【30カ月目の石巻はいま】被災地に「風化」の文字は無い~今なお深い津波の傷跡
3000人以上の命が津波などで奪われた宮城県石巻市。震災から2年半を経ても傷跡は深く、住宅街には雑草は伸び、仙台とを結ぶ仙石線は一部、バスによる代行輸送が続いている。東京五輪どころでない、いまだ続く震災。市民は、全国からの支援に感謝し、亡くなった人の分まで生きて行くと口にしながら、一方で震災被害と闘う日々を送っている。秋めいた石巻を歩いた。
【「福島の放射能汚染に比べたらまだいい」】
「当店では、津波がここまで来ました」
旧北上川近くのCDショップ。店の入り口には、天井を指した矢印とともに、こう書かれている。
経営者の男性(69)は、街中に押し寄せる津波を、屋上から呆然と眺めていたという。太い樹木も大きな漁船も、軽々と流して行く水の威力に立ちすくむだけだった。
「もうね、刃物が付いたブルドーザーですよ。次々と破壊し流して行く。車なんてあっという間にぺちゃんこ。もちろん、店内のCDもすべて駄目ですよ。海水の塩分だけでなく泥、油、汚物などさまざまなものが含まれていますからね。ちょうど、震災前から改装工事が始まっていたこととボランティアの方々が一生懸命に掃除をしてくれたおかげで、その年の6月には営業を再開できました」
あれから2年半。街の中心部はかなり、落ち着きを取り戻した。だが、男性は「震災は現在進行形だ」と話す。
「やれ『風化させるな』だの、『後世に語り継ごう』だのと言うでしょ?あれは外の人間が言うことだ。われわれ当事者からすれば、忘れ去るどころの騒ぎじゃないよ。風化なんてあるわけないじゃないか」
知人は、子ども夫婦から預かっていた孫を津波から守れなかったことを今も悔やみ、自分を責めているという。「俺が死ねば良かった、もうあわせる顔がないって言ってるよ。そういう人が震災を忘れるわけがないじゃないか。忘れて行くのは、被害に遭わなかった人。東京とかね」
そして、思いは福島へ。
「でもね、我々の敵はまだ見えるから。日々、放射能を考えなければならない心痛は、いかばかりか。同じ東北人でも『食べて応援』なんてできない。オリンピックなんか開催するより、世界の英知を集めて対処しないとね。そう考えれば、福島よりは俺たちはまだましかな。そう思って自分を納得させるしかないよね」
(上)(中)津波で店内が水に浸かったCDショップ。
「ボランティアのおかげで早期再開できた」と経営
者は感謝の言葉を口にした=中央
(下)日和山の放射線量は0.11μSV前後。多くの
人が「ここと違い、放射能汚染がある福島は本当
に気の毒」と話す
【破壊され尽くした石巻湾沿いの住宅街】
石巻湾にほど近い雲雀野町や南浜町は壊滅的な被害を受けた。辺り一面、緑色に覆われているが「ここは全て住宅だったんですよ。多くの方が亡くなったんです。まだ見つからない方もいらっしゃいますしね」と、護摩供養に参加していた女性が教えてくれた。所々に住宅の土台が見え、生活空間だったことをうかがわせる。市民病院は大きく損傷し、既に解体された。隣接する文化センターも、解体工事が進んでいる。門脇小学校は、揺れによる損傷に加えて発生した火災で、子どもたちが勉強することができなくなってしまった。近くの墓地では、墓石がいくつも倒れたままになっている。
石巻駅周辺とは光景が全く異なるこの地区。津波で破壊された車が未だに積み上げられている。「これでもかなり減ったんですよ」と警備員。中には、すっかり原形をとどめていない、牡鹿町の消防車もあった。
波の音が聴こえる。あの時、多くの命を奪う〝凶器〟となった海。日和山の麓に住む男性は「女川原発に何もなくて本当に良かった」と話した。
「今回はたまたま持ちこたえてくれたけれど、もし福島第一原発と同じようなことになっていたら、ここも全て駄目だったろう。この先も、そうならないとも限らないからね。福島は他人事じゃないですよ」
(上)津波で原形をとどめないまでに潰された牡
鹿町の消防車
(中)数は減ったとはいえ、依然として多くの廃車
が積み上げられている=雲雀野町
(下)一面、緑色の雑草で覆い尽くされた住宅街。
辛うじて残された土台だけが住宅のあった証。石
巻市内だけで3000人以上が亡くなった=南浜町
【亡くなった人の分まで生きることが恩返し】
食堂や土産物店が集まる「石巻まちなか復興マルシェ」。ここで働く女性(38)も、津波で自宅が全壊し、家族を失った。今も仮設住宅での生活が続いている。
「数ある観光地の中で、石巻を選んで来てくださることに本当に感謝します。人生の中で、1日でも2日でも石巻とかかわってくださることって、素敵ですよね」
3.11を思い出すと、目に涙が浮かぶ。観光客がカメラを抱えて町を歩いてくれるのはうれしい。町の今の姿を撮影し、多くの人に伝えて欲しいとも思う。「でも、私も含めて地元の人って、まだ当時の写真を見られないですよね」。まだ震災は終わっていない。
先日、シンガポールの大学生と交流する機会があった。様々な質問を受けたが、中でも「全国からの支援に対して、これからどうやって返して行くか」という問いが印象に残ったという。「今を、この瞬間を生きられない人の分まで生きて行くこと」。女性はそう答えた。
3000人以上の命が奪われた石巻。町中には、支援に対する感謝の言葉があふれていた。しかし、震災はまだ終わったわけではない。福島同様、永続的な支援が必要だ。
マルシェの一角で休憩していた観光客の言葉が、建物に響いた。
「日本人の悪い癖なんだよ。『喉元過ぎれば熱さを忘れる』」
3.11からもう30カ月。しかし、まだ30カ月。
(上)泥だらけのコピー機が津波被害の甚大さを
うかがわせる事務所
(中)「石ノ森萬画館近くの」自由の女神像も大き
く損傷した
(下)商店のシャッターには、全国からの支援や
ボランティアに対する感謝の言葉が書かれていた
(了)