民の声新聞 -12ページ目

こっそり変更されていた「定時降下物」測定~〝不検出〟増えたと県庁。それでも専門家は「マスクを」

多くの福島県民が知らぬ間に、測定方法が変更されていた。原発事故以降、日々、公表されていた「定時降下物」。4月から雨が降った日だけに測定・公表されることになった。「従来通り、毎日測定を」と求める声に、数値が下がったと強調する県職員。マスク着用の注意喚起文も削られた。放射線の専門家は言う。「舞い上がった放射性物質を取り込まないよう、やはり子どもたちにはマスクをして欲しい」

【消えた注意喚起の文言】

 突然の変更だった。

 原発事故以降、毎日発表されていた「定時降下物」。福島県原子力センター福島支所(福島市方木田)の2階屋上(地上から約8メートル)に設置された容器(約2000㎠)を毎日、午前9時に回収。ゲルマニウム半導体検出器を使い、容器の底に張った少量の水に降り注いだ雨水や粉じんを約1時間かけて測定。放射性ヨウ素や放射性セシウムの濃度を公表していた。

 測定結果には、「地面が乾燥している時に強い風が吹くと、じん埃が地表面から舞い上がりやすくなります」「被ばく線量の低減や一般的なじん埃の吸入量低減の観点から、土ぼこりが舞うような風の強い日に外出する際は、マスクの使用や帰宅後のうがいなどに心がけましょう」などと注意喚起の文章も添えられていた。

 それが今年4月からは、雨が降った日にだけ測定し、結果が公表されることになっていた。従来より大きい容器(約5000㎠)に溜まった雨水をやはり午前9時に回収。約1日かけて測定する。今月は、これまでに7回測定結果が公表されているが、6日から9日にかけて採取された雨水から1.31メガベクレル/㎢の放射性セシウム137が検出された以外は、すべて不検出だった。

 「最近はND(不検出)が増えてきて、徐々に濃度が下がっている傾向にありました。検出されたとしてもかなり低い。そこで、部内で話し合って全国統一の「環境放射能水準調査」に準じるよう変更したのです。雨は空気中に浮遊している物質を落とす作用もありますから」

 福島県生活環境部・放射線監視室の担当者は説明する。変更によって、測定の下限値を1ベクレル/㎡以下に下げることができたというが、同時に、注意喚起の文言も無くなった。県はマスク着用を呼びかけなくなった。
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「定時降下物」は4月から雨が降った日だけ公表される

ことになった。県庁には苦情の電話もあったという

=福島市方木田


【「毎日、測定して欲しい」と電話も】

 原発事故の収束には程遠い状況にあって、情報公開の観点から問題はなかったのか。測定方法の変更が県民に周知されることはなかった。測定結果も、県ホームページの刷新とともに探しにくくなった。

 「『不検出だとしても毎日、測定して公表してほしい』や『県はなぜ、マスク着用を推奨しなくなったのか』など、お叱りの電話がありました。たしかに情報の出し方、情報公開という意味では不十分でした。不信感を抱かれてしまったことは反省しています」と担当者。現在、大気中の放射性物質濃度をどのように分かりやすく県民に伝えるか、整理しているという。
 たしかに数値は圧倒的に下がっている。

 2011年3月27日から28日の測定では、放射性ヨウ素が2万3000メガベクレル/㎢、放射性セシウム134は不検出、137が790メガベクレル/㎢だった。2012年3月は、最も多い日で放射性セシウムが合算で233.2メガベクレル/㎢、2013年3月は同162.5メガベクレル/㎢。今年3月は同50メガベクレル/㎢だった(放射性ヨウ素は不検出)。

 放射線監視室の担当者も「日常生活という観点では、かなり低くなったと思います。呼吸による被曝の危険性はかなり低くなったと考えています」と話す。「もちろん、数値が低いから良いというわけではありませんし、風の強い日はマスクを着用することで取り込むことを抑えられます」としながらも、本音ものぞかせた。「国からは『必ずマスクをするように』という指示は出ていないので…」。
 さらに、「一つの目安として」と食品検査の基準値を挙げた。「最近の定時降下物は、成人男性が全量を吸い込んだとしても0.07ベクレル/㎡程度。単純比較はできないが、食品の基準値と比べても圧倒的に低いですよね」。

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福島県原子力センター福島支所では大気浮遊じんも

測定されている

【子どもの周囲に点在する「非密封線源」】

 しかし、子どもたちを取り巻く被曝の危険性は、残念ながら大気中の放射性物質ばかりではないのが実情なのだ。

 「確かに大気中の濃度としては下がっているでしょう。それは事実だと思います。でも、今の福島は四方八方から放射線が飛んでくる状況です。それも密封線源ではなく非密封線源。それを誰も話題にしないんですよ。あくまで大気中の放射性物質濃度が下がったというだけで、マスクが不要であるということではないと思いますよ」

 非破壊検査業務や放射線測定の販売・校正をする会社の男性社員は、マスクの必要性を強調する。
 福島第一原発から60km離れた中通りには、事故から3年以上が経過した今も「ホットスポット」と呼ばれる放射線量の高い線源が点在する。男性は、ホットスポットを子どもたちが通過したり、その周辺で遊んだりする際、砂ぼこりなどと共に放射性物質を口や目などから取り込んでしまう危険性を重視しているという。

 「今の中通りは、外部被曝を恐れるような状況ではないでしょう。問題は内部被曝です。内部被曝の恐ろしさは外部被曝の比じゃない。雨などで線源が湿っているうちはまだ良いですが、乾けば舞う恐れがある。子どもたちには、なるべくマスクを着用して欲しいですね」

 先の県職員も「安全だという認識を押し付けるつもりはない。心配であれば、ぜひマスクをして欲しい」と話した。

 夏休みが近づく。マスクの大切さを、改めて親子で考えたい。



(了)

「お金が無くても移住できる姿を示したい」~郡山市から岡山県へ。移住を決意した母親

福島県郡山市の母親(33)が、9月の新学期を目途にわが子を連れ岡山県へ母子移住する。仕事が軌道に乗り始めた夫(38)を郡山に残しての母子移住。マスクも要らない、伸び伸びとした生活がわが子を待っている。生まれ育った故郷への愛着はあるが、子どもの命よりも商業を守ろうとする街には暮らせないという想い。そして、母親は力強く言う。「避難・移住をためらっているお母さんたちに、お金がなくても避難できるという姿を見せたい」


【のう胞見つかり、咳止まらぬ長男】

 決め手は医師の言葉だった。

 「半年ごとに、経過観察のために検査をしていきましょう」

 今春、小学6年生の長男、2歳になったばかりの次男と共に「ふくしま共同診療所」(福島市)で甲状腺検査を受けた。福島県立医大での検査でも「A2」判定を受けていた長男は、ここでもやはり多発性のう胞と診断された。加えて咳が治まらず、風邪かもしれないと病院をいくつか変えてみたか変わらない。湿疹も出始めた。足を骨折したこともある。

 これらの体調不良の原因が原発事故にあるとは、軽々に断言できない。だが、逆に被曝による健康被害ではないとも言い切れない。このまま郡山市で生活していく限り、甲状腺検査と体調不良と付き合っていかなければならない─。妻から突き付けられた現実に、それまで移住に積極的ではなかった夫も、渋々ながら認めざるを得なかった。「俺はすぐには動けないけれど、郡山で頑張って稼いで金を送るよ」。

 当初は長男の中学進学を機に移住しようと考えていたが、のんびり構えてはいられない。震災前から夫が「いずれは島暮らしをしたい」と話していたことも考慮し、温暖で原発立地県でもない岡山県を選んだ。9月の新学期を目途に市営住宅に入居。とりあえずは母子での新生活を始める予定だ。

 「夫は仕事が軌道に乗ってきたこともあり、すぐには動きにくいのは仕方ない。『今の収入を維持しないといけないし、危ないとばかり言っていられない』という想いもあって迷っているようですが、いずれは4人で暮らしたいですね」
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原発事故から3年が経過したが、郡山市内でも地表

真上で1.0μSv/hを超す個所も珍しくない

=郡山市桑野


【ショックだった身内の反対】

 被曝の危険性を口にすると叩かれる。短期間、福島県外の放射線量の低い土地で生活する「保養」でさえも、賛同してくれる人が少ない。「みんな頑張ってるんだから、被曝、被曝と言うなよ」。今回の移住も親類から散々、反対を受けた。

 「まるで私が狂ってしまったかのように身内から言われてショックでした。変な仲間が近くにいるんじゃないかとも…」

 元々、原発問題に関心が高かったわけではない。学生時代も授業で原発が話題になることはなく、爆発事故後も被曝について分からないことが多かったという。

 「確かに無知でした。でもね、普通ではないですよね。体育の授業は屋外で行われない、変な機械(モニタリングポスト)が設置され始める…。長男も鼻血を出したし、マスクに長袖と不自由な生活が続きました。あれから3年経ったけど郡山で生活していくには、念入りに防護しないと被曝は防げません。危険性があるのかないのか、よく分からないのですから…」

 初めて保養に出たのは2011年の夏休みだった。ママ友の誘いもあり、北海道札幌市に1カ月間、長男を連れて避難した。雇用促進住宅に入居、現地の受け入れ団体から、移住を勧められた。札幌滞在中に、群馬県前橋市に問い合わせ、県営住宅への入居を申し込んだ。避難者向けの求人が前橋市内にあることを見つけ、事務員として働いた。

 母子避難を始めてほどなく妊娠。長男が34週目での切迫早産だったことから、医師の勧めもあり、2012年4月に前橋市から郡山市に戻った。 それからは、夏休みや冬休みを利用して、長男を沖縄県などに保養に出した。「いつか福島県外へ」。2人の子育てに追われ、気付けば2年が経っていた。
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郡山駅前のモニタリングポストは0.2μSv/h前後。数

値はかなり下がったが、市内にはホットスポットが点

在する


【自分が成功例となって背中押したい】

 保養の情報を1人でも多くの人に届けたいと、広報紙への掲載を求めて市役所に出向いたこともある。その時の市職員の対応は冷淡だった。「郡山は保養は必要ないんじゃないですか?」。

 現在は、市のホームページで「保養」と検索すると、市民団体が作る「ほよ~ん相談会」のサイトが紹介されているが「もう少し探しやすくして欲しい」と母親は話す。

 郡山での生活を続ける母親を責めるようなことはしたくない、とも。「お母さんたちの前で、声高に保養や移住を勧めるのは気が引けます。ここに住む市民が悪いわけでは無いのですから」。

 だが、自身はどうしても郡山市での生活を続けることはできなかった。街全体が、子どもたちではなく商業を守っているように思えてならなかった。3月末まで利用していた認可保育所のモニタリングポストは0.3μSv/hを超えていた。もしも、他にも移住を考えている母親がいるのなら、自分が成功例となることで背中を押してあげたいと考えている。

 「もちろんお金や仕事は大切です。でもね、お金が無くても、人とのつながりがあれば暮らしていかれるということを示したいんです」


(了)

市民の不安に寄り添わない伊達市~0.5μSv/hでも安全?「0.23μSv/hがひとり歩き」とも

伊達市民が怒っている。小国地区は依然として1.0μSv/hを超す汚染が続き、比較的放射線量が低いとされる市街地でも、仁志田市長が市長選挙の公約に掲げた「Cエリア除染」が中途半端なまま。市幹部は「県内で最も進んでいる」と除染に胸を張るが、一方で0.23μSv/hは実態にそぐわないとして環境省に除染基準の引き上げを要請する動きも。行政は本当に市民の不安に寄り添う気持ちがあるのか。

【いまだ高線量の小国地区、農家の怒り】

 「仁志田(市長)は小国を馬鹿にしている。こんなに放射線量が高いのに、もう安全だと言わんばかり…。小国は人口が少なくて選挙でも大した票にならないから、どうでも良いんだろ。仁志田は大票田の保原しか見ていないんだよ」

 70代の男性は怒っていた。伊達市の東側、相馬市や飯舘村に近い霊山町下小国地区。桃の剪定作業を一時中断し、脚立を下りる。足元には、ピンポン玉ほどの大きさの青い桃が転がっていた。

 「もっとこっちさ来てみろ」。早口でまくしたてる男性に従って移動すると、手元の線量計は1.3-1.4μSv/hを示した。「小国は伊達市の中で一番、放射線量が高いんだ。飯舘村と変わらないだろ?本来はマスクをしていなきゃ駄目なんだ。子どもなんか絶対駄目。1mSv/年どころじゃないよ。いわき市に住んでいる孫は1回も来たことが無い。そりゃそうだよなぁ」。

 男性の自宅は特定避難勧奨地点に指定され、一時、梁川町に避難していた。「もっと避難していたかったさ。でも打ち切られちゃったし、こいつ(桃)もあるしね。仕方ない。戻って来たよ」。

 別の畑では、小国地区に生まれ育ったという男性(65)がキュウリを栽培している。ビニールハウス前で手元の線量計は1.0μSv/hを超えたが、男性は「つい先日、市職員が測ったら平均で4μSv/hだったよ。地表真上で10μSv/h超えた個所もあった」と話した。

 「除染の計画はあるようだけど、具体的な日程は何も決まっていないよ」と男性。キュウリの収穫は、真夏にピークを迎える。「うちは原発事故前からハウス栽培だからセシウムは検出されていない。でも、これだけ放射線量は高いし、不安に感じるのは当たり前じゃないかな。人によって考え方は違うし。一概に〝風評被害〟とは言えないよね」

 もうすぐ4度目の夏。

 先の男性は、桃の剪定作業を再開しながら言った。

 「結局、こんな状態で毎日、農作業をしている。原発事故が収束するには20年も30年もかかるんだろ?そのころには俺は死んじまってるな」

深いしわが刻まれた顔には、苦笑とも泣き顔ともつかない表情が浮かんでいた。
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(上)1.3μSv/hを超す桃畑。生産者の男性は「子ども

には絶対駄目」と憤る

(中)キュウリのビニールハウス前でも1.0μSv/hを超

した。「場所によっては地表真上で10μSv/hに達する

よ」と農家の男性

(下)墓地のすぐ横に設置された仮置き場

=霊山町下小国


【「県内で一番、除染が進んでいる」】

 市民の怒りをよそに、市当局の〝暴走〟は止まらない。

 仁志田昇司市長は「だて復興・再生ニュース」5月22日号に「年間1ミリシーベルト=0.23μSv/hの呪縛」と題したコラムを掲載。「1ミリシーベルトが、今すぐ達成されていないと安心できないという市民の受け止め」「国の示している0.23μSv/hは実態に即していない。年間1ミリシーベルトは0.46~0.5μSv/hだ」などと持論を展開し、0.23μSv/h以下の空間線量を求める市民を暗に批判している。

 また昨年10月、原子力規制委員会の会合に提出された参考資料「『伊達市の除染』について」では、仁志田市長の決断力などによって同市の除染が他市に先行した、としたうえで「仮置き場への、かたくなな抵抗」「説明会100回…でも、誤解が解けない」「0.23μSv/hがひとり歩き」「全体を見ている行政vs自分の家だけの住民」「自分の近くにある放射能忘れた?→単なる迷惑施設」(原文ママ)などと、不安を抱く市民を愚弄しているともとれる表現が並んでいる。

 資料を作成した伊達市放射能対策政策監の半澤隆宏氏は、苦笑交じりに否定する。

 「市民を愚弄?そんなつもりは毛頭ありません。まあ、どう解釈していただいても良いですよ。それは自由ですから。それに、パワーポイントで作った資料なんてそんなものだと思っています。あれは市民向けに公表するものでもないですしね。ある程度、ストレートな表現にならざるを得ない。第一、別の資料でもはっきり書いていますけど、私は住民の協力があったからこそ、ここまで除染が効果的に進められたと思っているんです」

 「伊達市の除染が福島県内で一番進んでいる」「うちほど進んでいる自治体はない」と胸を張る半澤政策監。「自然低減が進んだ今から除染始めても、0.8μSv/hが0.4μSv/hに下がるだけ。しかし、伊達市は早めに取り組んだおかげで3μSv/hが1μSv/hに下がった。これは、福島市や郡山市をはるかに凌ぐ除染効果ですよ。今でも放射線量が高い個所が通学路などに点在していることは承知しています。では、除染をやらずにおいて良かったんですか?やらないよりはやった方が良かったでしょう」

 過去に経験のない未曽有の事故。わずか3年で被曝の危険性や住民の不安感が払しょくできるはずがない。

 「われわれは神でも預言者でもありませんから、安全だとも危険だとも断言できません。分からないのだから、放射線を気にする自由、気にしない自由、どちらも尊重されるべきです。100人いたら100人全員を同じ方向に向かせることなどできませんしね」
 最後に「伊達市は汚染されている、という表現は事実に反するか?風評か?」と尋ねた。半澤政策監はきっぱりと言い切った。

 「風評ではありません。伊達市が放射性物質に汚染されているのは事実です」
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(上)霊山町から保原町に抜ける県道349号線には

0.5μSv/hを超す個所も=保原町柱田

(中)阿武隈急行線・保原駅前のモニタリングポストは

0.39μSv/h

(下)除染土の仮置き場には、保原高校美術部の生徒

が描いた絵がフェンスに掲示されている。「生活圏に

設置された仮置き場の景観が住民に与えるストレスの

緩和策」という


【「Cエリア除染」の公約はどこへ?】

 伊達市は、市内を空間線量の高い順にABCの三つのエリアに分類し、優先順位をつけて宅地の除染作業を行ってきた。
Cエリア(5mSv/年以下、市全体の70%)の保原町に住む女性は今春、市職員による測定で自宅2階の雨どいが4.7μSv/hに達したことに驚いた。だが、もっと驚いたのは「2階はフォローアップ除染の対象外」として手つかずのまま放置されていることだ。

 「住民を馬鹿にする言動ばかり。Cエリアの除染にしても、フォローアップなどというあいまいな表現を使ったと思ったらこれです」と女性。Aエリア(特定避難勧奨地点を含む線量の高い5地域)やBエリア(Aエリアに隣接し、5mSv/年以上)同様に除染を実施するよう求めるのは当然だ。

 仁志田市長は今年1月、市長選挙に際して配布した「後援会NEWS」で「Cエリアも除染して復興を加速」と赤字で明記した。

 さらに当選後の3月市議会で「市民の安全イコール安心ではないという思いに配慮しながら、安心を確保するため、丁寧にやっていきたい」「市民を直接話をする機会があり、何らかの手を打つべきと感じた」と答弁している。

 選挙の公約で掲げ、丁寧に実行するはずが、ここに来て除染の基準を0.23μSv/hから引き上げるよう、福島市、郡山市、相馬市と共に環境省に要請する仁志田市長。広報紙に掲載されているコラム「市長日誌」2014年1月号では、こうも書いている。

 「そもそもヨーロッパでは1キロあたり1200ベクレルが基準だし、毎日食べるのであれば如何かと思いますが、多少基準値をオーバーしていても、美味しい物を食べた方が精神衛生上はいいのではないですか」

 これでは市民の不安に寄り添う政策が実行できるはずがない。


(了)

「震災前の福島に戻して!」~福島市から京都市へ母子避難した女性の切なる願い

その目に涙はなかった。同情や支援を求める言葉もなかった。ただただ、怒りに満ち溢れていた。哀しみが充満していた─。福島市から京都市に母子避難中の40代母親が、放射性物質に汚染された故郷への想いを語った。除染への是非、放射線量の捉え方、国や行政の帰還政策…。福島を取り巻く論争を遠く京都で見つめ、大切な視点が欠けていると指摘する。「国も行政も専門家も、『震災前の福島』を取り戻すために全力を尽くしていますか?」


【福島の汚染は日本全体の哀しみ】

 睨みつけるような鋭い眼光に、怒りや哀しみが凝縮されていた。

 「今、避難者に必要なものは?」「福島から避難しない人々をどう思う?」。自主避難者である自分に投げかけられる問いかけは、いらだつものばかり。

 「避難者支援はもちろん大切です。でもね、一番つらいのは故郷を失ったということなんですよ。福島県民の願いはただ一つなんです。『震災前の福島に戻して欲しい』『震災前の生活がしたい』ただそれだけなんです。炎が燃え盛っている火事場を救わなくてどうしますか?以前の大地を取り戻すことができないのなら、では何ができるのか。何をするべきなのか。すべての議論はそこから始まるべきです」
 事故から3年、世界中の科学者が英知を集結していると言えるだろうか。枝葉末節ばかりが取沙汰される日々。「以前の福島を取り戻すという共通項があれば、県民の分断もなくなると思います」。

 よく語られる言葉に「福島を忘れない」がある。「本来は『忘れない』ではなく『福島のことは忘れられない』ですよね。原発事故は福島県だけの出来事ですか?他人事のように傍観している場合ではありません。あなた自身のこととして考えて欲しいのです。汚染は福島県民の哀しみではなく、日本国民全体の哀しみでなければいけませんよ」。

 力強く言う。「故郷は再生不能ではない」。だからこそ、政治も科学者も真の福島再生のために議論を尽くして欲しい、知恵を絞って欲しいという願い。

 「私の中で湧き起ったものは、怒りではなくて哀しみでした。私たちが失ったものはあまりにも大きいんです」
2011/09/15
2011年9月15日、福島市役所の放射線量は1.18μSv/h

この頃、女性は既に京都市での避難生活を始めていた

【〝0.04μSv/h〟は譲れない】

 自身の避難の動きは早かった。

 福島第一原発1号機の水素爆発の翌日、2011年3月13日に都内に住む友人からメールが届いたことがきっかけだった。「危ない、逃げた方が良い」。15日には県外避難を決意。18日には福島空港から羽田空港行きの飛行機に乗っていた。

 その年の6月まで、東京都西部の西多摩郡で生活。その後、京都市の公務員宿舎に移り住んだ。「いろいろと調べていたら、京都市が福島からの避難者を受け入れていることを知ったんです」。現在は、5歳の一人娘を育てながら、避難者同士、避難者と支援者をつなぐ団体の代表として奔走。2013年5月からは、交流拠点であるカフェも切り盛りしている。

 「私の考えは実にシンプルなんです。震災前の放射線量である0.04μSv/h、これは絶対に譲れない。であれば、福島での生活は不自由だらけです。安全か危険か、ではなく不自由。子どもは屋外で遊ばせられませんしね。でも、ここ京都にはそういった不自由さはありません。不自由な土地から不自由さのない土地へ移り住む。単純明快です」

 さらに、こう言い切る。

 「私は福島市に住むなんてあり得ないと思います。とんでもないミラクルが起きれば別ですけれど…」

 一方で「私の考えは『絶対』ではない」とも。「福島市だけをとってみても、場所によって放射線量に差があります。絶対的な価値判断などないのです。福島から出るも出ないも、どちらの考え方も尊重されるべきです」。

 自宅の放射線量は、原発事故直後の1.5μSv/hから0.3μSv/hに下がった。これを「下がった」と見るか「まだ高い」と見るか。「原発事故以降、私たちはずっと悩んでいるのです。分からないですよ、誰にも。それが今の福島です。だから皆も悩んで欲しい。考えて欲しいんです。原発事故は昔話などではありません」。
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女性が切り盛りするカフェでは、福島の地元紙が自由

に読めるように用意されている=京都府京都市



【帰るべき場所を奪った原発】

 未曽有の震災と原発事故で生き方が変わったという。

 「あなたにとって震災とは何だったのか、これからどう生きて行くか、が問われています。私はやはり、100がゼロになるような社会ではいけないと思う。今に対して責任を持つことが未来を守ることになる。今が良ければそれでいいなどという考えが、福島県民から故郷を奪ったのです。〝持続可能な社会〟を目指すべきではないでしょうか」

 浪江町や双葉町など、浜通りの人々は依然として自宅での生活が許されない。「私には福島市という街がある。帰ろうと思えば帰ることのできる場所がある。でも、浜通りにはそれが無いんです。帰ることのできる場所がなくなったらどうなるか、それを忘れてはいけません」。
 「反原発」などと声高に叫ぶつもりは毛頭ない。「反政府」を掲げて活動する気持ちもない。しかし必要のない避難を強いられ、故郷を離れた1人として「守るべきもの」は何なのか、考えずにはいられないのだ。

 あの日、わが子を守るために西を目指した。

 「避難に〝今さら〟はありません。決断できなかった過去を振り返って責めるのではなく、今後のことを考えましょう。今、決めれば良いのです」
 最後にようやく、女性は優しい笑顔を見せた。


(了)

「避難者の声こそが新たな避難を後押しする」~避難先の東京で避難者の生活安定に奔走する母親

福島市から東京都内に避難して3年。苦労の末自分の居場所を確立することができた母親(31)は、都内に点在し、孤立しがちな避難者のコミュニティーづくりに取り組んでいる。「先に避難した私たちが頑張らなければ、これから避難しようとする人たちが動けない。避難の選択肢は尊重されなければいけません」。避難者自身の声こそ最も説得力がある─。場づくりから避難者の声の発信へ。母親は3人の子どもたちと奔走する。「私自身、本当に助けられた。今度は私が助けたい」


【孤立感癒した地元ママの支え】

 「むさしのスマイル」http://blog.goo.ne.jp/musashino-smile と名付けられたグループは、昨年から月2回のペースで「よらんしょサロン」を開催。福島県からの助成金を活用しながら、福島からの避難者同士だけでなく地元の母親たちとの交流も進めている。

 5月15日現在、東京都内には6400人を超える人々が福島県から避難しているが、情報共有や交流は難しいのが現実。「誰かに悩みを話すだけでも気持ちが楽になりますからね」。活動は9月で丸2年。最近では、若い母親から80代のおばあさんまで、世代や避難元を問わず集まるようになった。交流会に顔を出したら、福島でのご近所さんと久しぶりに再会できた人もいたという。

 「がむしゃらだった」という避難直後。同じように福島から避難した人との交流を求めてインターネットで検索。できる限り顔を出した。自分と同じように情報が届かず孤立感を深めている人と多く出会った。誰もが避難先の地域社会にスムーズに溶け込めるわけでは無い。家賃以外の生活費はすべて自己負担だから公的機関の支援は最大限活用するべきだが、それも人によって差がある。ふるさとを追われるようにして避難した人の中には、負い目を感じて萎縮しているケースも。まずは都内に点在する避難者同士の交流を。そして将来は、避難者自身の声を国や行政に発信できるようにしたいと願う。

 「地元のママたちには本当に感謝してます。出産にも立ち会ってくれた。そういうつながりを、多くの人にもってもらいたいんです」
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女性の生まれ育った福島市飯坂町。飯坂温泉駅前

広場では、手元の線量計は0.3μSv/hを超える

=2014/05/19撮影

【切実な時ほどSOSを発せない】

 「あの時は、放射線の危険性など分かっていなかった。父親も『ここは原発から70kmも離れているから安全』と言っていましたし…。学校で原発の危険など教わったこともなかったです。それこそ〝原発で明るい社会〟を信じていました」

 24歳で上京、ナイジェリア人の夫と知り合い結婚。出産・育児のために実家のある福島市に帰っている最中、巨大な揺れに遭った。浜通りで原発が爆発したことは伝わってきたが、詳細は分からない。しかし、東京で暮らす夫の動きは早かった。2011年3月15日、苦労してガソリンを手に入れた夫が車で迎えに来た。2人のわが子の手を引き、車に乗った。一般道で走ること12時間。避難生活の始まりだった。

 4月には、現在も住んでいる武蔵野市内の都営住宅への入居が叶った。だが夫は、仕事の都合でナイジェリアに長期出張。出産を控えて慣れない土地での新しい生活に、次第に孤立感が深まった。それを救ってくれたのが、地元のママたちとの出会い。出産に立ち会ってもらえるほど親交を深めたことが、現在の活動につながっているという。

 「あの時、助けられた私が、今度は他の避難者を助けたいんです。人って、本当に助けて欲しい時には『助けて』って言えないものなんですよ」

 飯坂町の実家は、いまだに市役所による宅地除染が行われていない。今年正月、わが子を連れて里帰りしたが、持参した線量計の数値は室内で0.5μSv/hに達した。雨どいは2012年夏の時点で17μSv/hに達していた。わずか一泊だったが、放射線のことを考えると眠れなかったという。

 「この街で暮らせば子どもたちがどうなるか…。もし放射線量が低かったら、避難をやめて帰っていたかも知れません。でも現実はそうじゃない。今まで帰ろうと考えたことは一度もありませんでした」
2012年8月

原発事故後、多くの人が福島の子どもたちの県外避難

を求めてきたが、国も自治体も帰還政策をさらに進めて

いる=2012年08月、文科省前


【避難者の声こそ説得力ある】

 国も行政も帰還政策に力を入れ、放射線による被曝の危険性が低くなったことを盛んにアピールしている。5月28日には、福島県が県外避難者向けの住宅支援延長を発表。今後も家賃を支払うことなく生活できるが、それも2016年3月まで。その先は、どうなるか分からない。しかも、住宅支援を受けられるのは既に避難した人たちだけで、これから新たに福島県外に避難する人は家賃も自己負担となる。

 「私たちは被害者です。原発事故がなければ避難する必要なんて無かった。『3年も経って今の福島は安全』と言う人もいるけれど、福島に足を運んで、自分の住んでいる地域との放射線量の違いを確かめてから発言して欲しい。汚染は終わっていないんです。現在進行形です」

 福島に戻そうとする行政、県外避難者の減少を伝える地元メディア…。家賃支援が無くなれば、それを機に避難をやめる人も出てくるかもしれない。

 「だからこそ、先に避難した私たちが帰されてはいけないんです。避難を希望している人が、県外に出られなくなってしまいます。避難者が安定した生活を送れるようになることで、避難の権利が確立される。福島県外に出ることも出ないことも、どちらの選択肢も同等に尊重されるべきですよね」
 「避難者の声こそ、最も説得力があるんですよ」。母親は力強く語った。


(了)



【38カ月目の福島はいま】異口同音に語られる「被曝が不安な人は既に避難した」~福島市、大玉村

「健康被害など無い」と大学生は笑った。クマガイソウを楽しむ観光客でにぎわう里山では、お年寄りが「被曝を気にしないから住んでいる」とつぶやいた。そして、小さな村が翻弄される除染と〝0.23μSv/hの壁〟。地元男性の協力を得て、福島市から大玉村までを車で廻った。福島第一原発から約60kmの中通り。3年経っても汚染は依然として解消されていないが、住民は異口同音に言う。「放射線など気にしていない」…


【「誰も倒れていない」と大学生】

 漫画「美味しんぼ」の騒動でにわかに話題になった福島大学。東北本線・金谷川駅からほど近いキャンパス内は除染が施されているが、学生たちは依然として放射線と隣り合わせの生活を送っている。

 キャンパス内にある「信陵公園」。大学側も「静かで、休憩にはもってこいの場所。小高い丘の上には、東屋があり、散歩コースにオススメ。吾妻・安達太良連峰の山々がとてもきれい」と胸を張る森だが、少し足を踏み入れただけで手元の線量計は0.5μSv/h近くに達した。周囲に放射線量の掲示など何も無い。

 とても学生が散歩を楽しむような環境ではないが、危機感を抱いているのは私だけの様子。大学総務課は「あまり学生が立ち入るような場所ではありませんから」と話す。森の入り口近くのベンチで談笑していた学生グループに声をかけても「放射線ですか?うーん、原発事故の直後は関心がありましたけど、最近はまったく無いですね」と口を揃えた。

 「だいたい、あの『美味しんぼ』の描写には驚きました。私自身、原発事故以降にかなり被曝しているはずなのに、一回も鼻血出たこと無い(笑)。周りでも誰も倒れたりしているわけではないですし…」。女子学生は時折笑みを浮かべながら話す。傍らの男子学生も「被曝、被曝と福島県外の人が騒いでいるという感じですね。先生も授業で『福島は安全だ』と言っています」とうなずいた。

 福大から国道4号をはさんだ福島県立医科大学。モニタリングポストの数値は0.522μSv/h。校内のベンチでは学生が弁当を食べていたが、手元の線量計は0.5μSv/h前後で推移していた。駐車場付近の植え込みでは、0.6μSv/hを上回った。

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(上)福島大学にある信陵公園は、依然として汚染が

解消されていない。しかし学生は「別に気にしていな

いですね」=福島市金谷川

(中)福島県立医大の中庭。近くのベンチでは学生が

弁当を食べていた=福島市光が丘

(下)福島市松川町水原の「クマガイソウ群生地」。土

日はボランティアスタッフが休憩できないほどの人出

だという


【「不安な人は既に避難した」】

 東北自動車道・福島松川パーキングエリアのさらに西。福島市松川町水原の里山は、「クマガイソウの里まつり」が開催されているとあって、カメラを手にした観光客でにぎわっていた。お目当ては斜面一面に咲いた約7000株のクマガイソウだ。ラン科の多年草で絶滅危惧種に指定されている。福島市によると、野生クマガイソウの群生地は、全国に3か所しかないという。

 「2011年は山は開けたけれどイベントは自粛しました。来てくれた人には案内をしようと毎日、会員がここに来ていました。特製の絵葉書を用意してね。あれから少しずつ、観光客が戻って来ました。この辺りは当初から放射線量は低かったんですよ。まあ、気にする人は気にするだろうけれど…」。ボランティア団体「水原の自然を守る会」の男性会員は話した。
 「俺たちは避難せずにここに残って生活しているからね。放射線は気にしていないよ。不安に感じている人は既に、避難してしまったろう」とも。女性スタッフに放射線
のことを尋ねると、急に表情が曇って口も重くなってしまった。「この辺りは放射線量は高くないからねえ」。

 観光客が息を切らせながら山道を登り、満開のクマガイソウに感嘆の声をあげる。山の向こうは土湯温泉。手元の線量計は0.24μSv/hだった。
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(上)国道115号に面する「道の駅・つちゆ」。土湯温泉

周辺は比較的放射線量が低い=福島市松川町水原

(中)「ふれあい村民の森」に設置されたモニタリングポスト

(下)森に少し入ると、手元の線量計は0.3μSv/hを超えた。

大玉村も汚染とは無関係ではない=安達郡大玉村前ヶ岳

(写真はすべて05/20撮影)

【村役場悩ませる「0.23μSv/hの壁」】

 福島第一原発から約60km。二本松市や本宮市、郡山市に囲まれた安達郡大玉村。人口8500人足らずの小さな村も、いまだに放射性物質の拡散に翻弄されている。

 「雨どいの真下や水の溜まる場所など、局所的に1-2μSv/hに達する個所は、やはり村内にもあります。現在の放射線量が高いか低いかは住んでいる方々各人の判断になるかと思いますが、村としては放射線量が0.23μSv/hを下回ると除染はできないのです。国から交付金が下りないからです。村の財政だけではとてもできませんから…」

 村役場の再生復興課原発災害対策係。取材に応じた男性幹部は〝0.23μSv/hの壁〟に苦い表情を見せた。「もちろん、村民からの苦情もありますよ。何でやってくれないのかって。0.01μSv/hでも下回れば除染できないわけですから。逆に『この程度の数値なら除染しなくて良いよ』という声もあります。本当に、放射線量の捉え方はそれぞれです」

 村役場から車で10分ほどの「ふれあい村民の森」。8ヘクタール超の広大や里山の入り口に設置されたモニタリングポストの数値は0.348μSv/h。手元の線量計も、森に少し入ると0.3μSv/hを超えた。子どもを遊ばせるには決して安全とは言えない数値。役場近くで聴いた、女性の言葉が思い出された。

 「お母さんたちはもちろん、心の中に不安を抱えているとは思います。実際、そういう話題も出ます。しかし、私たちはここで暮らすと決めました。役場もきちんと除染をしてくれていますし、大丈夫ではないでしょうか」



(了)

【38カ月目の福島はいま】漁師町に交錯する「復興への願い」と「福島産忌避への共感」~相馬市

海産物で相馬市を盛り上げたいけど、食べたくないという心情も理解できる─。福島交通などの企画「福島バス物語」を利用して相馬市を訪ねた。自ら被災したタクシー運転手に案内してもらいながら、海鮮料理店で漁港で、復興への願いと「福島産」を避ける不安感への共感という、相反する想いが交錯する現実に接した。



【試験操業と海の男の本音】

 初夏のような暑さの中、相馬市原釜地区の相馬港では、試験操業から帰港した漁船からタコやカレイなどが次々と水揚げされていた。漁船が接岸すると男たちがクレーンを使って魚の入った樽のような容器を陸に揚げて行く。パレットに乗せられた樽はフォークリフトで放射性物質の検査場へ運ばれる。

 「現在、ミズダコや毛ガニ、コウナゴ、アカガレイなど31の魚種が安全が確認され水揚げされています。本来、漁業は二泊三日くらいの日程で行いますが、今は朝、船を出して昼過ぎには帰ってくる状態です。水揚げされている魚は、水深135メートルより深い海域で獲られたものです」

 相馬双葉漁業協同組合の職員は、安全性を強調した。「市場に流通している魚は、すべて検査をクリアしたものだから安全です。もちろん、全匹を調べるわけにはいかないけれど、泳いでいる海域は同じなのだから、サンプル検査で十分です」。

 しかし、原発事故直後から高濃度汚染水が海に流出し続け、今も解決できていない。福島県内のみならず、周辺県で水揚げされた水産物から100ベクレル/kgを超える放射性セシウムが検出されているのが実情だ。

 「もちろん、どれだけ検査をして国の基準値を上回る数値が出なかったとしても、それでも福島の魚は食べたくないと言う人はいるでしょう。それは仕方のないことです。それぞれ考え方がありますし、第一、原発事故以降、国や行政が様々な情報を出してこなかったのですから。公表される情報への不信感は強いですよね」

 海の男たちは黙々と水揚げ作業を続ける。フォークリフトを運転していた初老の男性は、苦笑交じりに本音を語った。

 「原発事故で海が汚され、忘れた頃に汚染水の問題が起きる。全国の人々は、福島の魚は危ないと思ってるんだろうね。俺もこういう状況では、孫にはここの魚はちょっと食わせられないな。俺はもうこの歳だから良いけどね。孫には将来があるからなぁ」
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相馬港では、タコやカレイなどが水揚げされていた。

相馬双葉漁協の関係者は「これから検査をします。

基準値以内のものしか流通させません。自信を持って

出しています」と話した=相馬市原釜



【おかみさんの苦悩と共感】

 相馬市尾浜にある海鮮料理店は、平日というのに順番を待つ列が出来ていた。「予約をしないと駄目ですね。特に土日は相当待ちますよ」とタクシー運転手。海鮮丼は、相馬原釜漁港で水揚げされたタコのほか県外から取り寄せたエビやホタテ、マグロ、タイ、カンパチの刺身が盛りつけられている。これにコウナゴの佃煮とアサリの味噌汁が付く。
 「何が事実で何が誤解かなんて、実際には分からないですよね」。夫と共に店を切り盛りする女性(58)は、客でにぎわう店内で冷静に語り始めた。
 「今回の『美味しんぼ』の騒動だって、描いてあることは事実無根ではないのでしょう。もちろん、復興を進めている人にとっては風評被害だということになるのでしょうけれど…」
 大地震と原発事故から3年。「頑張るしかないんです」と話す。「頑張るしかない。でもね、時々思うんです。本当にこれで良いのだろうか、本当に福島の魚を売って良いのだろうかって。本当のことが分からないのだから、対処のしようが無いですもの」
 以前、実家のあるいわき市で今回のような原発事故がいつか起こり得るという話を聴いたことがあった。そして、残念ながらそれは現実のものとなった。「ここで暮らして行く以上、復興も押し進めなければいけません。でも、本当の数値はどうなんでしょうか。自分らは良いけど子や孫たちは…。とにかく数値を全てオープンにして消費者の方々に判断していただくしかないですよね」

店が忙しさを増し、短いインタビューは終わった。おかみさんは、最後にこう話した。

 「私も東京で生まれ育って母親になっていたら、やっぱり福島産を子どもには食べさせないと思います。気持ちは良く分かります」

 まるで、わが子を守ろうと奔走する母親たちへのメッセージのようだった。
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甚大な津波被害を受けた原釜地区。市場や住宅が波

に飲み込まれた。市は新たな建築に適さない「災害危

険区域」に指定している。タクシー運転手の自宅も津

波の直撃を受けた

【自身の被災伝えるタクシー運転手】

 2時間ほど市内を案内してくれたタクシー運転手(58)は2011年3月11日、勤務するタクシー会社の休憩室で休んでいる時に大きな揺れに襲われた。

 「とっさに逃げ口を確保しようと扉に向かったんだけど立っていられない。四つん這いになってようやく開けることができたよ」

 父親が海岸線近くに建てた自宅は、胸の高さほどの波が直撃し、一階部分が激しく損傷した。1年9カ月余の避難所生活。毎日のように自宅に通って片付けた。気付けば、防風林などで遮られていたはずの視界が完全に開かれ、自宅から波しぶきが丸見えになった。津波の威力を思い知った瞬間。先の見えない日々に慣れない避難所生活で体調を崩し、病院に通った時期もあった。「あの頃は、毎日がどん底でした…」。今では高台に自宅を再建し、体調も落ち着いて両親、妻と穏やかな毎日を送っているという。

 「福島バス物語」が今年4月から始まり、期せずして震災の語り部となった。案内した乗客は私で3人目。「いくら安全だと言っても、文字ではなかなか伝わらないからね。やはり足を運んで現場を体験して欲しい。相馬市に来てもらえば分ってもらえるかな」。

 終始、にこやかな表情だった運転手が、涙を浮かべたようになった瞬間があった。津波の直撃を受けた住宅地を訪れた時のこと。

 「ここで波に飲まれた幼い兄妹が見つかったんですよ。お兄ちゃんが妹をかばうように手をつないでね…」

 もう3年、まだ3年。大地震も原発事故も過去の出来事にはなっていない。現在進行形の哀しみや苦悩がある。



※「福島バス物語」は、高速バスや路線バスとタクシー乗車券や施設利用券がセットになった日帰り旅行プラン。福島県内の路線バス会社4社で構成する「福島県観光二次交通連絡協議会」が運営している。今回、利用した「相馬復興! 海鮮丼とタクシーパック」は22あるコースの一つ。バス代、タクシー代、海鮮丼代込みで7550円。

(了)



【「美味しんぼ」と風評被害】当事者不在の不毛な言い争いに辟易する東京の福島県人たち

週刊ビッグコミックスピリッツ(小学館)に連載中の漫画「美味しんぼ」の描写を巡り、福島県や双葉町、果ては大阪市までが抗議を申し入れる事態にまで発展した「風評被害騒動」。鼻血が放射線被曝に由来するのか否か。そんな不毛な言い争いに、東京都内の福島県人たちは一様に辟易した表情を見せた。漫画家がどう描こうとも、原発事故で放射性物質は拡散した。被曝の危険性が依然として存在することは事実だ。地に足のついた被曝回避、復興を望む声が聞かれた。



【福島では毎日毎日が渦中】

 「『美味しんぼ』の影響ですか?いえいえ、まったくありませんよ。漫画のことも鼻血のことも口にするお客さんはいません」

 東京駅八重洲口近くの「福島県八重洲観光交流館」。田村市に生まれ育ったという50代の女性スタッフは困惑気味に話した。「2年前、初めて東京に出てきた時は、冷たい反応に驚かされたものです。陳列されている果物を指さして『検査しているの?』って聞かれました。心配なら買わなければ良いだけだと思うのですが…。『ここで販売して良いのか』と詰め寄ってくる人もいました。今はもう、そういう人はいないですけどね。認識が深まったのと関心が低くなったのと両方なんでしょうね」。

 今回の騒動は、テレビの報道で知った。「あゝまた騒いでるな、って思った程度ですよ」。

 福島県内で暮らす妹は、わが子に福島県産食材を食べさせまいと県外から野菜などを取り寄せている。漫画の描写が正しいか否かを外野で言い争っている間にも、福島では否応にも原発事故の影響から逃れられない日々が続いているのだ。

 「東京と福島とでは温度差がありますよね。福島で起きてはならないことが起きてしまって、それを東京の人々は離れたところから見ている。でも、福島では毎日毎日渦中にいるんです。妹がそうであるようにね」

 田村市の実家に戻ると、その温度差を口にする人が多いという。

 「政治家でも誰でも、みんな一度、福島で実際に生活をしてから物を言って欲しいですよ」
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東京駅からほど近い、八重洲観光交流館。女性スタッフ

は「『美味しんぼ』の影響なんてありません」と話した


【一喜一憂している暇は無い】

 福島県は5月12日、ホームページに見解を掲載した。

 「『美味しんぼ』の表現は、福島県民そして本県を応援いただいている国内外の方々の心情を全く顧みず、深く傷つけるものであり、また、本県の農林水産業や観光業など各産業分野へ深刻な経済的損失を与えかねず、さらには国民及び世界に対しても本県への不安感を増長させるものであり、総じて本県への風評被害を助長するものとして断固容認できず、極めて遺憾」

 7日には発行元の小学館に対し「偏らない客観的な事実を基にした表現とされますよう、強く申し入れます」などと申し入れている。

 「佐藤雄平県知事の出したコメント以上でも以下でもありませんよ。こちらから積極的にコメントするべきことでも無いですし」

 JR新日本橋駅近くにオープンして1カ月が経った「日本橋ふくしま館-MIDETTE(ミデッテ)」。運営する福島県観光物産交流協会の男性職員は、うんざりした表情で話した。

 「福島市内には妻も息子も住んでいますし、私もこれまで生活して来て鼻血など出たことがありません。もちろん、作家の方は取材して描いたのでしょうけど。正直なところ、こういうことに一喜一憂している暇は無いんですよ。不安な人は福島から離れていただくしか無いわけで…」

 そして、次のように語って締めくくった。

 「もうウンザリなんですよ。復興に向けて歩き出すと、こういう話や汚染水の話が出てくる。ちっとも前に進めない」

 吐き捨てるような言葉。奇しくも福島市役所の職員が語った内容とほぼ同じだった。
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風評払拭を目的に4月にオープンした「日本橋ふくしま

(MIDETTE)」では、福島県産の米や野菜、日本酒な

どを販売している=東京都中央区日本橋室町

【放射性物質の拡散は事実】

 「ミデッテ」の女性スタッフは、いわき市出身。「ここで販売している商品はすべて検査を受けていますから、ある意味日本一安全ですよ」と笑顔で話した。「福島の生産者がどれだけ苦労をしてるか…。向こうのスーパーで働いていた時は、放射性物質を含んでいる恐れがあるからと陳列寸前に回収され、廃棄処分された野菜もありましたからね。そのくらい一生懸命に取り組んでいるんですよ」。

 しかし、今回の騒動のように汚染や被曝の危険性を伝える表現を「風評だ」と封じるような動きには反対だとも強調した。

 「原発事故で放射性物質が降り注いだのは事実ですよね。だから本当のことを伝える必要があります。『美味しんぼ』は、あれはあれで良いと思う。鼻血が出たのも事実なのでしょう。本当のこと、事実を伝えて、その上でどうしていくかを考えないと。原発は日本全国にあるんです。福島の事故は他人事ではないんです。次にあのような事故が起きてしまったら、日本は終わりですよ」

 だからこそ目の前の現実から目を逸らしてはいけない─。

 「福島で暮らす人々が一番、冷静なんじゃないですか。県外の人々ばかりが騒いでいる感じ。だって、福島では今日も日々の暮らしがあるんですから」



(了)



【38カ月目の福島はいま】深刻な汚染解消されぬ「小鳥の森」。福島市は除染できるのか?

福島市のオアシスのような「小鳥の森」。野鳥や草花を通して春の息吹を感じることができるが、福島第一原発の爆発事故から3年が経過しても、深刻な高濃度汚染は解消されていない。管理する市は年度内の部分除染を計画しているが、森林の除染など現実的には不可能であることは職員も認めるところだ。汚染が続く森を今年も歩いた。放射性物質に汚された森の今と、森を愛する市民の哀しみに接した。


【もう味わえない山の幸】

 福島駅東口から福島交通の路線バスで約15分。バス停「岡部」で下車し、ほどなく歩くと「小鳥の森」の入り口だ。緩やかな坂道を上がっていくと、手元の線量計は0.3、0.4、0.5μSv/hと数値が上昇していく。しかし、上がり切った駐車場に設置されているモニタリングポストの数値は0.324μSv/h。それもそのはずだ。ポストの周囲だけ、きれいな白っぽい砂に入れ替えられている。見かけの数値だけを下げる姑息な手法が、住民の不信感を招くいい例だ。

 遊歩道を進むと、炭焼き小屋がある。「ここでの炭焼きは山形県から調達した木材と、震災以前に倉庫で保管されていた木材を使用しています」との貼り紙。周辺では、手元の線量計が0.7-0.9μSv/hと高い数値をを示す。双眼鏡を手にバードウォッチングを楽しんでいた男性は「放射線量はどのくらいですか?0.7(μSv/h)くらい?1.5くらいあるかと思ったけど。この辺りの住宅街は除染をしても0.7くらいは普通にありますからね…」と再び双眼鏡を覗いた。

 新緑の隙間から、春の陽光が降り注ぐ。半袖シャツでいいくらいの気温。60代と思しき夫婦が森林浴を楽しみに訪れていた。

 「ここの新緑が大好きなんだよね。この森はね、シメジや山菜などが何でも採れたんだよ。原発事故前まではね。真冬以外は年中、山の幸を楽しめたんだ。もはや汚染されてしまって食べることはできないけれども…」と夫。妻も「楽しみが全部なくなってしまったよ。こんなに素晴らしい森なのに、今でも放射線量は高いんでしょ?私たちも知らぬ間に被曝してしまっているかも知れないね」と表情を曇らせた。
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(上)市あぶくまクリーンセンター側の入り口では、手

の線量計は0.7μSv/h

(下)周囲を除染したモニタリングポストの数値は0.3-0.4

μSv/hだが、森に一歩、足を踏み入れると0.9μSv/hを超す


【部活止められなかった教師の悔恨】

 「これはトチノキですよ」

 一眼レフカメラを手にした男性(66)が教えてくれた。福島市に生まれ育ち、高校教師としての生活を終えたばかり。「これはイカリソウだね」と指さしながらレンズを向ける。しかし、彼には一つの後悔があった。

 原発事故直後の校庭。野球部員たちが土煙をたてながらスライディングの練習に励んでいた。降り注いだ放射性物質が、舞い上がった砂とともに口に入ったであろうことは容易に想像がつく。

 「まずいな、と思いましたよ。私の専門は物理ですから一定の知識はあります。やめさせろと何度も顧問に言おうと思いました。でも言えなかった。その時、私は既に定年後の再雇用講師でしたし、口にできる雰囲気でもなかった…」

 職員室でも、屋外での部活動の実施に疑問を投げかける教師は皆無だった。そこで、授業で生徒たちに呼び掛けた。「お前たちが声をあげろ。自分たちの不利益になることには黙っているな」。

 教壇に立ち始めた70年代、福島第一原発で金属損傷の一つである「応力腐食割れ」が問題となった。独自に資料を作り、授業で生徒たちに原発の危険性を説いた。今回、久しぶりに当時の資料を使って授業を行った。「先生、原発なくなったら電気困っぺ?」。地元で原発事故が起きても、そんな声があった。他の単元もあり、原発事故ばかり取り上げるわけにもいかない。無力感ばかりが募ったという。。
 「あの時、(部活を中止しろと)言えば良かった…」

 躊躇している間に、福島県立医大の副学長に就任した山下俊一氏らが県内を巡り、あっという間に安心感を広めて行った。「あの動きは本当に早かった」。森を覆い始めた新緑を見上げる。大好きな里山。3年前の苦い記憶は、消えることはない。
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(上)草花の撮影に来ていた元高校教師の男性。原発

事故直後の部活動を中止できなかったことを、今も悔

いている

(下)森のスタッフが定期的に測定している放射線量は、

依然として1.0μSv/hを上回る

【「森の除染など無理だと思う」】

 福島市農林整備課によると、小鳥の森ではこれまで、ごく一部分を除いて除染は行われていない。森のスタッフが継続的に空間放射線量を計測しているが、依然として1.0μSv/hを超す。来年3月末までの工期で森林内の除染作業を予定しており、入札を実施中だ。
 昨年は応札者がなかったという。実施業者が決まったら、観察広場からシジュウカラの小径、ネイチャーセンター付近までの森を除染することになる。
 「レンジャーの方々から、除染作業は営巣が終わる7月以降にして欲しいとの要望が届いています。放射能対策アドバイザーである石井慶造教授(東北大)の助言を受けながら進めて行きます。落ち葉などは市内に2カ所あるクリーンセンター(ごみ焼却場)で燃やします。汚染拡散ですか?ええ、大丈夫です。セシウムはバグフィルターできちんと吸着させますから」

 しかし、現実問題として森の除染など可能なのか?チェルノブイリ原発事故で汚染されたベラルーシでは、除染は行わなかった。

 前出の市職員が打ち明ける。「確かに、森林の除染はできないと思います。無理でしょうね。今回も、あくまで生活圏の森林という位置づけですから。一方で、小鳥の森のファンの方々からは『なぜ市は早く除染を行わないんだ』とお叱りの言葉をいただく。正直、市としても苦しいです」。
 小鳥の森は素晴らしい森だ。親子で歩けば様々な勉強になる。だが、とても子どもたちを連れて行かれる環境にない。職員は「はい、そうですね」とうなずいた。来春も、子どもたちの自然観察は叶いそうにない。


(了)

「私だって娘と県外移住したい」~3年間我慢した福島市の母親、封印を解く時は来るか?

原発が爆発事故を起こした直後から、汚染地を離れたいという気持ちをずっと抱えてきた。夫は反対した。仕事も辞められなかった。でも消えない「ここに娘と住み続けて良いのか」という葛藤─。福島市の母親(39)が移住への想いを語ってくれた。娘が小学校を卒業する前に移住を決意しようと思う。だがそれは、移住に後ろ向きな夫との別れを意味する。迷いは当然。すぐに答えは出ない。こんな非情な選択を迫る原発事故。これもまた、福島の現実だ。



【口にできない被曝への不安】

 原発事故以降、山梨県内の保養プログラムに定期的に参加している。現地で土いじりをしていると、小学3年生の娘が無邪気に尋ねてくる姿に涙がこぼれるという。

 「この花、摘んで良い?」「タンポポは触って良いの?」

 本当は福島から少しでも遠くに行きたい。保養のたびに「このまま福島に帰らずに移り住んでしまおうか」と考える。幸い、娘の甲状腺検査は異常なしとされる「A1」。検査結果にはひとまず胸をなでおろしたが、今後も福島市での生活を続けて良いのか、懸念は払しょくされない。
「友達にも本心は言えません。被曝の懸念や避難のことを、ここでは口にしなくなりました。山梨の保養スタッフだけですね、本音を口にして相談できるのは…」
 封印した被曝への不安。娘には免疫力を下げないようにと昔ながらの食事を作るように心がけてきた。他人に不安を悟られまいとする生活で、知らず知らずのうちに疲労を蓄積していたのだろう。娘を連れて山梨にまで保養に出かけると、ふっと力が抜けて何も出来なくなってしまうという。本音を隠し、気を張った福島での生活。保養の最終日に涙がこぼれるのも無理はない。

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放射線量が高いのは、何も特殊な場所ではない。子

どもたちが毎日、自転車で登下校をする場所も、被曝

の危険が十分にあるのだ

=福島市の文知摺橋


【夫の反対と職場の混乱がネックに…】

 あの時、夫は真っ先に避難に反対した。「避難?この子の学校はどうするんだよ?」。娘は新学期から幼稚園の年長になろうとしていた。夫の両親との同居は震災前から決まっており、自宅の改修も進んでいた。同居を心待ちにしていた義父母、完成間近の二世帯住宅…。本音を封印するには十分すぎる環境だった。

 仕事も障壁となった。専門職のため代わりがいない。震災後の混乱の中がむしゃらに働いたが、本当は避難したかった。何人かの先輩が、仕事を捨てるように福島県外に避難して行った。「こんなときに逃げるなんて…」。同僚たちは、避難した先輩たちへ露骨に敵意を示した。「実は私も…」。何度、この言葉を口にしようとしては飲み込んだだろう。

 「とても避難を言い出せる状況ではなかったです。人手不足で混乱し、おまけに私は今の職場に転職したばかり。仕事を辞めるなんて不可能でした」。山形県に避難した友人から「こっちにおいでよ」と何度も誘われたが、「うん」とは言えなかった。

 気付けば3年。仕事に子育て、日々の生活に忙殺されて、ふと原発事故のことも放射線ことも忘れる瞬間があるという。「ついつい、流されそうになる自分がいるんですよね」。

 県外の避難先から福島市に戻ってきたママ友もいる。国や行政のアピールが奏功したか、街は原発事故などなかったように日常生活を取り戻した。今年の3.11、メディアはこぞって震災特集を組んだが、新聞もテレビも観なかった。観たところで、娘を放射線量の低い土地に連れて行ってあげることはできない。
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小学生たちの登校風景。福島駅西口のモニタリング

ポストの数値は下がったが、通学路の放射線量は依

然として高い。安心するにはまだ早い


【移住に傾く気持ち、消えぬ迷い】

 「ここのお母さんたちは、普通に暮らしているように見えても何らかの不安を抱えているんです。時間が経つにつれて口に出しにくくなってますからね。外からでは分からないんです」

 自分もその一人…。

 しかし、我慢も限界だ。封印してきた避難への想いが、いよいよ頭をもたげてきた。

 「これから決意するとしたら、もはや短期避難ではなく移住になるでしょう。夫と一緒に移住することは無理ですから、母子2人での移住になるでしょうね」

 思春期を迎えることを考えると、避難を決断するなら娘が小学校を卒業する前しかない。時間がない。あとは自分が踏ん切りをつけるだけ。でも迷う。「娘はパパっ子なんですよ。被曝の不安を抱えたまま福島市での生活を続けるのが良いのか、夫と引き離してでも放射線量の低い土地に移住するのが良いのか…。答えは出ません」。迷いは当然だ。
 夫に内緒で自分の気持ちと向き合う日々。夫に相談すれば反対されることが分かっている。もしかしたら、先回りされて移住できなくなってしまうかもしれない。周囲からは「そろそろ、弟か妹はまだ?」と言われるが、原発事故による汚染が解消されないなかで、子づくりする気持ちにはなれない。「福島県外に出てからでないと、出産なんて考えられません」。
 移住を決意する時、それは夫との離婚をする時だ。非情な選択を女性に迫る原発事故。これもまた、原発事故の厳然たる一面なのである。


(了)