桜の季節が訪れた高線量の浪江町~これでも原発事故は過去の出来事か?
全町民が避難生活を強いられている浪江町にも桜の季節が訪れた。福島第一原発の爆発事故から37カ月。桜咲く浪江町に、町民の協力を得て昨年8月に続き入った。ウグイスが鳴き、請戸川のせせらぎが耳に心地よい。しかし、手元の線量計は軒並み10μSv/h前後を示す。現在進行形の原発事故。町民の願いや春の光景とは裏腹に、厳しい汚染の現実が次々と目に映った。
【民家に貼られた怒りの文字】
原発事故から4度目の春を迎えた浪江町は、ウグイスの鳴き声が響いていた。
町立津島小学校へ続く坂道には桜の街道ができ、きれいな花を咲かせていた。美しい浜通りの春。だが、放射線に激しく反応する線量計のバイブレーションに、現実に引き戻される。
国道114号線を進み、浪江町役場津島支所前で車を降りる。手元の線量計は一気に3-4μSv/hにはね上がる。地面に線量計を近づけると、場所によっては34μSv/hに達した。
緩やかな坂道を上がり、津島小学校の校庭に入った。道の両脇では桜が咲いている。原発事故さえなければ、今年もかわいい子どもたちが歓声をあげて登校していたことだろう。
静まり返った校舎。校庭の真ん中に立つと、線量計の数値は4μSv/hを示した。校舎前に設置されたモニタリングポストの数値は3.132μSv/hだった。福島第一原発が爆発しなければ、避難を強いられることもなかった子どもたち。その心情を代弁するように、津島診療所近くの民家には、道路に面した窓に怒りの言葉が掲示されていた。
「仮設でパチンコできるのも東電さんのおかげです」「放射能体験ツアー大募集中!! 楽しいホットスポット巡り 東電セシウム観光」「今日も暮れゆく仮設の村で。友もつらかろせつなかろう。いつか帰る日を想い一時帰宅」…。そして、こんな言葉も「放射能如きにまけてたまるか」。町民たちの悔しさは、想像して余りある。
津島郵便局の入り口には、こんな貼り紙があった。
「郵便局業務すべてが休止しています」
郵便局だけではない。浪江町すべてが放射性物質の拡散で止まったままなのだ。
(上)国道114号線を川俣町方面から向かうと浪江町へ。
許可証をチェックするバリケード手前で、手元の線量計
は3μSv/hを超えた
(中)津島診療所近くの民家。原発事故に対する怒りの
言葉が掲示されているなか「放射能如きに負けてたま
るか」の文字も
(下)町立津島小学校の「なかよし農園」も汚染してしま
った…
【「本当は福島県外で暮らしたい」】
取材に協力してくれた男性は、今月で還暦を迎える。伊達市内のアパートでの避難生活も4年目になった。「近くのスーパーに買い物に行っても知り合いがいない。ああ、避難しているんだなって寂しい気持ちになるよね」。
決して消えることのない故郷への想い。車を運転する時、浪江町の方向を示す標識を目にすると、今でも胸が痛み、涙がこみあげる。帰りたい。帰れない。「復興住宅に入居すれば浪江の人たちと一緒に生活できますよ」と水を向けると、意外な言葉が返ってきた。「復興住宅に入る気持ちはないんだ。町役場のアンケートにも、ずっと『入る意思は無い』と答えてきたんだ」。
相反する想い。その裏には、原発事故による汚染がある。「そりゃ帰りたいよ。でも、僕が生きているうちに帰れるかい?じゃあ、どこに住むか。こうなった以上は、ここまで汚染してしまった福島で暮らしたくないんだよ。仮に0.1μSv/hになったとしてもね。できれば都会でない静かな街で暮らしたい。そう考えているうちに3年が経ってしまったんだ」。先祖代々の墓は町内に残すことに決めた。
東電への賠償請求は、原発事故直後に100万円を受け取ったきり、していない。一度、書類を提出したが「記入に不備がある」として戻ってきたことがある。それから、書類を書くのをやめてしまった。「何が不備だよ。本当に東電のやり方には腹が立つ。僕の周りにも、同じように請求していない人がいるよ」。だからこそ、インターネットで「浪江町民は原発事故をいいことに国や東電にたかっている」という書き込みを目にすると、とても頭にくるという。先日、隣組の集まりが相馬市内で開かれた。全国の避難先から知った顔が集まったが、避難先で新しい住まいを手に入れられたのは3、4人だった。
自宅の庭で、手元の線量計は4μSv/hを超えた。「こんな状況でどうやって町に帰れというんだ。国も行政も、人口流出させたくないから福島に戻すことばかり言っている。住民の健康なんか考えていないんだ」。
自宅の前ではスイセンがきれいな花を咲かせていた。「この前、障子を張り替えたんだ。別に誰が見るというわけでもないんだけど、あまりにもみすぼらしかったからね」。5月の連休中、関東に住む弟が墓参に来る。だが、わが家でもてなすことはできない。
男性はふと「そろそろ東電への請求をしようかな」とつぶやいた。90歳近い母親と二人暮らし。贅沢をしていなくても、生活は苦しい。私は「胸を張って、堂々と請求してください」と言った。男性は少しだけ笑った。
(上)請戸川沿いの道は、10μSv/hを超す個所が珍し
くない
(中)町内では常磐道の建設工事が急ピッチで進めら
れている
(下)男性宅の庭は4μSv/h超。地表真上では20μSv/h
を超す地点も
【目立つ除染作業員の姿】
トンネルを抜け、昼曽根地区へ。南相馬市原町区に続く県道49号線の「原浪トンネル」の手前で、2人の男性が除染作業をしていた。軽く会釈を交わし「体調は大丈夫ですか?」と尋ねると、1人の男性が黙ってうなずいた。回収した草木や土をフレコンバッグに移し替えている。砂ぼこりが激しく舞い上がった。
何度も訪れている同地区だが、東北電力の水力発電所前の土壌に線量計を近づけると、数値は160μSv/hを上回った。周囲の放射性物質が雨などで溜まるのだろうか。請戸川の水面は美しいが、川沿いは軒並み10μSv/hを超えた。これだけの汚染をどのように除染をし、人間が安全に暮らせる状態に戻すのか。「震災前は、秋になると多くの人がマツタケ狩りを楽しんだものだよ」。男性がさびしそうな表情で山を指さした。
二か所目のバリケードで許可証を提示し、町の中心部へと入る。モニタリングポストが4.495μSv/hを示していた国玉神社は、3.11の激しい揺れで社殿が斜めに傾いていた。浪江駅前の店舗も、損壊したまま倒壊の危険を示す環境省のテープが新たに貼られていた。信号は黄色で点滅。一時帰宅した住民が出した廃棄物が、所々に置かれている。
浪江町役場にほど近い六反田地区。雑草が伸び放題になった公園には、かつて東邦レーヨンの工場があったことを記念した石碑が建てられている。手元の線量計は0.25μSv/h。同じ浪江町でも汚染の度合いに大きな差があることを知らされる。では、線量の低い地区だけで町を再開させるのか。これまでの取材では、町に戻ると答えた人はほとんどいなかった。
町内では、中断していた常磐道の建設工事が急ピッチで進められていた。除染作業員の車両も多く目にする。しかし、放射線量が低いとはいえ駅前で0.9μSv/h。わずか3年で状況が激変するはずもない。駅前ではカラスの鳴き声だけが響いていた。町民の苦悩はまだまだ長く続きそうだ。
(了)
チェルノブイリ視察で実感した里山汚染の深刻さ~再開できぬ原木シイタケ農家の怒りと哀しみ
原木シイタケの露地栽培農家も、福島第一原発の爆発事故で甚大な損害を被った。汚された里山、叶わぬ生産再開…。「福島県原木椎茸被害者の会」メンバーで、仲間とともにチェルノブイリ視察を行った宗像幹一郎さん(63)=田村市=が胸の内を明かした。安全・安心ばかりが喧伝されるなか、「再開の目途が立たない原木シイタケ農家のことを忘れないで欲しい」と訴える。
【風評被害以前の問題だ】
「風評被害以前の問題なんですよ。栽培が再開できていないんですから。再開の目途すら立っていないのですから…」
宗像さんの視線の先には、2011年5月4日に撮影された写真があった。キャプションは「〝山アワビ〟と称された厚肉シイタケ4トンの廃棄場所」。
山の斜面に木を組んで植菌。商品として出荷できるまでに、早くても2年を要する。夏の暑さも冬の寒さも乗り越えたシイタケは「アンパンくらいの大きさになる」(宗像さん)。それが福島第一原発の爆発事故から1カ月後には出荷停止処分が下り、全量を里山の一角に埋めた。36年間、田村市でシイタケの露地栽培にこだわり続けてきた宗像さんの哀しみはいかばかりだったか。
「今はハウス栽培も多くなってきて、震災の時点で福島県内の原木シイタケの栽培者は500人くらいだったかな。でもね、味が全然違う。やっぱり自然の中で育つのと人工的に刺激を与えるのとはね。だから露地栽培にはこだわりがあるんだ。僕のシイタケは2000円/kgと決して安くは無いけれど、その分、味の付加価値をつけて届けていたんだよ」
かつて、日本でも有数の原木産地だった福島県。宗像さんも全国にファンができた。原発事故後、「汚染されていても良いから売って欲しい」という声さえ届いた。販売したくてもできない苦しい胸の内を、写真とともに「シイタケ君の独り言」という便りを添えて届けた。
原発事故で、シイタケも原木も全てを失った宗像さん。
「もう一度おいしいシイタケを届けたいが再開できる環
境ではないことを分かって欲しい」と話す
=郡山市桑野の「和cafe ろっきい茶庵」
【「除染?そんなもの無理ですよ」】
福島第一原発の建設が始まると、地元の人々が次々と建設作業員として働いた。これまでの仕事に比べてはるかに日当が良い。「その意味では、いろんな面で原発の〝恩恵〟を受けた」と宗像さんは振り返る。その後、都路村(現在の田村市都路地区)を含む30km圏内が交付金対象となった。宗像さんの暮らす船引町は40km。「原発に対する認識は甘かったね。そもそもきちんと管理されているものと思っていたし、仮に事故があっても40kmにまでは影響が無いだろうと考えていた。まさかこんなことになるとは想像もつかなかった…」。
管理する里山の汚染は、2~4万ベクレル/㎡に達する。シイタケだけでなく、保有していた6万本ほどの原木もすべて廃棄処分。里山の一角に、除染で生じた汚染土のように仮置きされている。事故後、会津地方から1万本の原木を購入したが、これらも同様に汚染されていた。汚染の影響で原木不足となり、単価が1本140円から400円に高騰した。現在も栽培は続けているが、あくまで東電への賠償請求のため。その賠償金も、合意に至ったのは2011年度分のみ。本来なら一律で賠償されるはずが、他県の生産者への賠償金との間に開きがあり、それが被害者の会結成に至らせた。
仲間8人とチェルノブイリ視察を行ったのは昨年9月。スポンサーもなく全て自費。知人のフォトジャーナリストを通じて調整し、ウクライナやベラルーシなどを巡った。里山が危険な状態にあるという話は出てくるが、詳しい情報が得られない。今後、福島で原木シイタケ栽培が可能なのか、農家たちはどうすれば良いのか分からない。「それならば実際にチェルノブイリに行って自分たちの目で確かめて来ようということになったんです。ほんの思いつきだったんだけど、本当に行っちゃった」(宗像さん)。
視察の最大の目的地「ベラルーシ森林研究所」では、所長以下の歓待を受けた。日本からは学者は一人も来ず、取材が来た程度だったからだ。ラフな服装の福島の農家が大会議室に通され、次々と説明を受けた。中でも印象に残っているのは森林除染に関する言及だという。
「除染?そんなもの無理ですよ」
現地では森林除染はせず、逆に植林をして汚染を封じ込める方策をとっていた。山火事が起きて汚染が拡散するのを防ぐために定期的にヘリコプターで薬剤を撒く。現在は森林火災による汚染の再拡散防止が課題となっていた。
宗像さんらがまとめた「チェルノブイリ視察報告書」。
現地では森林除染はせず封じ込める方策をとって
いたという
【もう一度、美味しいシイタケを届けたい】
原発事故から30年近くが経ち、いまだに汚染拡散防止に取り組むベラルーシ。その現実を目の当たりにし、宗像さんは「阿武隈の里山を以前のように利用するには、画期的な処理方法が開発されない限り、まだまだ長い年月がかかるだろう」と語る。
「もう一度美味しいシイタケを届けたいんだ」。再開したい、でもできない…。消えぬジレンマ。「僕らは頑張っている農家の足を引っ張るつもりはないし、流通している農産物は100%安全だと胸を張れる。福島のものは食べて欲しい。でも、現実も知って欲しい。30年先まで再開のめどが立たない農家のことも」
掛け声ばかりの空虚な「安全安心」は要らない、と話す宗像さん。報告書には、ベラルーシ森林研究所主任研究員の興味深い述懐が記されている。
「南ベラルーシからすべての人々を避難させると国民の間に恐怖心が拡がり、国のイメージが損なわれてしまいます。そのために、避難対策は政治的にならざるを得ませんでした。当時、ソ連という国の体裁を守るために情報は隠され、避難対策に問題を残しました」
これはあの時の日本と同じではないか。
(了)
※写真展は4月30日まで、郡山市桑野2丁目の「和cafe ろっきぃ茶庵」で。営業時間は11時から17時。木・日曜日が定休日。問い合わせは同店☎024-932-2569まで。
【37カ月目の福島はいま】美しき汚染地・花見山。客足戻り、被曝への危機感は薄らぐ~福島市
長く厳しい冬が過ぎ、福島県は春真っ盛り。〝桃源郷〟と称される福島市の花見山では、桜やレンギョウなどの花々が色鮮やかに咲き乱れる。しかし一方で、原発事故による汚染が解消されていないのも現実。線量計の数値とは裏腹に、訪れる人々から被曝への危機感は感じられない。現在進行形の汚染から目を逸らし、経済復興へ邁進する様子を象徴的に表しているようだった。
【「1時間くらいなら大丈夫」】
JR福島駅の東口。福島交通の臨時バス「花見山号」乗り場では、定刻の午前9時を待ちきれない観光客が、平日にもかかわらず長い列を作っていた。
「お友達がね、東京から応援しに来てくれたの。福島を」。女性の声は弾んでいた。
「福島市は、そんなに気にする放射線量じゃないよ。食べ物による内部被曝にさえ気を付けていれば大丈夫。ヨーロッパだって0.2(μSv/h)くらいはあるんでしょ」
そう話す女性に呼応するように、知人の男性も「俺はもう、還暦過ぎてるから。それに24時間ずっと花見山にいるわけではないからね。1時間くらいなら大丈夫でしょ」と笑顔を見せた。
ほどなくやってきたバスは、あっという間に通勤電車のようになった。「きれいね」「最高ね」。花見山に近づくにつれて、車窓から見える花々に感嘆の声があがる。同じ景色の中に、宅地除染で生じた汚染土を自宅敷地内に仮置きしている様子も飛び込んでくるが、その話題に触れる人はいない。線量計を手にしているのはもちろん、私一人だ。
「線量、線量と言っても、私たちは放射線量が高いことを分かって住んでいるわけでね…」。NPO法人「花見山を守る会」のメンバーである女性は、少し声を抑えながら話した。「汚染しているのは事実だし風評被害ではないと思うけれども、こうして全国から多くの方が〝復興支援〟と称して来てくださるわけで…。除染もして環境を整えているわけですし。それよりもむしろ、福島県民同士のいがみ合いの方が酷いんじゃないかな。浜通りと、同じように汚染している中通りとでは補償に大きな差があるからね。『何で浜通りばかり手厚く補償されるのか』ってね」。
(上)花見山の麓。駐車場近くの菜の花畑で、手元の
線量計は0.5μSv/hを超えた
(下)桜の木の下でランチを楽しむ親子。30代の夫婦は
「晴天の下で思い切り遊んで放射線に負けない身体に
なって欲しい」と口を揃えた
【思いきり遊んで放射線に負けない身体に】
美しい花を咲かせる桜の木の下で、4人の親子が持参した弁当を味わっていた。
郡山市から来たという30代の夫婦。傍らで2歳と1歳の姉弟がおにぎりを頬張っている。妻のお腹には、新しい命が宿っている。
「放射線量を気にしている人は、もはや福島県内にはいないんじゃないかな。県外に避難しているでしょう。このくらいの線量なら気にしてもしょうがないですよ」。夫は笑顔で話した。妻も「部屋に閉じこもっているくらいなら晴天の下で思い切り遊んで、放射線に負けない身体になって欲しいですよね」。
2歳の娘を連れて観光に来たという千葉県内の30代の母親も「放射線を気にしすぎて家の中に閉じこもっても…。知り合いの子どもは、被曝を気にして屋外で遊ばないために体調が悪くなっていると聞きました」と話した。「そもそも、飛行機に何度も乗っちゃってますしね。飛行機に乗るだけで被曝するんでしょ?」。
観光客を誘導するガードマン。40歳になったばかりという男性の顔は早くも真っ赤に日焼けをしている。「私も地元の人間ですから、放射線を全く気にしていないと言ったら嘘になりますけど、気にしてもしょうがないというか…。以前より放射線量も低くなっていますからね」。
初夏を思わせる暑さの中、山頂まで登ってみた。何人かが私の線量計を一瞥し、表情を曇らせた。
放射線量が低いとはとても言えない花見山。しかし、
原発事故から3年以上が経ち、大勢の観光客が連日
、訪れている
【被曝回避より地元経済?】
渡利地区に暮らす男性は「ここの放射線量は依然として高いんだ。もっともっと全国的に騒いで欲しいよ。最初の頃はテレビのニュース番組で取り上げられたりして話題になっていたけど、渡利も花見山もすっかり口にする人はいなくなってしまったもんね。原発事故の直後はマスクを着用する人も多かったけれど、最近じゃそんな人はいない。忘れちゃうんだね」と語気を強めた。
現実問題として、今も続く放射性物質による汚染。しかし「立ち入り禁止にされてしまったら商売があがったりだ」と話す人も。花の季節に合わせて、公園内には数多くの飲食店や土産物店が出店している。市内で収穫されたキノコやキクラゲが安価で販売され、長い列ができる。混み合うバスを避け、タクシーを利用する観光客もいる。観光資源である花見山を、地元経済活性化の起爆剤としたいという想いは理解できなくもない。
しかし、復興と被曝回避は両輪であるべきだ。命が守られずして復興などあり得ない。公園内には放射線量の掲示は皆無。原発事故直後は、1μSv/hを超す数値がきちんと示されていた。手放しで安全だと言うのは、あまりにも早急すぎる。
(了)
「弁当販売続けて良いのかな…」〜いわき市の女性が抱えるジレンマと故郷・楢葉町への想い
【県外避難するも1カ月で自宅へ】
弁当店を放り出すわけにはいかなかった。雇っているパート従業員たちの生活も考えなければならない。
いわき市内の自宅を離れて1カ月。2011年4月には、身を寄せていた神奈川県内の親類宅からいわき市に戻った。以来、福島県外には出ていない。「娘の被曝の心配?もちろんありますよ。でもね…」。
あの日、幼稚園児だった娘は、高台にある幼稚園の園庭で、他の園児と一緒に送迎バスの中にいた。職員らの判断でバスを走らせなかったことが幸いした。本来なら車で10分ほどで到着できるが、道路が大渋滞して2時間もかかった。ようやくたどり着いた園庭で、娘は母親の姿を見つけるとこう言った。「パパとママ、死んじゃったかと思った」。女性は娘を抱きしめて言った。「大丈夫。大丈夫だから。パパもババも」。
自身は義母と鮮魚店に立ち寄った際に激しい揺れに襲われた。とっさに義母の手を引いて店外に飛び出た。ほど無くして、店内の大きな水槽が音を立てて倒れた。気付けば道路にしゃがみ込んでいた。
避難には、娘のストレス軽減も念頭にあった。原発事故で外遊びができない。ライフラインが寸断され、凍えるような寒さの中、入浴すらままならない。水道水は飲ませず、マスクを着用させた。店も営業どころではない。従業員を集め、とりあえず厨房に残っていた米などの食材を配った。信頼できる従業員に店舗のカギを預け、夫の弟が暮らす神奈川県に向かった。
小学生になった娘は先日、3.11に前後して放送された震災特集番組を激しく嫌がったという。
「チャンネル変えて!お腹痛い」
心の傷も深い。
りは津波被害に遭った家屋もあります」(2013年11月)
(下)女性の実家前の道路は、激しい揺れでアスファル
トが盛り上がった(2013年6月、いずれも女性が撮影)
【福島第一原発建設に参加した父】
生まれ育った楢葉町。
広野町と富岡町に挟まれ、福島第一原発から町役場までは約16kmだ。
原発事故から5カ月後の2011年8月、いわき市内に避難した70代の両親に代わり、初めて自宅を訪れた。広野町で防護服に着替え、地区ごとにマイクロバスに分乗。黒いビニール袋を渡され、それに入れられる分だけ、持ち出しが許された。玄関は揺れの衝撃で歪み、やっとの思いで開けることができたという。
「時間は2時間。通帳や年金手帳など、貴重品を持ち出すので精一杯でした」。両親からは写真の持ち出しも頼まれていた。10年も離れていると、どこに何があるのか分からない。たんすの引き出しをかき分けるように探した。出発前に渡されたトランシーバーから「あと30分ですよ」と急かす言葉が聞こえてくる。防護服の中を汗が伝う。あっという間の一時帰宅だった。
思えば、原発との縁浅からぬ人生だった。
父は福島第一原発の建設に作業員として加わった。「高給を求めて首都圏に働きに行っていた父に『地元で働けて給料も高い』と誘いの声がかかったようです。大熊町出身の母とは、現場で知り合った人を通じてお見合いをしたそうです」
「原発様様ですよね」と振り返るほど町内の道路は交付金できれいに舗装され、過疎の町には似つかわしくないような立派なテニスコートをよく利用した。原発に関連する雇用で生活が成り立っているクラスメートも少なくなかった。
そんな環境でも、原発を疑問視する教師がいたという。「中学生の時、美術の男性教師が反原発をテーマにしたポスターを書かせたのです。もちろん、私も書きました。どんなデザインだったかな…。考えてみれば、すごい授業だったですよね」。
損傷と汚染で住めなくなってしまった実家は、取り壊しが既に決まっている。「もう帰れませんよね。あの頃の、記憶の中にある町ではなくなってしまった。原発建設にかかわった父はあまり多くは語りませんが、いつかこういう日が来ると感じていたのではないでしょうか」。
避難生活が続く両親は、東電から支払われた賠償金には手を付けず、年金だけでつつましく暮らしているという。
高台から勿来火力発電所を望む。海岸沿いの岩間町
は、多くの家屋が津波の直撃を受けた=いわき市
【汚染は現実。風評ではない】
契約更新の年末を迎えるたびに、悩むことがある。経営する弁当店のフランチャイズ契約を継続するべきか。福島で弁当販売を続けていいものか。ジレンマがなくならないという。
「食材は親会社が決めるので私は発注するだけ。西日本産という表記だって、疑い出したらきりがない。娘の食材は内部被曝しないよう気を付けて選んでいるのに、自分で選べない食材で作ったお弁当を販売してお金をいただいている。お前はそんなものを売っているのか、と自問自答が続いています」
原発事故以降、娘には被曝回避のためにさまざまなことを言い続けてきた。8歳になった娘は「雨に濡れちゃいけないんだよね」「魚は食べちゃいけないんでしょ?」と口にするようになった。いわき市は福島県内でも比較的放射線量の低い土地とはいえ、どこまで安心して良いのか分からない。だからこそ徹底的に気を付けている自分が商売では…。答えは出ない。
「だって、汚染は実際にあるわけですから。『風評』というのは、ありもしないことを言い立てることを指すんですよね」
(了)
耳をふさぐ保護者たち~「被曝」や「検査」を口にすると白眼視。郡山市の母親は語る
原発事故の地元なのに、どうしてきちんと向き合わないの─。子どもへの甲状腺検査を呼びかけると白眼視され、被曝を口にすると文句を言われる。原発事故から3年が経ち、現実から目を逸らして生活を続けている大人たちの様子を、郡山市の母親(45)が語った。娘の甲状腺で見つかった無数ののう胞。だからこそ、他の子どもたちもきちんと検査を受けて欲しい。母親の話からは、「福島は安全だ」と自分に言い聞かせて暮らし続ける大人たちの、複雑な心理が垣間見える。
【「忘れたいのに…」と迫った保護者】
ただ呆然とするしかなかった。
PTA役員を務めていることから、100人ほどの保護者の前で被曝や甲状腺検査について話をする機会があった。自宅の庭は、昨年夏の段階で2μSv/hもあった。近所の家族は自主避難先から続々と戻ってきていた。避難先の新潟県からそろそろ戻ろうかと持ちかけられた友人には、戻らない方が良いと話した。こんなに汚染が酷いのに。せめてきちんとした検査を受けて欲しい─。集まった保護者らに呼びかけた。ところが…。
「自宅に電話がかかってきました。あなたの言っていることは間違っていると。被曝のことは忘れたいのに何で思い出させるの?とも言われました」
別の母親からは「本当のことを知った時、落ち込んでしまうから検査は受けない」と言われた。「どうせ親は先に死んでしまうのだからいいじゃん」と無責任な言葉を投げかける保護者もいたという。「みんなに危機感を持ってほしいのですが、耳をふさいでしまっている状況です」。
少しでも健康被害が起こらなければ良いと発言し続けてきたが、最近は少なくなったという。相手の反応にイライラし、心を病むのも馬鹿馬鹿しい。そんな気持ちになるのも無理もない。「それに、自分の子どものことで手一杯ですから」。長女の甲状腺で今、のう胞が増え続けているのだ。
除染が済んだ郡山市内の公園。見にくいが手元の線
量計は0.3μSv/h前後を示した
=郡山市日和田町
【無数ののう胞が見つかった長女】
「まるで〝クモの巣〟のようでした」
エコー写真を目の当たりにしたときの衝撃を、母親はそう表現した。福島駅西口にある「ふくしま共同診療所」。福島県立医大での甲状腺検査は「異状なし」だったが、やはり心配で、当時16歳だった長女に自主的に二次検査を受けさせた。検査希望者が多く、数カ月待った末、ようやく検査にこぎつけた。
結果は「A2」。もはや数えることもできないほどののう胞がエコー検査で見つかった。結果は両親に告げられた後、検査をした医師から直接、長女にも伝えられた。「小児がんを発症する可能性がないとは言えない」。
16歳の少女には酷な結果。長女は3日間、部屋に引きこもり、食事も摂らなかった。「どうせ早く死んでしまうんだ」などと、ツイッターでネガティブな書き込みもした。「原発事故」「被曝」「健康被害」という問題に、母娘が直面した瞬間だった。
思えば震災直後は、屋外で行列に加わるばかりの毎日だった。
当時、スーパーマーケットには開店前から長蛇の列が出来ていた。母親も、長女を連れて午前9時から並ばざるを得なかった。ようやく店内に入れても、目当ての商品が無いことも珍しくなく、わずか数分で別の店舗に移動することもしばしばあった。帰宅するのは午後1時すぎ。放射性物質に関する情報が乏しい中でのこのような日々が、長女ののう胞増加につながったのかも知れないと考えると胸が痛む。
18歳になった長女はその後、定期的に甲状腺検査を受けている。4回目となった直近の検査でも、少しずつのう胞が増加しているのが確認された。「こんな状態なのに、なぜ県立医大はあっさりと『異状なし』と判定したのか?不思議でなりません。共同診療所が開設されたから良いですが、そもそも、郡山市内の病院に電話をかけて甲状腺検査を依頼しても『甲状腺検査はやりますが、2万円です。それに被曝に関する検査ならやりませんよ』と言われるばかりでした」
ガラスバッジを使った個人被曝量測定も、実際には正確な測定がされていないことを実感している。長女も3歳年下の長男も、ガラスバッジを首からぶら下げずに放置していることが少なくない。同級生も、報告書には適当に数値を記入しているという話を耳にする。「これで『健康に影響はない』と言われても…。やはりきちんと二次検査を受けるべきだと思います」。母親は保護者の意識が変わることを望んでいる。
(上)福島県と県立医大が配布している「県民健康管理
ファイル」。うたい文句は「放射線に関する貴重な記録
となります」
(下)ふくしま共同診療所での甲状腺検査の様子
(イアントーマスアッシュ監督作品「A2-B-C」より
(c)Ian Thomas Ash 2013)
【難しかった県外避難】
福島県外への避難も考えなかったわけではない。
「子どもの年齢がもっと低ければ、動けたかもしれません。でもね、結局、戻ってきたら再び放射線を浴びるわけで、そうしたら一時的に避難しても同じような気もして…」
震災の年の4月に予定されていた東京への修学旅行は秋に延期され、部活や学習塾での講習などが目白押しになっていく毎日で、避難のタイミングは逃すばかりだった。九州で暮らす親類が呼んでくれたが、今後の収入や学校のことを考えると動くまでには至らなかった。
「それに、震災直後の世の中は、『福島の人』というだけで冷たい仕打ちをしたものです」
近所の家族は県外に避難したが、転校先の学校で「放射能がうつるから近づくな」といじめられ子どもが不登校になった。福島ナンバーというだけで自家用車を傷付けられたという話も多く耳にした。夫は、福島から赴任して来たというだけで、転勤先の職場でただ1人線量計を持たされた。母親は結局、郡山市での生活を続け、定期的に検査を受ける道を選んだ。
長男は幸いにして多数ののう胞が見つかることは無かったが、姉の状態に思うところがあったのか、中学校に進学した直後の自己紹介で、こんなことを口にしたという。
「僕は30歳で死にます。放射能を浴びて被曝していますから。皆さんさようなら」
子どもたちに深刻な健康被害が生じるのか否か、誰にも分からない。だからこそ、定期的な検査は続けて行こうと考えている。
(了)
【相双地区の3.11】バリケードの前で、仮設住宅で…。汚染解消せぬまま4年目の春へ
今年もまた「3.11」を迎えた。津波や原発事故で故郷を追われた人々が、それぞれの場所で捧げた鎮魂の祈り。その背後にある怒りや哀しみ。そして解消されぬ汚染。飯舘村や中通りの仮設住宅を訪れ、それぞれの「3.11」を取材した。美辞麗句では語り尽くせない現実がそこにはあった。原発事故は終わらない。これからも続く。〝収束〟などとは程遠い福島の実情から目を背けてはいけない。
【あふれる「除染」とフレコンバッグ】
いわき市在住の男性警備員は、いつものように淡々と業務をこなしながら「3.11」を迎えた。
福島県飯舘村。放射線量が高く「帰宅困難区域」に指定されている長泥地区は、村の許可証を提示しないと立ち入ることができない。男性は午前9時から午後5時まで、同僚とともに人の出入りをチェックしている。陽射しはあっても、氷点下の寒風は肌に突き刺さるようだ。道路の両脇には依然として多くの残雪があるが、それでも手元の線量計は1.2-1.5μSv/hを示した。南相馬市の警備会社から派遣されている男性は、高線量下で働きながら、家族を養っている。
「今は雪がこれだけあるから低いもんだよ。ここの斜面なんか15μSv/hあるんだ。バリケードの内側に入りたい?自己責任ですよ」
福島第一原発から約30km。村内は除染作業のダンプカーが行き交い、汚染土を入れた真っ黒いフレコンバッグが至る所に仮置きされている。飯舘中学校に隣接するスポーツ公園の一角には除染作業の拠点が設けられ、作業員の乗用車が数多く駐車されている。一面雪で覆われた水田に、うず高く積み上げられたフレコンバッグは増えて行く一方。設置された看板には「仮仮置き場」と書かれているが、搬出先など全く決まっていない。「仮仮」どころか永久置き場になりかねないのが実情だ。
隣町の川俣町・山木屋地区は、町内でも汚染度がとりわけ高く、除染作業が続いている。幹線道路の両脇に設置されたのぼりが風にはためく。除染業者でつくる組合が、こんな言葉を綴っている。
「帰れる日 思い願って除染作業」
「がんばろう山木屋地区 がんばります除染作業」
を提示しないと立ち入りできない。バリケード近くの地
表真上では、6.4μSv/hを超した
【仮眠とる車中は1-3μSv/h】
村内を案内してくれた男性(41)は、母校である相馬農業高校飯舘校に設置されたモニタリングポストを複雑な表情で眺めていた。靴が埋まってしまうほど降り積もった雪が一帯を覆い尽くしているにも関わらず、放射線量は1μSv/hを上回っている。ここで畜産を学び、生徒会活動にも参加した。高校生活を懐かしそうに話す男性は福島市内のアパートに暮らしながら、村の治安維持に協力する「全村見守り隊」の隊員として、汚染が解消されぬ故郷を見つめ続けてきた。夜勤の際は、車中で仮眠をとるが、持参する線量計の数値は1-3μSv/hに達するという。「累積被曝線量は相当だろうなあ」。
本宮市を拠点とする物流トラックの運転手をしていた男性は、配送先の埼玉県春日部市で原発事故を知った。カーラジオが次々と事故の情報を流す。荷台が空のトラックを運転して会社へ戻り、自宅待機。やがて村内を役場の広報車が廻り、「屋外へ出ないように」と呼びかけ始めた。しかし、男性を含め村民が避難出来たのは、7月になってからだった。なぜいち早く避難を促さなかったのか、当時の村長らの動きには、未だに忸怩たる思いが消えない。
「数百万円の賠償金は、5年もすれば無くなってしまう。早く、村外で安定した生活ができるようにしてほしい」
高齢者の多かった村。癌を患っても比較的元気に暮らしていたお年寄りが、避難生活を始めた途端に体調を崩すようになり、ついには亡くなってしまったという話を耳にした。被曝だけでなく、避難生活による有形無形のストレスが村人たちを少しずつ蝕んでいることも、肌で実感する毎日。先の見えない避難生活。増え続けるフレコンバッグ…。男性は苦笑交じりに言った。
「何でも報道で知るんだから。何がどうなっているのやら…」
残雪をかき分けるようにして除染作業が続けられてい
る飯舘村。村内の田畑には汚染土を入れた真っ黒い
フレコンバッグが仮置きされ、スポーツ公園の駐車場
は作業員たちのマイカーばかり
【国は「帰還は不可能」と宣言を】
祈り。
午後2時46分、白河市内にも黙祷の合図を知らせるサイレンが鳴り響く。小峰城近くにある双葉町の仮設住宅では、寒風の中、町民たちが頭を下げ、手を合わせた。住み慣れた故郷から遠く離れて迎える、3度目の「3.11」。町民たちは「来年の3.11は、仮住まいでは無く復興住宅で迎えたい」と口を揃えた。
50代の男性は、妻や大学生になる2人の子どもを埼玉県戸田市に移住させて、単身、仮設住宅での生活を続けている。「福島では育て上げられない。私はいい。でも、子どもたちは安全な場所へ移したかった。戻すつもりはないし、本人たちも戻らないと言っている」。
男性は終始「許せない」という言葉を口にした。自宅は福島第一原発から約3km。揺れによる損傷はない。あるのは放射性物質による汚染だけ。自宅周辺の放射線量は比較的低いというが「周辺をホットスポットに囲まれているから八方ふさがりさ」
東電からの財物賠償は、減価償却を差し引いた残存価値を基に算出された。建築に5500万円を要した70坪の自宅。東電からの賠償金は4000万円だった。首都圏で同規模の住宅を得ようとすると、1億円は必要だと分かった。「0点に近いな。賠償は矛盾だらけ。馬鹿にされているんだよ、俺たちは」。
男性の怒りは止まらない。国は帰還を目指すと言いながら、町内に除染汚染土の中間貯蔵施設を建設しようと進める。町民には受け入れを容認する声もあるが「こちらから持ちかける話ではない。帰還は不可能と国が宣言し、補償を決めるのが筋だ」と話す。
「いろいろと考えていると、こんな国には住みたくなくなるよ。今すぐにでも海外に行きたい。やろうと思えばできるが、それはそれで悔しいでしょ?」
男性は力なく笑った。美辞麗句では語れない「3.11」が、ここにもあった。
午後2時46分、黙祷を捧げる仮設住宅の双葉町民たち。
〝仮住まい〟が続くまま、避難生活は4年目に突入した
=白河市郭内
(了)
【36カ月目の福島はいま】汚染解消されぬ国道4号沿いを歩く~福島市、二本松市、本宮市、郡山市
「3度目の3.11」を前に、多くのメディアでにわかに取り上げられている福島県。しかし、多くが福島第一原発事故周辺からの避難者ばかりで、依然として高濃度汚染が続く中通りの現状は、ほとんど福島県外に発信されていない。そこで3月6日、福島市の松川駅を起点に、本宮市の五百川駅までを国道4号を中心に東北本線も利用しながら歩いた。原発から60km離れた中通りの、今なお続く汚染や被害の一端。原発事故は現在進行形。昔話ではないことを知って欲しい。
【牧草汚染続く二本松市の酪農家】
「3年かぁ。長かったような、短かったような…。しかし、この状況はいつまで続くものかなぁ」
国道4号から東に2kmほど入った二本松市小沢地区。父親の代から酪農家を続けている男性は、40年以上のキャリアで初めての経験を強いられている。原発事故による放射性物質の拡散で自家生産していた牧草を乳牛に与えることができなくなり、組合を通じてカナダやアメリカで生産された牧草を輸入しているのだ。
「今まで一度も買ったことなど無いのに、1kg70円で買っているよ。それで生産した牛乳の販売単価は1kg100円。これじゃ利益なんて出ないよ。東電の賠償金だって最初の年はすぐにくれたけれど、その後は出し渋っているのか全然もらえてないよ」
男性が広げた書類には、牧草を乳牛に与えてはいけないことを示す「給与不可」の文字が並ぶ。福島県酪農業協同組合が今年1月に行った検査で、男性の牧草(2013年産)から最高で475ベクレルの放射性セシウムが検出された。中には汚染度の低い牧草もあったが、乳牛に与えて良い量が制限されている。これが原発事故から3年になる中通りの現実だ。
福島第一原発から距離にして60km弱。わずか9頭の牛を飼い、日量200㍑ほどの牛乳を生産する小さな酪農家も、依然として原発事故の影響を受け続けている。本当の収束を迎える目途は、全く立っていない。
牛舎の傍らには、アメリカやカナダから輸入した牧草
が並ぶ。汚染された自家生産の牧草は畑に放置され
たまま。処分の時期や方法は決まっていない
=福島県二本松市小沢
【汚染解消されていない本宮市】
本宮市が昨年5月にまとめた「本宮市震災・原子力災害復興計画 第3版」。26ページにわたる冊子の冒頭に、こんな言葉がある。
「現時点では、いつ原子力発電所事故が収束し、環境汚染が解消するか先の見えない状況となっています」
この言葉を裏付けるように、本宮市内には依然として放射線量の高い個所が点在する。五百川駅西側にあるアサヒビール福島工場。同社は工場敷地内の除染は行ったが工場に隣接する遊歩道は手つかずのため、昨年5月に訪れた時と空間放射線量はほとんど変わらない。手元の線量計は0.4-0.7μSv/h。これから暖かくなればここを散策する人も増えてくるが、とても子どもを歩かせられるような場所ではない。
本宮市役所近くの国道4号。道路に面する空き地では、地表真上で3.7μSv/hを超した。市役所から東北道に向かってあるくと市立本宮まゆみ小学校がある。校門前で手元の線量計は0.22μSv/hだったが、これとて決して低いとは言えない数値だ。子どもたちを取り巻く環境は改善されていない。
郡山市との境を流れる五百川河川敷も然り。今は横殴りの雪が降るような寒さで人の姿はないが、線量計の数値は0.4-0.6μSv/h。ここにはモニタリングポストも無ければ、被曝の危険性を知らせる看板も無い。放射線が飛び交う中、もうすぐ春がやって来る。
(上)JR本宮駅近くでは、依然として3.7μSv/hを超す
個所がある=本宮市本宮万世
(中)アサヒビール福島工場前の遊歩道では、0.6μSv/h
を超した=本宮市荒井
(下)本宮市と郡山市の境、五百川の河川敷は0.5μSv/h超
【教師が子どもたちに説く〝安全〟】
断続的に降り続く雪にもめげず、男の子たちが歓声をあげながらサッカーボールを追いかけている。
JR五百川駅からほど近い郡山市の高倉公園。聞けば、小学4年生から6年生の7人。「原発事故直後はマスクをしていた?」と尋ねると、一様に「うん」とうなずいた。
「最近はもう、マスクはしていません。どうして?だってもう数値が下がって大丈夫だから」
10歳前後の子どもたちがどうやって現状を「大丈夫」と判断しているのか。どうしても知りたくて質問した。きっと親と話しているのだろうと思った。しかし、答えは違っていた。男の子たちは口を揃えてこう言った。
「学校の先生が大丈夫と言っています」
男の子たちに礼を言って、公園を後にした。彼らは再び、サッカーボールを蹴り始めた。ため息をついた。教師たちは何を根拠に、子どもたちに「安全」を説いているのだろうか。
そういえば、取材の起点となったJR松川駅近くの商店で、経営者の女性はこんなことを言っていた。
「放射線?気にはなるけど…3年も経つとね、今さらという感じかしらね。ホールボディカウンター(WBC)での検査も大丈夫だったし、何より商売をしているとどこかに避難するというわけにもいかないしね。子どもも大きいから」
店舗の近くには、ようやく始まった福島市による除染を知らせる看板が設置されていた。飯舘村の仮設住宅もある。女性は避難を強いられている村民を思いやる言葉を口にしたが、国道4号から二本松市に向かって歩き始めると、手元の線量計は0.3-0.6μSv/hを示し続けた。浜通りだけでなく中通りだって汚染地なのだ。
間もなく3.11。もう3年。まだ3年…。
(上)男の子たちがサーカーをしていた郡山市・高倉
公園のモニタリングポストは0.261μSv/h
(中)(下)JR松川駅から国道4号に出ると、手元の線
量計は0.4-0.5μSv/hを示した=福島市松川町
(了)
【35カ月目の福島はいま】記録的豪雪に見舞われた白河市内の仮設住宅~双葉町・郭内応急仮設住宅
記録的な大雪は、原発事故でわが家を追われた避難者たちも襲った。観測史上最多の76㎝(2月15日15時現在)もの大雪が降り続いた白河市。JR白河駅近くの双葉町・郭内応急仮設住宅には、大雪から一週間以上経っても多量の雪が残る。間もなく4年目を迎える避難生活。仮設住宅をほぼ1年ぶりに訪れ、住民たちに話を聴いた。
【ドスンと落ちる雪への恐怖】
「本当に怖かったのよ。屋根に積もった雪が固まりになってドスンって。ものすごい音をたてて落ちるのね。家がつぶれてしまうのではないかと思ったわ」
高齢の女性は、玄関先でため息混じりに話した。玄関先は歩くには支障ない程度に除雪がなされアスファルトが顔を出しているが、周囲には多量の雪が依然としてうず高く積み上げられている。今にも泣き出しそうな表情。消え入りそうな声が、女性の恐怖心を表していた。
自治会長の谷充さん(72)によると、郭内仮設住宅では55世帯、約70人の双葉町民が避難生活を送っている。大半が65歳以上。まして「浜通りでは雪はあまり降らないし、積もったとしても2、3日もあれば溶けてなくなってしまう」(谷会長)。白河市民ですら「これほどの大雪は初めて」と口を揃える積雪では、玄関周辺の通り道を確保するのが精一杯だった。別の女性は「建物への被害もけが人もなくて本当に良かった」と話した。
「これでもかなり溶けたよ。今日も暖かいしね。しかしまあ、避難先で今度は大雪とはね…」。入居している男性は力なく笑う。この日は、駐車場に残った雪が重機で取り除かれた。住民らの生活支援のために民間会社から派遣されている「絆支援員」の女性は「駐車場から通りに出る緩やかな坂道が凍結してしまうとお年寄りが足を滑らせる危険があります。若い人と違ってちょっと転んだだけでも大事に至ることがあるので、取り除かれて安心です」と笑顔を見せた。
双葉町の仮設住宅に襲いかかった大雪。1週間以上
を経てもなお、多量の雪が残っている
=白河市郭内、2014年02月24日撮影
【1日も早く落ち着いた家が欲しい】
けが人を出すこともなく大雪にも耐えた仮設住宅。だが、ここが双葉町民にとって安息の住まいになっているか言えば、それは違う。「だってひと部屋三畳半ですよ」。70代の女性は語気を強めた。
女性が夫とともに生活をしている住まいは三部屋。しかし、畳敷きに替えようと畳屋に測ってもらったら、ひと部屋三畳半しかなかった。合わせてもようやく十畳になろうかという程度の広さ。それを実感したのは、孫が遊びに来てくれた時だった。
「夜遅くなってしまったから泊まっていくことになったんだけど、とにかく狭い。やむなく布団を2枚敷き、そこに子ども夫婦と2人の孫の4人で寝てもらったの。あれ以来、来ても早めに帰るようになってしまったわ…」
残雪に囲まれ、女性は遠くを見た。立派な御殿に住まわせてほしいなんて一度も口にしたことはない。平屋建てて良い。孫が気軽に遊びに来られる家に住みたい─。ごくごく当然の願いは叶わぬまま、再び慰霊の日を迎えようとしている。
先日は、仮設住宅に顔を出した伊澤史朗町長と様々な話をした。「町長は『やはり20-30年は戻れないだろう』と言っていたけど、その頃、私は100歳。もう生きていないわよね…。納得なんてできていないよ。だからこそ、一日も早く〝仮設〟ではなく落ち着いた家で生活したいですよ」。
世間では20km圏内の住民に対して「損害賠償長者」と揶揄する声もあるが、夫婦の毎月の収入は年金と精神的苦痛に対する1人10万円の賠償金。避難に伴うまとまった賠償金も、昨年になってようやく支払われたところだ。決して原発事故によって裕福な生活を送っているわけではない。
28日に予定している一時帰宅。揺れによる損傷を免れた我が家はしかし、すっかりネズミの住み家となってしまった。町から支給されるネズミ獲りでは足りず、市販のものを購入して持参する。半ばミイラ化した死骸を始末することを考えると気分が重くなる。「どうして自分の家に帰るのに許可証や検問でのチェックが必要なの?」。頭では分かっていても募る悔しさ。知人は、部屋に侵入していた牛と遭遇し、逃げるようにして仮設住宅に戻ってきたという。以来、その知人は一時帰宅をしなくなってしまった。自宅近くに設置されたモニタリングポストは依然として3μSv/hを超す。目にするたびに毎回のようにため息が出るという。
女性は先日、くも膜下出血で倒れ、九死に一生を得た。後遺症も残らず、新たに見つかった脳動脈瘤も処置してもらった。「寒さのせいかしら、なんだか頭が痛いのよね」。仮住まいでの生活がどれだけ身体に負担を強いているか。これ以上、犠牲者を出してはならない。
(上)(中)重機を使った除雪作業によって、仮設住宅
駐車場の緩やかな坂は凍結の心配がなくなった
(下)集会所に掲示されていた放射線量。0.122-0.160
μSv/h(高さ5㎝)
【今も届けられる支援物資】
取材中、市民団体からの支援物資が届けられた。段ボール箱に入った洗濯洗剤が各戸に配られる。「トイレットペーパーや洗剤を、ずっとこうやって届けてくださるんです。単価は決して高いものではないのかもしれないけれど、値段の問題ではないわよね。気持ちがありがたいです」と住民の女性。「絆支援員」の2人が入居者の体調確認を兼ねて声を掛けて廻る。入居者の外出を促すための朝のラジオ体操は大雪で中断されていたが、間もなく再開される予定だ。
双葉町の2月3日現在でのまとめでは、郭内応急仮設住宅も含め福島県内への避難者は3944人、県外へは3051人。津波に襲われた町民のうち1人の安否が、依然として分からない。郭内応急仮設住宅の谷自治会長は「3月11日は今年も追悼の炊き出しをします。午後2時46分には住民全員で黙祷です」と話す。原発事故による全町民避難から間もなく、4年目の春を迎える。町民たちの住まいから〝仮〟が外される日が待ち遠しい。(了)
【母子避難】「父ちゃんだって苦しいんだ」~郡山で父親の会。集団申し立ても視野に
福島県外へ妻や子どもを逃がしている親父たちが18日夜、勉強会と懇親会を兼ねて郡山市に集まった。除染、母子避難…。母親と比べ、わが子の被曝回避や避難に対してとかく理解が足りないと言われがちな父親たち。依然として放射線量の高い郡山で何を考えながら生活をしているのか、言葉少なながら、随所に本音がこぼれた。俺たちだってつらいんだ─。妻子と離れ汚染地で働く親父たちは、東電への集団申し立ても視野に入れながら、交流を続けて行く。
【職場では苦悩を共有できない】
「除染?終わったとしても子どもたちを郡山に戻すつもりはないね。だいたい屋根は何もしないし…。市の説明会で質問したけど完全に無視された。自宅は0.2μSv/hに達しないくらいにまで下がったけど、近所の家はまだ0.7μSv/hもある。これではとても戻せないよ」。首都圏に子どもたちを自主避難させている男性は、苦笑交じりに語った。
郡山市に生まれ育った別の男性(44)は、2011年9月から、埼玉県さいたま市内に妻と小4と中1の2人の息子を避難させている。「妻から反対はなかったですね。何が大変って、やっぱり生活費が二重にかかることですね」。男性は、低い声でポツリポツリと話す。「大変だけれど、放射線から遠ざけられているという安心感はあります。自分が死んだ後は子どもたちの健康に責任が持てないですからね。今できることをしてやらないと。少なくとも大学を卒業して就職するまでは向こうで生活させるつもりです。その先は、福島に戻ってくるかどうかは子どもの意思ですから」。
「職場の同僚たちと苦悩は共有できないですね」
そう話したのは41歳の男性。妻と4歳、8歳の娘を郡山市から福島県外に逃がしている。40人ほどいる職場の中で、母子避難をさせている男性は自分1人。周囲から理解されるはずもない。「ともすれば『夫だけ残して逃げている自分勝手な妻』と思われかねないですから。それに、仮に理解してくれる同僚がいたとしてもどうだろう?話題に上るかな…」
妻子と離れ離れの〝逆単身赴任〟はもうすぐ2年。収入減を恐れて避難に二の足を踏む男性たちの気持ちは良く分かる。二重家計のなか、妻子だけ逃がすのが精一杯。「避難先の幼稚園に入るのにも地元の住民票がないと駄目。福島に住民票を残しておけば18歳まで医療費は免除されるのに…。せめて制度さえきちんとしていれば、離れて暮らすことも消化できるんですけどね」
福田弁護士の作った資料に目を通す男性。2011年
9月から埼玉県内に妻と子どもを避難させている
【「子づくりする以上、被曝回避と排出は当然」】
50代の男性は、妻と2歳の子どもとともに北海道札幌市内に移住。仕事の都合上、自身だけ週に数回、郡山市に戻ってくる生活。妻は妊娠中。春には新しい命が誕生する。「もう1人子どもが欲しい。子づくりする以上、放射性物質を避け、体内から排出させるのは当然。男の責任です」と語る。
食物を通した内部被曝は徹底的に避ける。郡山に戻る際は、北海道の食材を詰め込んで持参する。「福島の海産物なんて怖くて食べられません」。そして、集まった親父たちを見渡して言った。「やっぱり、横のつながりが必要ですね。男たちで連帯しないと」。
親父の会を主催したのは、郡山の母親グループ「3a! in 郡山」。まもなく原発事故から3年。ようやく実現にこぎつけた。代表の野口時子さんは「お父さんをこういう場に引っ張り出すのは、お母さんを集めるよりも大変。やはり見栄や体裁があるでしょうから」と話す。
会には、宮城県内に小学生の息子を逃がしている母親の姿もあった。
「向こうの中学校への進学を決めました。除染への信頼はありません。戻すつもりはない。将来、『お母さん、何であの時やれることをやってくれなかったの?』と言われたくないんです」
それは、この日集まった親父たちにも共通する想いだ。
親父たちを前に、これまで東電が支払った賠償金や
ADRの問題点などを説明する福田健治弁護士(左か
ら2人目)=郡山市
【郡山市民への賠償金は最大で72万円】
勉強会では、「福島の子どもたちを守る法律家ネットワーク」(サフラン)副代表の福田弁護士が、原発事故以降に支払われた損害賠償金や、ADR(原子力損害賠償紛争解決センター)への申し立てに関してレクチャー。これまでに、東電が郡山市民に対して支払った賠償金は、18歳未満の子どもや妊婦は52万円(40万円+追加賠償12万円)、数日でも避難した場合は72万円(60万円+追加賠償12万円)。それ以外の市民は一律12万円(8万円+追加賠償4万円)だった。
福田弁護士は、問題点として①白河市などの県南地域や会津、福島県外は損害賠償の対象外②賠償が低額すぎる③上記の定額賠償しか応じない④2012年8月末までで賠償を打ち切っている─を挙げた。現在、原子力規制委員会の委員長を務める田中俊一氏は当時、損害賠償の内容を決める文科省の「原子力損害賠償紛争審査会」の委員だったが、福田弁護士によると田中氏は当時から20mSv/年を下回る地域からの〝自主避難〟には否定的で委員会の閉会間際に、自主避難者への損害賠償に反対するメモを読み上げたほどだという。
また、上記賠償以上の損害賠償を求める手段としてADRへの申し立てがあるが、「仲介委員」と呼ばれる弁護士の提示した和解案を東電が受け入れない限り成立せず「東電に和解案の受け入れ義務はない点が最大の問題」(福田弁護士)。センターは原子力損害賠償紛争審査会の一部門で独立性はないため、審査会の決めた賠償指針を大きく逸脱する和解案が提示されることはないという。訴訟を起こす選択肢もあるが、費用や時間がかかる。どの手段を選んでも、被害者より加害者(東電)が優位に立っている現状が説明された。福田弁護士は「債務超過の東電に国が3兆円を超える金をあげて賠償しており、その東電が和解案を蹴るなんてけしからん」と語気を強めた。
「サフラン」はこれまで、区域外避難(自主避難)賠償への働きかけや、福島県との県境で汚染や被曝が指摘されている宮城県丸森町の集団申し立てなどに携わってきた。
福田弁護士は「母子避難をさせて福島に残された夫たちが『父ちゃんだって苦しいんだ請求』をしてもいいんじゃないかと思う」と話し、一定の人数が集まり次第、集団申し立てを起こす意向があることを明らかにした。参加者の一人は「その時はぜひ加わりたい」と応じた。親父たちがいよいよ、動き出す。
(了)
【35カ月目の福島はいま】体調悪化は本当に被曝と無関係?闘い終わらぬ郡山市の夫妻
夫婦に次々と起こった体調悪化に、妻の疑問はふくらむばかりだった。「本当に被曝と無関係なの?」。依然として高濃度汚染が解消されない郡山市で、Aさんは足の痛みと闘いながら東電への訴えを続けている。除染が済んでいない自宅の雨どい直下は16μSv/hを超す。落ち葉掃除が日課だった夫は白内障を患った。2人の子どもは関西に逃がしたが、のう胞や結節が見つかっている。数十年後でもいい、死後でもいいから因果関係を認めさせたいとAさんは語る。
【夫は白内障、妻は足の骨にのう胞】
郡山駅から路線バスで西に約20分。県立郡山高校の校庭では野球部のバッティング練習が行われていた。金属バットが乾いた打球音を発し、別の建物からは吹奏楽部の演奏が漏れ聞こえてくる。震災前から続いているであろう、何気ない日常の光景。ただ一つ異なるのは、校舎の周辺や隣接する西部公園で依然として0.3μSv/hの放射線量が計測されることだ。もうすぐ原発事故から丸3年になるが、飛び交う放射線が子どもたちの健康を害する恐れは消え去っていない。
近所に住む50代のAさんは、県民健康管理調査の結果に釈然としない毎日を送っている。やはり50代の夫と日々の事故後の行動パターンがほぼ同じだったとして、似通った内容の問診票を一緒に提出した。しかし、問診票から推計された外部被曝線量は、あまりにもかけ離れていた。Aさん自身は「4カ月間で1.8mSv」と算出されたのに対し、夫の推計値は「2週間で0.8mSv」と記載されていた。なぜ算出期間が大きく異なるのか。どちらが本当の数値なのか。Aさんは福島県立医大の問い合わせ窓口に電話をかけたが、木で鼻を括ったような回答しか得られなかったという。「一件一件調べられないとのことでした」。
夫妻の体調に異変が生じ出したのは2012年9月頃。2人とも身体に赤い発疹のようなものができるようになった。血液検査をしてもアレルギー反応は認められない。落ち葉の掃除が日課だった夫は昨年3月、甲状腺に結節3つあることが判明、関西の病院で細胞診を受けた。その際、電話予約をしようとすると「福島の方は福島で検査を受けるように」と断られ、ようやく検査を受けられたという。夫はその2ヶ月後から目がかすみ始め、12月に白内障と診断。手術を受けることになる。
Aさんは、足の骨にのう胞が見つかった。初めは左足だけだったが、やがて両足にのう胞が認められるようになった。若い頃、スポーツに打ち込み国体にも出場経験があるAさんは、股関節の病気を患いながらも震災前は走っていたという。それが今はじっとしていても痛みが走り、歩くには杖が必要になった。医師に相談しても加齢が原因だと言われる。被曝の可能性を問うと「そんなこと無い無い」と一蹴されたという。
「今までのう胞が見つかることは無かったのに、どうして元々悪かったからのう胞が出来ただけと言い切れるのでしょうか。被曝の影響ではないかと不安でたまりません」
(上)夫婦のデータが綴じられた「県民健康管理
ファイル」
(中)Aさんの推定外部被曝実効線量は4カ月間で
1.8mSv
(下)だが、夫の線量はわずか14日間で0.8mSv
と記載されている
【わが子の避難と苦い記憶】
東電に治療費を賠償請求したが、半年後の回答は「却下」だった。理由は「郡山市だから」。電話で再三、問いただしたが「20km圏内と郡山市は違う」「既に避難費用として賠償金を支払っており、治療費もその中に含まれる」と一点張りという。たしかにAさん一家は賠償金として1人8万円、計32万円を受け取ったが、当時の書類にも治療費を含む旨の文言は無い。コールセンターのオペレーターに「これだけ放射線量が高いのに、20km圏内と何が違うのか」と尋ねても明快な解答は無し。「汚染された土を郵送すれば証明できますか?」と迫ったが、「できかねます」と上司に取り次ぐことさえしてもらえなかったという。
「郡山高校の側溝は事故後、100μSv/hもありました。自宅の花壇も4μSv/hに達していた。それなのに、なぜ20km圏内と区別するのでしょうか」。Aさんの怒りはもっともだ。
2人の子どもは2011年3月17日、兵庫県内のAさんの実家に逃がした。当時、関西電力関係の仕事を請け負っていた友人からは「子どもだけでも早く逃がせ」と電話で言われていた。ようやく見つけた2席分の航空券を確保し、福島空港から羽田経由で伊丹空港へ。福島空港には、キャンセル待ちの人々が、毛布にくるまるようにしていたという。
避難後、三重県内の会社に就職した息子は、結婚前に婚約者の両親から検査を求められた。「一人娘だし、相当心配だったんでしょう」とAさん。息子の甲状腺からは数えきれないほどののう胞が見つかったが、血液検査では異常は認められなかった。20代の娘も1.6cmの結節が見つかったが、体調に変化はないという。「私の判断は間違っていなかったんですよ」。Aさんの頬が一瞬だけ緩んだ。
原発事故でよみがえった苦い記憶。小学生の頃、同級生に多指症の子どもが2人いた。母親が広島で被爆。1人の健康手帳には「原爆症」と記載されていたという。当時「ピカはうつる」との誤った認識が定着してしまい、誰も2人に近づこうとしなかった。運動会のフォークダンスでも、2人だけは誰からも手をつないでもらえなかった。教師もそれを咎めない。白内障でレンズの厚いメガネをかけていた同級生。原発事故後に当時の友達と会食した際、1人が「えっ?福島から来たの?大丈夫?」と一瞬だが避けるような仕草をした。「ああと思いました。それと同じですよね。当時、私たちがしていたのは残酷ないじめでしたよね」。
わが子を守ると同時に、次の世代への思い。被曝が遺伝しないと本当に言い切れるのか。Aさんがいち早く子どもたちを関西へ逃がした背景には、当時の贖罪もあったのかもしれない。
(上)いまだに16μSv/hを超すA]さん宅の雨どい
直下
(中)別の雨どい直下も4μSv/hを上回った
(下)自宅からほど近い西部公園では間もなく、汚
染された木製遊具が交換される
【数十年後のためにデータ保存】
水俣病など、健康被害が数十年後にようやく認められるケースが少なくない。「私たちも、仮に因果関係が認められるとすれば、死んだ後でしょう。多くの人が亡くなって人数が少なくなってから、ようやく認め始めるのではないでしょうか」とAさん。今できるのは「その時」に備えることだけ、とデータの保存に余念がない。そして、子どもを連れて避難したいと願う親への金銭的補償が早く用意されることを願っている。「20km圏内の方々はきちんと補償してもらっているのに、どうして自主避難には補償がないのか理解できません。避難に要した実費だけでも補償して欲しいです」。
(了)




