、農業系の汚染廃棄物を仮置きすることが決まった。その広さ、実に5000㎡。これが完成すれば、自宅の三方を仮置き場に囲まれることになる。国の中間貯蔵施設の完成は何年後になるかも分からない。子どもは3人。何かあれば親に預かってもらうこともあるかも知れない。数時間、遊びに来ることもあるだろう。しかし、とても子どもを連れて来ることはできなくなってしまった。

 「仮置き場から一番近いわが家に何ら事前相談もなく、地権者から計画を知った住民が騒いだら渋々、説明会を一回だけ開く。そんな行政の進め方が嫌なんです。仮置き場の必要性くらい分かっています。でも、こんな強引なやり方では不信感が高まるのは当然でしょう」

 今後のことを考え、自宅を売却しようといくつかの不動産業者に打診したこともある。だが、どこも「こんな状態では売ってもタダ同然ですよ」と苦笑するばかりだった。今年4月、雨どいにたまったコケをフランスの会社で調べてもらったら、120万ベクレルあった。これが「宅地除染100%完了」の実態なのだ。 

 「声をあげるのって疲れますね。でも子どものため…」とポツリ。「小国に残った人も避難した人も同じように賠償されるべきなんです。それもできない。除染も中途半端。ここに住まなきゃいけないのなら、安心できるようにするべきなんです。まずは再除染をしてほしい」
民の声新聞-下小国
民の声新聞-仮置き場①
民の声新聞-仮置き場②
(上)宅地除染は完了したと伊達市は強調するが、

1.4μSVを超す個所も珍しくない

(中)(下)既に完成した汚染物の仮置き場。周囲

は0.8μSV前後ある

【なぜ全員を逃がさなかったのか】

 夫婦で下小国での生活を続ける60代の男性は「もう行政は頼りにしない」と怒りを露わにした。

 特定避難勧奨地点の指定を巡り、住民同士がいさかう姿を見続けてきた。自身も「お前たちだけずるいじゃないか」と指定を受けられなかった住民から責められたことがある。「自分から手を挙げたわけじゃないのに、指定を受けた家庭は犯罪者のように小さくなって暮らしていたよ。われわれが作った放射能じゃないのにだよ」と振り返る。

 「差別はおかしい」。指定を受けられなかった世帯が指定を受けた世帯と同様の支援が受けられるよう、国や東電に対し集団申し立てを行っている一人。説明会無き指定解除。国へ開催を要望したが、答えは「NO」。伊達市長が「大騒ぎになる」と説明会を開かないよう申し入れたとも言われている。文書一枚での指定解除。だが春の自主測定で、川の堤防など4-5μSVもの高い放射線量を示す個所をいくつも確認した。「もう一回除染するべきだ。せめて放射線量を測定し、現状を把握するくらいのことはしてほしいね」と語る。
 あといくらかけたら放射線量が0.1μSVを下回るのか。

 「除染などせずに、政府が早い段階で『福島は100年は住めません』と宣言すれば良かったんだ。金を配って避難させる。残りたい人は自己責任。なぜ全員を逃がさなかったのか…。これから東京五輪に向けた建設ラッシュになれば除染作業員はそちらに流れる。ただでさえ人手不足なんだ。ますます除染や復興は遅れるよ」
 19日に開かれた、伊達市議会生活産業常任委員会。昨年度の農地除染で16億円が使われたと報告された。議員の質問に対し、市側は「米の全量全袋検査では全て基準値を下回っている。除染の効果はあったと言える」と胸を張った。

民の声新聞-水田
民の声新聞-小国小
(上)試験栽培が続く水田。放射線量は1.0μSV

前後に達する

(下)小国小学校の横は依然として0.5μSVを超す

(了)

米国人監督が見たフクシマの被曝~映画「A2-B-C」 海外の映画祭で絶賛され〝逆輸入上映〟

来日13年の映画監督、イアン・トーマス・アッシュさん(38)のドキュメンタリー映画「A2-B-C」が14日、東京・渋谷で開かれている「ぴあフィルムフェスティバル」(PFF)で国内初上映された。海外の映画祭で高く評価されての〝逆輸入上映〟 原発事故後の福島の母子に密着した作品は、「ふくしま集団疎開裁判」の控訴審で証拠としても提出された。10月10日から山形市内で開かれる「山形国際ドキュメンタリー映画祭」でも上映。来春の一般公開をめざし、準備を進めている。


【被曝回避に取り組む母子に密着】

 映画は2011年3月22日の場面から始まる。

 〝ミスター100mSV〟山下俊一氏(福島県放射線健康リスク管理アドバイザー)にイアン監督が迫る。

 「癌になりませんと保証できますか?」と問いただすイアン監督に対し、山下氏は薄ら笑いを浮かべながら「ごめんなさい」。さらに「言えない。確率論だから。絶対ということは誰にも言えない。しかし、安心してくださいとお願いはできる。100%は科学にはありません。絶対エラーは起きる」

 71分間の作品中、イアン監督はそのほとんどを母親と子どもの語りに費やした。伊達市下小国地区で暮らす家族。0.2μSVを目標に始めたはずの除染はいつしか目標値が0.9μSVに引き上げられ、小学校も高線量のまま。イアン監督が小学校を直撃した際には、取材許可の有無にばかりこだわる学校側に「そんなことは問題じゃ無い。子どもたちの健康被害の方が大問題だ」と声を荒げる場面も。

 タイトルの「A2-B-C」は、福島県で実施されている甲状腺検査の判定をつなげた。「A2」とは、「5.0mm以下の結節(しこり)や20.0mm以下ののう胞を認めたもの」。今年3月、福島県立医大が伊達市内で開催した説明会では、鈴木真一教授が「A2判定は異常とみなされない」と発言しているが、甲状腺癌の発症を危惧する声は少なくない。

 作品中にも、実際の検査の様子やA2判定を受けた子どもたちが登場する。幼稚園に通う女児が、緊張した表情で検査を受ける様子が印象的だ。

 「子どもをメインに考えて。後は観た人がそれぞれに、何が大事か考えてくれればいい」とイアン監督。除染作業や食品検査、甲状腺検査を丹念に追い、派手なBGMも使わない。代わりに、子どもたちが笑顔で遊ぶ様子が随所に挿入されている。別の作品を目当てに来場したという男性(29)は上映後、「子どもたちの姿が印象的だった。こういう情報は普段、テレビや新聞では分からない」と感想を語った。
民の声新聞-イアン②
民の声新聞-イアン
「ぴあフィルムフェスティバル」での上映後、観客

からの質問に答えるイアン監督。左は、フェスティ

バルディレクターの荒木啓子さん

=渋谷・シネクイント


【息子の変調、変わり者との陰口】

 作品に登場する一人、福島市内に住むAさん(39)は、中学1年生の息子と小学校3年生の娘の母。
 「初めは、同じ考えのお母さんたちもいたんですよね…」と振り返る。やがて、被曝を回避しようと気を付ける母親は一人減り、二人減り。そして誰もいなくなった。ついには「私はここに住むと決めたんだから、そういう話(放射能、被曝)はしないでよ」と言われてしまった。ただ子どもを守りたいだけなのに…。夫の知人が「お前の嫁、変わってるな」と話したのが耳に入ってきたこともあった。独りぼっちで子どもを守り続けてきた。

 「この子を見ていると、放射能って本当に存在するんだなって思いました」

 原発事故直後、自宅近くの水田でカエルを捕まえて遊んでいた息子。やがて赤い発疹が全身に出た。医師には「風邪だが白血球が減少している」と診断された。なぜ風邪なのに血液検査をしたのか?いまだに疑問のままだ。

 夜中に、大量の鼻血を出し貧血状態になったこともあった。夏休みなどを利用し、あらゆる場所に保養に出した。長野、沖縄、京都…。保養に出すと、薬を塗らなくても発疹は消えた。「とにかく、福島を離れなくては」。もちろん、そう思った。避難したいと夫に申し出たこともあった。だが、夫は首をたてに振らなかった。息子も友達と離れたくないと嫌がった。「離婚してでも逃げろ、という人もいるでしょう。でも、この子たちにとっては父親は父親。それに、無理矢理連れて行った先で心が歪んでしまわないかと不安になりました」。

 〝あの日〟を境に自分の身に変調が起きたことを理解している息子は、屋外で遊ばなくなった。福島のものも食べない。「倒れた恐怖があるんでしょう」とAさん。息子の甲状腺からは2㍉ののう胞が見つかった。娘が将来、不妊になってしまわないか、そちらも心配だ。
 「被曝被曝って、身体は何でもないじゃん。そういうこと言うのやめてよ」。そんな言葉を浴びたこともある。「こんな小さな子どもたちが被曝の恐怖と闘っているんです。ここで流されたらこの子たちを守れません」。息子は高校受験を待って福島県外に進学させるつもりだ。

民の声新聞-福島大
福島市内にある福島大学のキャンパスは、いま

だに0.5μSVを超す個所がある。原発事故から

2年半を経ても子どもたちを取り巻く環境は決し

て改善されたとは言えない=福島市金谷川


【ドイツからの激励。「あなたたちは正しい」】

 気付けば皆、泣いていた。

 6月下旬、伊達市内の民家で開かれたドイツ映画祭「NIPPON CONNECTIN2013」の報告会。イアン監督は「ニッポンヴィジョンズ賞」受賞の喜びを分かち合うとともに、映画制作に協力してもらった母親たちにぜひ、見せたい映像があった。ドイツ映画祭の観客からのメッセージだった。現地フランクフルトで審査員を務めたPFFの荒木ディレクターも「絶望的になっているお母さんたちの気持ちが伝わってくる作品。福島はこんな状態なのか、とすごい反響だった」と話すほど、上映後の反応は顕著だったという。
 「低放射線は1ベクレルからリスクがあるんです」。ドイツ人医師は言う。別の女性は「子どもたちを心配することは間違っていません。子どもたちの安全や未来を心配し怒ることは当然です」。

 出演した母親たちへの激励の言葉が次々と映し出されると、母親たちはハンカチで目頭をおさえた。映像が終わる。しばしの沈黙。そして、誰ともなく口にした。「やっぱり間違っていなかったんだね」「本当にありがたい」。ある母親は「イアンのインタビューを受けたことがきっかけで、自分の思いを口にすることができるようになった」と振り返った。「海外の方が私たちに寄り添ってくれているね」とも。誰もが「被曝を心配し過ぎ」と揶揄された経験を持つだけに、ドイツからの「あなたたちは正しい」というメッセージは本当にうれしかったのだ。
 母親たちとの再会を、イアン監督はこんな言葉で締めくくった。

 「取材させてくれて、ありがとう」
民の声新聞-報告会①
映画に出演した母親らを集めて開かれた、ドイツ

映画祭の報告会。現地から寄せられた激励の言

葉に、母親たちは涙を流した


(了)

【30カ月目の東松島はいま】松林を越えた津波と消えた仙石線の線路~野蒜地区

仙石線の踏切は跡形も無くなった。駅舎に隣接するコンビニも、防風林として植えられた松林も…。代行バスを途中下車し、津波に襲われた東松島市・野蒜地区を歩いた。震災から30カ月を経ても深く残る傷跡。そして、住民は言った。「よく見て教訓にしろ。津波は他人事じゃないぞ」


【津波に襲われた町を見て教訓にして】

 「あの松林を楽々と越えて来たんだ、津波は」

 運行中止中の仙石線・野蒜駅前広場で海苔を販売していた女性は、大きな声で指さした。鳴瀬川から流れる東名運河の向こうには、まばらになった松林が見える。「この辺りは防風林がたくさん植わっていたんだけど、かなりなぎ倒されてしまった。何しろ、津波は向こうの野蒜小学校にまで達したんだから」。

 実際、駅舎は入り口がベニヤ板で厳重にふさがれ、隣接するコンビニエンスストアは建物は辛うじて残っているものの、店内は激しく損壊している。住民の生活の足となっていた仙石線は、線路が一部しか残っておらず、踏切も跡形もない。

女性は、野蒜駅から野蒜海岸を抜け、さらに海側に突き出した東松島市宮戸地区で民宿を経営していた。2年半前のあの日、防災無線の声は聞こえず、携帯電話も機能しなかった。だが、女性は大きな揺れが収まると高台目指して動き出していた。警報が発令されていることは知らずとも、身体が自然と動いていた。

 「私の親は船乗り。小さい頃から『地震が起きたら高台に逃げろ』って親に教育され続けてきたんですよ。奥松島はそういう人が多いから、家や民宿はやられても助かった人が多かった。でもね、野蒜は外から移り住んできたサラリーマンが比較的多いから、知らないんだろうね。そういうこと。小学校の体育館に逃げて犠牲になった人もいるっていうから」
だからこそ、海とともに生きてきた者として、津波の恐ろしさ、高台に逃げることの大切さを多くの人に知って欲しいと願う。「どんどん被災地観光に来てほしい。そして教訓にしてほしい。それが自分を守ることになるんだよ」。
 女性は大きな声で、やや早口で言うと、話をこう締めくくった。

 「あんたも他人事じゃないよ。よく見て帰りなさい」
民の声新聞-ヤマザキ③
民の声新聞-ヤマザキ②
民の声新聞-ヤマザキ①
(上)(中)仙石線・野蒜駅に隣接するヤマザキデイ

リーストア。津波によって大きく損壊した

(下)東名運河に架かる橋。柵は大きくグニャリと曲

がったままだ=東松島市野蒜

【駅舎は高台に移転して2015年再開へ】

 沿線が津波の直撃を受け、いまだ、松島海岸駅~矢本駅間でバスによる代行輸送が続く仙石線。かつて線路が敷かれていた場所には敷き詰められていた石が散乱し、枕木も見当たらない。代わりに、割れた食器など、津波に襲われた住宅で使われていたであろう生活用品の破片が多数、散らばっている。少し歩いてみたが、盛り上がった土がわずかに線路だったことを思わせる程度で、見る影もない。ホームは一見、大きな損傷はないように見えるが、電柱が大きく傾くなど水の破壊力の大きさが伝わってくる。

 野蒜駅舎の2階には「現ルートで早期復旧を」と書かれた横断幕が掲げられているが、既に高台移転が決定。野蒜駅、東名駅を含む約3.5kmの区間が、山側に移動する。2年後の2015年度中の運行再開を目指し、復旧工事が進められている。新しい線路や駅舎を建設するための土地はJR東日本が東松島市から購入。これまで鉄道用地として使われてきた土地は市がJRから買い取ることを定めた覚書が昨年4月に取り交わされている。

 踏切だった場所を過ぎ、野蒜小学校に向かう。

 移転して授業は再開しているため、もはや子どもたちの姿はない。代わりに仮設の郵便局が建てられた。校舎の一階部分は至る所がベニヤ板で覆われている。津波は防波堤を越え、防風林をなぎ倒し、運河を越え、線路も越え、住宅を破壊しながら少し内陸に入った校舎にまで達したという。

 東松島市によると、震災で1100人以上の市民が亡くなり、一部損壊も合わせると、全世帯の97%にあたる1万4564戸が損壊した。うち、5499戸が全壊だった。
民の声新聞-仙石線③
民の声新聞-仙石線④
民の声新聞-仙石線①
(上)大打撃を受けたJR仙石線

(中)ベニヤ板でふさがれた野蒜駅の駅舎

(下)住民の間には現ルートでの復旧を望む声も

あったが、既に2駅の高台移転が決定している


【なぎ倒された防風林、見渡す限りの平原】

 野蒜駅から運河をまたぎ、野蒜海岸方面へ歩く。見渡す限りの平原。あるのは、復旧工事用の重機や資材ばかり。かつては病院もあった。荒々しく削り取られた山の岩肌が見通せるほどだ。
 防波堤のそばまで行くと、大きく曲がった看板が落ちていた。「津波避難路マップ」。津波が起きたら、かんぽの宿や中学校などに逃げるよう記されている。「地震があったら近くの高台へ」とも。校舎が損壊した野蒜小学校も避難先に指定されている。しかし、2年半前の大津波は、人々の予想をはるかに超える高さと勢いで、生活圏を破壊したのだった。

 かんぽの宿はかつて、「海が見える宿」を売り物にしながら、実際は防風林が邪魔して海が客室から見えなかったという。「それが今やオーシャンビューだよ」。地元住民が苦笑交じりに話した。
 1時間に1本の代行バスが来た。その横を〝被災地ツアー〟のバスが通り過ぎて行く。駆け足で体感した津波の猛威。先の女性が見送ってくれた。

 「民宿が4軒、再開してっから、次に来るときには泊まっていきなさい。もっともっと、見て欲しい場所はたくさんあっから」
民の声新聞-野蒜③
民の声新聞-野蒜②
民の声新聞-野蒜①
(上)見渡す限りの平原になってしまった野蒜地区

(中)津波に注意するよう呼びかけていた看板

(下)津波は野蒜小学校にまで達した



(了)

【30カ月目の石巻はいま】被災地に「風化」の文字は無い~今なお深い津波の傷跡

3000人以上の命が津波などで奪われた宮城県石巻市。震災から2年半を経ても傷跡は深く、住宅街には雑草は伸び、仙台とを結ぶ仙石線は一部、バスによる代行輸送が続いている。東京五輪どころでない、いまだ続く震災。市民は、全国からの支援に感謝し、亡くなった人の分まで生きて行くと口にしながら、一方で震災被害と闘う日々を送っている。秋めいた石巻を歩いた。



【「福島の放射能汚染に比べたらまだいい」】

 「当店では、津波がここまで来ました」

 旧北上川近くのCDショップ。店の入り口には、天井を指した矢印とともに、こう書かれている。

 経営者の男性(69)は、街中に押し寄せる津波を、屋上から呆然と眺めていたという。太い樹木も大きな漁船も、軽々と流して行く水の威力に立ちすくむだけだった。

 「もうね、刃物が付いたブルドーザーですよ。次々と破壊し流して行く。車なんてあっという間にぺちゃんこ。もちろん、店内のCDもすべて駄目ですよ。海水の塩分だけでなく泥、油、汚物などさまざまなものが含まれていますからね。ちょうど、震災前から改装工事が始まっていたこととボランティアの方々が一生懸命に掃除をしてくれたおかげで、その年の6月には営業を再開できました」

 あれから2年半。街の中心部はかなり、落ち着きを取り戻した。だが、男性は「震災は現在進行形だ」と話す。
 「やれ『風化させるな』だの、『後世に語り継ごう』だのと言うでしょ?あれは外の人間が言うことだ。われわれ当事者からすれば、忘れ去るどころの騒ぎじゃないよ。風化なんてあるわけないじゃないか」
 知人は、子ども夫婦から預かっていた孫を津波から守れなかったことを今も悔やみ、自分を責めているという。「俺が死ねば良かった、もうあわせる顔がないって言ってるよ。そういう人が震災を忘れるわけがないじゃないか。忘れて行くのは、被害に遭わなかった人。東京とかね」
 そして、思いは福島へ。

 「でもね、我々の敵はまだ見えるから。日々、放射能を考えなければならない心痛は、いかばかりか。同じ東北人でも『食べて応援』なんてできない。オリンピックなんか開催するより、世界の英知を集めて対処しないとね。そう考えれば、福島よりは俺たちはまだましかな。そう思って自分を納得させるしかないよね」
民の声新聞-石巻①
民の声新聞-石巻②
民の声新聞-石巻③
(上)(中)津波で店内が水に浸かったCDショップ。

「ボランティアのおかげで早期再開できた」と経営

者は感謝の言葉を口にした=中央

(下)日和山の放射線量は0.11μSV前後。多くの

人が「ここと違い、放射能汚染がある福島は本当

に気の毒」と話す

【破壊され尽くした石巻湾沿いの住宅街】

 石巻湾にほど近い雲雀野町や南浜町は壊滅的な被害を受けた。辺り一面、緑色に覆われているが「ここは全て住宅だったんですよ。多くの方が亡くなったんです。まだ見つからない方もいらっしゃいますしね」と、護摩供養に参加していた女性が教えてくれた。所々に住宅の土台が見え、生活空間だったことをうかがわせる。市民病院は大きく損傷し、既に解体された。隣接する文化センターも、解体工事が進んでいる。門脇小学校は、揺れによる損傷に加えて発生した火災で、子どもたちが勉強することができなくなってしまった。近くの墓地では、墓石がいくつも倒れたままになっている。
 石巻駅周辺とは光景が全く異なるこの地区。津波で破壊された車が未だに積み上げられている。「これでもかなり減ったんですよ」と警備員。中には、すっかり原形をとどめていない、牡鹿町の消防車もあった。

 波の音が聴こえる。あの時、多くの命を奪う〝凶器〟となった海。日和山の麓に住む男性は「女川原発に何もなくて本当に良かった」と話した。

 「今回はたまたま持ちこたえてくれたけれど、もし福島第一原発と同じようなことになっていたら、ここも全て駄目だったろう。この先も、そうならないとも限らないからね。福島は他人事じゃないですよ」
民の声新聞-津波①
民の声新聞-津波②
民の声新聞-津波③
(上)津波で原形をとどめないまでに潰された牡

鹿町の消防車

(中)数は減ったとはいえ、依然として多くの廃車

が積み上げられている=雲雀野町

(下)一面、緑色の雑草で覆い尽くされた住宅街。

辛うじて残された土台だけが住宅のあった証。石

巻市内だけで3000人以上が亡くなった=南浜町


【亡くなった人の分まで生きることが恩返し】

 食堂や土産物店が集まる「石巻まちなか復興マルシェ」。ここで働く女性(38)も、津波で自宅が全壊し、家族を失った。今も仮設住宅での生活が続いている。

 「数ある観光地の中で、石巻を選んで来てくださることに本当に感謝します。人生の中で、1日でも2日でも石巻とかかわってくださることって、素敵ですよね」
3.11を思い出すと、目に涙が浮かぶ。観光客がカメラを抱えて町を歩いてくれるのはうれしい。町の今の姿を撮影し、多くの人に伝えて欲しいとも思う。「でも、私も含めて地元の人って、まだ当時の写真を見られないですよね」。まだ震災は終わっていない。

 先日、シンガポールの大学生と交流する機会があった。様々な質問を受けたが、中でも「全国からの支援に対して、これからどうやって返して行くか」という問いが印象に残ったという。「今を、この瞬間を生きられない人の分まで生きて行くこと」。女性はそう答えた。
 3000人以上の命が奪われた石巻。町中には、支援に対する感謝の言葉があふれていた。しかし、震災はまだ終わったわけではない。福島同様、永続的な支援が必要だ。
 マルシェの一角で休憩していた観光客の言葉が、建物に響いた。

 「日本人の悪い癖なんだよ。『喉元過ぎれば熱さを忘れる』」

 3.11からもう30カ月。しかし、まだ30カ月。
民の声新聞-津波④
民の声新聞-津波⑤
民の声新聞-石巻④
(上)泥だらけのコピー機が津波被害の甚大さを

うかがわせる事務所

(中)「石ノ森萬画館近くの」自由の女神像も大き

く損傷した
(下)商店のシャッターには、全国からの支援や

ボランティアに対する感謝の言葉が書かれていた


(了)

【29カ月目の福島はいま】原発とともに歩んできた国道6号~原発城下町の現実

原発城下町を象徴する国道6号線。福島第一原発の爆発事故による深刻な汚染が今なお続く。80年代に建てられたアーチの文字が虚しい。「明るい未来のエネルギー」。そして、PRに一役買ったエネルギー館。原発誘致は浜通りに明るい未来をもたらしたのか。国道6号には、耳触りの良い言葉に覆い隠された原発立地地の歴史と事故被害の甚大さが凝縮していた。


【6μSV超のファミリーマート】

 「少し、6号線を走ってみようか」

 取材に協力してくれた男性が、かすかに見える福島第一原発の煙突を指さした。

 浪江町から国道6号線を南下、民間警備員の検問を通過すると双葉町に入った。
 最初に停まってもらったのは、大きな駐車場を備えたファミリーマート双葉町長塚店。半開きになった入り口のドアからは、商品が散乱したままの店内が見える。レジ前にはやはり、2011年3月11日付の新聞。スポーツ紙の一面は、前日に亡くなった坂上二郎さんを取り上げている。浪江町で目にした光景と同じだった。

 車を降りた瞬間から上昇していた線量計の数値は、駐車場の植え込みで6μSVを超した。福島第一原発から約4km。単純換算で年40mSVに達するレベル。このファミリーマートが再び営業を始め、駐車場が来客の車で一杯になる日はいつになるのだろうか。除染を行った場合、汚染物はどこに遮蔽保管するのか。「帰還」への道のりは容易ではない。
民の声新聞-双葉町①
民の声新聞-双葉町②
民の声新聞-双葉町③
2011年3月11日で時間が止まっているファミリー

マート。駐車場の植え込みは6μSVを超した

=双葉町長塚


【原発PR施設は無期限閉館中】

 浜岡原発(静岡県)の周辺を歩いた時と同じ光景だった。

 東京電力の「エネルギー館」。福島第二原発のPRを担ってきた。

 旅行サイト「じゃらん」は、こう紹介する。

 「地域の方々との交流を目的に設立された施設。原子力発電所の仕組みや安全性、原子燃料サイクルについて、コンピューターグラフィック等を駆使して説明している。建物はエジソン、アインシュタイン、キュリー夫人の生家がモデル。館内には幼児が遊べるコーナーも。見学時に説明が必要な場合は事前に予約を。原子力を、楽しみながらしかもタダで学べるぞ」

 西洋風の瀟洒な建物。原子力を「楽しみながら」学べるはずの施設はしかし、原発事故を受けて無期限閉館となった。

 スタジオジブリが公認グッズを施設内の「どんぐり共和国」で販売していたことでも知られる。ファンからの指摘を受け、原発事故が起きる7カ月前の2010年8月、「重大な判断ミスでした。誤解を招くものであり、弊社として、考えが足りませんでした」とする社長見解を発表するに至った経緯がある。
 写真を撮る私を、送迎バスの中から、多くの原発作業員が眺めていた。手元の線量計は1.7-1.9μSVに達していた。
民の声新聞-エネルギー館①
民の声新聞-エネルギー館②
民の声新聞-エネルギー館③
無期限閉館となった、福島第二原発のPR施設「エ

ネルギー館」。手元の線量計は1.7-1.9μSVに達

した=双葉郡富岡町大字小浜字中央

【明るい未来もたらさなかった原発】

 常磐線・双葉駅近くの双葉体育館。ここは、原子力災害時の避難場所に指定されていた。目の前の道路には、福島原発の安全性や有用性をPRするためのアーチが設置されている。1987年度の「広報等対策交付金事業」で建てられたと記されている。

 曰く、「原子力 正しい理解で 豊かな社会」。裏にも「原子力 明るい未来の エネルギー」。

 はたして、福島原発は浜通りに「明るい未来」をもたらしたのか。正しい理解を強いられた町民に、豊かな生活をもたらしたのか。ゴーストタウンと化した街とあまりにも不似合な標語が、原発政策の歪んだ側面を浮かび上がらせている。

 そして、その脇に設置されたアパートの入居者を募る看板。「入居者募集中」の文字は赤い線で☓印がつけられ、すぐ下に、所有者が書いたのだろう「原発と共に歩んだ結果…」と手書きの文字があった。繁栄をもたらすはずだった原発。その原発を受け入れ、共存してきた結果、町は人が住めないほど汚染され、アパートも使い物にならなくなってしまったのだ。
 体育館前の公衆トイレに設置された時計は、午後2時50分頃で針が止まっていた。原発は「明るい未来」をもたらすどころか、双葉町のアパートから入居者を奪った。これが「原発城下町」のいまだ。

民の声新聞-正しい理解①
民の声新聞-正しい理解②
民の声新聞-正しい理解③
(上)「原発の共に歩んだ結果…」入居者を募集す

ることがかなわなくなったアパート。所有者の怒り

が伝わってくる

(中)(下)1987年、原発PR用の交付金で建設さ

れたアーチ。福島原発は、双葉町に「豊かさ」「明

るい未来」をもたらしたか?

=写真は全て、2013.08.07撮影

(了)

【浪江町】20代女性が語る、ふるさとの高線量と避難~汚染や被曝を忘れないで

福島第一原発の爆発事故で全町民が非難を強いられている浪江町。津島地区に生まれ育った20代の女性が、原発事故への怒りや苦しみを語った。中通りに避難して2年半。ふるさとの高線量に触れたがらないメディアにいら立ちが募るという。そして、避難先で浴びる心無い言葉、祖父の死…。女性が大好きだった浪江町の自然を味わう日が来るめどは、全く立っていない。

【「本当の姿を誰も伝えない」】

 穏やかな口調ながら、女性の言葉は怒りに満ちていた。

 「原発事故は風化しつつあります。津島の現状を誰も伝えてくれない。ネガティブなことばかりになってしまうけど、入ったり住んだりできないのが現実なんですから」

 お盆に、一時帰宅をして墓参した。親に連れられて来ていた小中学生は、マスクもせず、素足にサンダル履きだった。汚染が懸念される井戸水に触れ、墓石にかけている姿に、ため息が出た。「復興」や「帰還」など、明るい前向きな話題ばかり伝えるメディアへのいら立ちが募ったという。

 浪江町の中でもとりわけ汚染が酷い津島地区はしかし、事故直後に町民の避難先にされた。浪江駅周辺の比較的放射線量の低い地域が立ち入り禁止になる中、警戒区域が再編されるまで高線量の津島地区には出入りできた矛盾。

 女性の自宅にも、町中心部に住む親戚が、渋滞に巻き込まれながら避難してきた。通常は30分ほどで着くが、4時間かかったという。被曝を避けようと殺到した津島への道路は、実は被曝への道だった。

 「SPEEDIなどの情報が届かないのだから、町民とすれば『とにかく少しでも原発から遠くへ』と考えるのは自然な発想でしょう。町が防災無線で津島への避難を呼びかけたのもやむを得ないと思う」

 区長が書類を手に町外へ避難するよう戸別訪問を始めたのは、3月15日になってからだった。翌16日、嫌がる祖父母を説得し、親戚も含め9人で郡山市へ向かった。その直前、ようやく連絡のついた原発作業員の友人からメールが届いた。「何で早く逃げないんだ!」。でも、と女性は振り返る。「何で逃げないんだと言われても、家に線量計があるわけでなし…。どのくらいの放射性物質が飛んできたのか分からないんだから」。
 とるものもとりあえず、自宅を出た。長い避難生活の始まりだった。

民の声新聞-津島中学校

津島中学校周辺は、依然として2.0μSVを超える

(2013.08.07撮影)


【早い段階で完全防護していた警察官】

 未曽有の揺れに襲われたあの日、女性は相双地区の勤務先にいた。電気も水道も止まり、雪のちらつく中、車中で明かした夜。絶えない余震が浅い眠りを壊した。翌朝、陥没して通れない道路を避けながら、ようやく帰宅した。情報が届かない。とりあえず窓を厳重に閉めることくらいしかできなかった。道路に立つ警察官が完全防護をしていた姿に、一気に緊張が高まった。
 避難先の高校体育館では、プライバシーのかけらもない雑魚寝状態。着替えは体育倉庫。若い女性にはつらい日々が続いた。近所の旅館が提供してくれた風呂に入れたのは、避難から一週間後のことだった。

 やがて、母親の勤務先の上司がマンションの一室をあっせんしてくれたが、一家5人では狭い。結局、女性は一人暮らしを始め、両親と祖母は中通りの別の街に家を借りた。慣れない土地での一人暮らし。孤独感が募るのに時間はかからなかった。

 「仕事をしていても心が不安定だし、家に独りでいるとポカンとしてしまいます」
 女性はそして、被曝だけではない原発事故の悲哀を味わうことになる。

民の声新聞-手紙

仲良くしていた近所のおばあさんは、東京に避難

した。一時帰宅した彼女から届いたはがきには、

次のように綴られていた。「家はもう、住める状態

ではないのよ」

【避難先で浴びた心無い言葉】

 2年半になろうとしている避難生活。自身の避難も含めて「原発事故さえなければ…」と思わされることがしばしばあった。

 中通りで暮らすようになってから働き始めた職場で「何で働いてるの?」と言われた。確かに、6万円を上限に家賃補助は支給されているが、水道光熱費は自己負担。生活費も当然、かかる。いつ、支援が打ち切られるかも分からない。そんな状態の中、福島県外ばかりでなく、同じ福島県民から「原発事故のおかげで楽な生活をしているんじゃないの?」と好奇の目で見られていたことがショックだった。

 「浪江町には、自宅を新築して入居する直前に震災と原発事故に遭い、住めないままローンを抱えている友人もいます。私の両親だって、住宅ローンを支払い続けている。中には、にわかに大金を手にして新車を買ったりパチンコ三昧だったりする避難者もいるでしょう。でも、大半はそうではない。〝警戒区域からの避難者は…〟と安易にひとくくりにしないで欲しいです」

 最後まで津島にとどまることを望んだ祖父は、避難先を転々としたあげく、体調を崩して亡くなった。かつては風邪を引くことも珍しかったが、避難先で高熱を出して入院したこともあった。大好きだったおじいちゃん。女性は涙を浮かべながら「原発事故による避難がなければ、まだ生きていてくれたと思います」と話した。自身も精神的に不安定な状態が続き、安定剤を服用している。
 セミの鳴き声に包まれ、オニヤンマが飛び交っていた津島の夏が大好きだった。目を閉じれば、請戸川の流れが聞こえてくるようだ。「空がきれいだったな。何だか、中通りに来て山や川などの『自然』と遠くなってしまった気がします」。

 バリケードの向こうのわが家。女性の目に再び、涙が浮かんだ。
民の声新聞-津島の商店
津島小学校近くの民家には、東電に対する抗議

の言葉が並んでいる(女性提供)


(了)

【母子避難】母の涙「今まで決断できなくてごめんね」~中2の娘と田村市から兵庫県へ

母は目に涙を浮かべて言った。「今まで踏ん切りがつかず、娘には本当に申し訳ない」─。田村市の母娘が間もなく、被曝回避のため兵庫県へ母子避難する。原発事故から2年5カ月を経ての避難。その背景には、親の看病などやむを得ない事情があった。娘は言う。「福島は人が住んではいけない所。将来は、放射能の危険性を伝える仕事をしたい」。新天地での被曝の危険性のない新しい生活が、いよいよ始まる。


【微量検出でもショックだった尿検査】

 原発事故から半年後の2011年秋。当時、小学校6年生だった娘の尿検査の結果がフランスの検査機関から届いた。放射性セシウム134、137が合算で「0.8ベクレル」。ショックだった。数値上は微量。しかし、母親には娘の被曝回避のために全力で取り組んでいるという自負があった。小学校までは徒歩でわずか10分の距離ながら、無用な被曝をさせまいと毎日、車で送迎した。外遊びは禁じ、外出する際はマスクに長袖。帽子もかぶらせた。校庭での体育の授業は休ませ、食事にも徹底的にこだわった。それなのに…。「そこまで取り組んでいるのにセシウムが検出されて本当にショックでした。東大で受けたホールボディカウンターでの検査は下限値(1ベクレル)以下だったんですが…」と振り返る。
 その年の夏休みには、娘を京都へ単身、保養に送り出した。真宗大谷派の寺院での10日間の保養プログラム。冬休みには母娘で保養に参加した。その時の出会いが、今回の母子避難につながっていく。

 昨年、娘が中学校に進学するのを機に田村市の実家へ移った。田村市は比較的、放射線量が低いが、それでも実家周辺は今でも0.3μSVを超す。しかし、住環境を総合的に考えれば、郡山市内で生活し続けるよりは被曝の危険性は低いと判断した。「私が一番守らなければいけないのは娘です。原発事故はまだ収束していません。そんな中で郡山に住み続けると、被曝のリスクが重なりますからね」

民の声新聞-21世紀記念公園

郡山市の「21世紀記念公園」。手元の線量計は

0.56μSV。除染作業は終わったが、依然として

高い数値だ=郡山市麓山



【小佐古参与の辞任会見で〝目覚める〟】

 母親は田村市出身の40歳。結婚を機に、郡山市内で暮らすようになった。原発事故当初は、その重大さに気づいていなかったという。

 「山下俊一氏の言葉を鵜呑みにしていました。事故の翌月、娘の通う小学校に文科省の役人が来て、年間被曝線量を20mSVに引き上げるための説明会を開いた時も、意味が良く分からなかった。あるお父さんが年1mSVを順守するべきだと声高に主張していたけれど、ずいぶん熱い人だなと、冷めた目で見ていたくらいです」

 転機になったのは、テレビで見た記者会見。小佐古敏荘内閣官房参与(東大大学院教授)が、辞任と引き換えるように涙を流しながら年20mSVの撤回を訴えていた。そこから被曝の勉強を始めた。わが子を被曝から守ろうと集まった母親グループにも参加して、娘の周囲に被曝の危険が多く存在することを知った。湧き起ってきたのは、原発事故直後、娘の防護に取り組んでこなかった自分への反省だった。食材も水も、福島県外の、それもなるべく遠い産地のものを買うようにした。

 震災の年の秋。娘の通う小学校が校庭で運動会を実施しようとしていることを知ると、「こんな放射線量の高い校庭で実施するなら娘を参加させられない」と校長に直談判した。結局、学校側は保護者へのアンケートを実施。市内の体育館で運動会を行った。「校長先生がきちんと対応してくれたおかげで、娘は最後の運動会に参加できた」。しかし、室内での運動会はこの時だけ。昨年からは再び、校庭での運動会に戻った。「まだまだ放射線量が低くないのに、校庭でお弁当まで食べて…」と表情を曇らせる。
民の声新聞-芳山公園
いまだに0.3μSV超の芳山公園。郡山市内は、

子どもたちを取り巻く被曝のリスクが高い


【「放射能の危険性を伝える仕事したい」】

 「もっと早く福島県外に行くべきだったということは、よく分かっています。そういう声は当然あるでしょう。ここまで決断できず、娘には本当に申し訳ないと思っています」
 これまで何度も避難を考えた。でも、できなかった。震災後、父親が三度の手術を受けるなど入退院を繰り返した。夫の緊急事態にうろたえる母親の姿を目の当たりにし、一人娘としては両親を残しての県外避難を決断できなかった。取材中、何度も娘へ詫びる言葉を口にした。その目は真っ赤だった。
 9月で14歳になる娘は「福島と兵庫では言葉も文化も違うから少し不安かな」と話すが「ママが活動をしている姿を見て、いろんな人の話を聴いて、放射能が危険だと知った。福島は住んではいけない所だと思う」と避難を前向きにとらえている。

 保養先では、デモ行進にも参加。クラスの男子に「脱原発派だよね」と尋ねられると「うん」とはっきり答える。その男の子は「僕のお父さんは原発で働いている。原発のおかげで得た給料で僕ら家族の生活が成り立っているんだから、僕は原発に賛成だ」と言ったという。
 「ももクロ」が好きで、将来の夢はアイドル。だが「放射能の危険性を多くの人に伝えられるような仕事もしたい。アイドルはそういう発言が許されないから」とも。もちろん、母親を恨む気持ちなど、無い。

 いよいよ始まる新天地での生活。福島県外への単身赴任が多い夫も、快諾してくれた。だが、さっそく課題が浮上した。福島県内は18歳未満の医療費が無料。住民票を移してしまうと将来、娘に健康被害が生じても自費負担になってしまうため、住民票は福島に残して行く。その場合、兵庫県内の公立高校の受験資格を得られないのだという。娘は来年、3年生。高校受験は目前だ。

 「引っ越しがひと段落したら、兵庫県に制度改正を申し入れる予定です。私たちは原発事故がなければ避難する必要がなかったんですから」

 母親の言葉を、娘は頼もしそうに聞いていた。

(了)

【浪江町ルポ2013(下)】復興への願いと、汚染ですべてが止まったままの町

高濃度汚染が解消されないまま、3度目の盆休みを迎えた浪江町。乳牛の牧場は再開のめどが立たず、町中心部の道路拡幅工事もストップしたまま。先の見えない「復興」。町内は、伸び放題の雑草と警ら中のパトカーばかりが目立っていた。



【高濃度汚染地帯に避難誘導された町民】

「復興祈願」

赤い字で書かれたのぼりが、何本も風になびいていた。

浪江町津島の津島稲荷神社の参道。

手元の線量計は2μSVを軽く超える。一時帰宅した氏子の住民が設置したのだろうか。本来であれば、夏休み中の子どもたちの姿もあるはずだが、誰もいない。通過するのも警ら中のパトカーばかり。除染すらままならない津島地区。復興への道のりは遠く、険しい。

「あの日を思い出すよ」

取材に協力してくれた男性(59)がつぶやく。未曽有の巨大地震の後に襲いかかった放射能汚染。町民が津島地区に殺到した。国道114号は大渋滞した。実は、町民が誘導された津島地区こそ、町内で最も汚染の酷かった地域だと、町民は後になって知ることになる。

「そういうことも含めて、何事もなかったかのように住民を戻させる。酷い話だよ」

昼曽根地区から南相馬市へ抜ける県道49号の「原浪トンネル」は封鎖されている。2000年に完成したばかりの新しいトンネルだが、南相馬市との行き来は叶わない。手元の線量計は10μSVを超した。単純換算で年80mSVに達するほどの汚染が、原発事故から2年5カ月経っても、浪江町では続いている。
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(上)(中)「復興祈願」と赤くかかれたんぼりの立つ

津島稲荷神社。放射線量は2.3μSVを超した
(下)南相馬市へ抜ける「原浪トンネル」は封鎖さ

たまま。放射線量は10μSVを超した


【地表真上で60μSV超す牧場】

放射能汚染の直撃を受けた酪農業。

乳牛の姿のなくなった酪農牧場は、立派な看板とサイロが目を引いた。車を降り、敷地内に入ると手元の線量計は5μSVを超す。警ら中のパトカーが減速し、こちらの様子をうかがっている。立派な牛舎。しかし、家畜特有の香りはない。

地表に線量計を下して行くと、地表真上で60μSVを軽く上回った。前回も訪れた「津島集乳所」では、雨どい直下で90μSVを超した。これほどの汚染を、除染によって「安全な」数値にまで低減させることなどできるのだろうか。
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牛乳を生産していた「門馬牧場」。敷地内の放射

線量は5μSV超。地表真上では60μSVを上回った

【中断した道路拡幅と再開した常磐道建設】

伝統工芸「相馬大堀焼」の工房の一つに立ち寄った。工芸教室などが行われてきたであろう小屋は激しい揺れで内部が損壊したまま。いくつもの器が割れて散っていた。

放射線量は1-3μSV。二本松市内で製作を再開している職人もいるが、断念した人もいるという。町内には、あちらこちらに立てられた看板だけが残った。

常磐線の線路を超えると、これまでと景色は一変して商店街が広がる。常磐道の開通をにらみ、道路の拡幅工事が行われている最中の大震災。完成間近で工事はストップし、立ち退きに伴って新たに建てられた店舗は、真新しい外観が哀しい。

地元経済界の関係者が、二本松市内で開かれたイベント会場で言っていた。

「常磐道のインターチェンジが出来れば、観光客が多少なりとも町に立ち寄るだろうと。そうすれば観光の目玉が必要になる。そこで、なみえ焼きそばに力を入れたんです」

町内では、常磐道の建設工事が再開した。まずは除染からだが、被曝の心配なく高速道路を利用できるとは到底、思えない。
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(上)(中)汚された「相馬大堀焼」のふる里。二本松

市に拠点を移して再開した人もいる

(下)常磐道の開通をにらみ、道路拡幅工事が行わ

れていた町中心部。拡幅工事は完成寸前で中止。

新築されたばかりの店舗にお客さんが戻る日は何

年後か…


(了)