2013年4月27日早朝、某所探索OFF集合前の朝練として長浜市の橋をシバキ回した際に、ひときわ印象に残っているヤツをご紹介。美浜橋から12分後のこと。
今回もタメなく参りますぞ。
サイドビュー。
まあありふれたコンクリ桁橋といわれれば、まあそう見える。じゃあなんで印象に残っているかというと…。
写真をよく見ていただきたい。虹が出ているのがおわかりだろうか。この朝は雨が降ったり止んだり、晴れたり曇ったりと不安定な天候だったのだが、ちょうどこの橋に停まった時の光の具合が、なんというか…とっても神々しい雰囲気で。
まずは、そうそう体験したことのない不思議な感じだったから、というのが大きい。
可憐な菜の花も、
神々しい日差しに照らされて輝いていた。
そこへもってきての、この橋。
擬宝珠を模した親柱と束柱が示す通り、この橋は神社への参道に架かっている。
撮り方をちょっと変えると、
神々しさ三割増し!
実際のこの橋の魅力以上のものが出ていた、といえるかも。実に素晴らしい。でもまあこの橋、停まってよく見ないとついスルーしてしまう類いのヤツやな~。
よく見てくだされ…我が記憶に間違いなければ、高欄は石造だった。
その親柱、まずは向かって右側。
「大明神橋」。
なんという神々しい(すぎる)お名前(笑)。向こうに見える神社は大守神社というのだが、あちらが大守大明神と呼ばれている(いた?)ことに由来するものに違いない。以下、興味のある方はご覧あれ(ポンヌフさんくらいか・笑)。
「社蔵の記録によれば仁賢天皇の御代5年3月に越前国角鹿笥飯宮より分霊を遷宮して奉斎し大守大明神或は大炊森大明神と称し、社領地5町7反歩を有していた。延宝7年の検地水帳並に慶長7年鈴木新五左衛門検地帳に大守大明神境内除地と記されている。松平伊豆守の崇敬厚く定紋入の高張提灯や幣帛の寄進の外浅井久政、同長政、京極氏信等も社領を奉献している。元亀3年織田氏の兵火に罹り社殿焼失したが天正11年に再建している。明治9年村社に列し同41年神饌幣帛料供進社に指定された。」(滋賀県神社庁HPより転載)
親柱内側に、なにやら文字が刻まれていた。どれどれ…
「金三百圓大隅有(?)太郎」
寄附者の芳名だった。キリがないんでこれしか載せないが、すべての束柱、親柱にこのような寄附者芳名が刻まれていた。
そしてもう一点いいアクセントになってるのが、これ。
「参道に付き車の進入はご遠慮下さい 大守神社」
きちんとした字体で墨書された、木製立て札。実にいい。もちろん従いましたとも(笑)。
ちょうどこの時、あたりの様子はこんな感じ。
けっこう雨が降っていつつも、雲が割れて金色の朝陽が降り注いでいる、この感じ。
思わず、濡れるのも構わずしばし見とれてしまった…。
そんな光に照らされた、左側の親柱には、お誕生日。
「昭和十二年八月成」。印象よりも古かった!
高欄を石で造っているとはいえ、まあそれは参道の橋ゆえの「特別扱い」であり、きっと昭和30年前後ごろのものだろう…くらいの見立てだったが、まさかの戦前橋。嬉しい誤算。
渡り始めて、振り返り。

向こうに見えるのは、落合の集落。
ちなみに落合って地名は、高時川と姉川の落ち合う場所だからだろうな(勝手に決定・笑)。
橋上から、上流側を。
川の名は、田川。
ちなみに写真ではわからないが、450mほど上流で、田川は高時川の下をアンダーパス(!)している。これはかなり珍しいポイント。…記事にはせんけど(笑)。
んで、下流側。
コッチは…まあ特にコメントはない(笑)。
この写真…

けっこう気に入っております。
まさに、ザ・参道(笑)。
渡って、振り返り。
これで、菜の花がなかったら、これまた違った感じだったんだろうな~。
神々しい陽の光と菜の花と、参道の橋と。けっこうキセキ的なタイミングでの出会いだった気がしていて、それゆえにひときわ印象が強く残ってるんでありますよ。