皆さま
邪馬台国については昔から九州説と畿内説とに分かれて、研究者の間で論争になってきました。
最近の考古学的な発見や、後の大和王権の中心地であることから畿内説が有利なように見えますが、決着には至っていません。
昨年、吉野ヶ里遺跡の「謎のエリア」の発掘調査が注目されましたが、上記記事では
「北墳丘墓と南祭壇が南北の線で結ばれ、南の延長約60キロ先に雲仙岳がある。これは中国古代都市の空間計画の設定に通じる」と指摘。弥生時代後期の倭国の祭政の拠点も同じような作りをしており、「同様の遺構が他にないことから、邪馬台国は佐賀にあった」との見解を示した。
と邪馬台国=佐賀に一票となっています。
こちらの記事では、吉野ヶ里遺跡の発掘調査の結果に対して、畿内説の立場を取る有名な研究者が
「弥生時代の北部九州では副葬品の量などで、埋葬されている人の地位が推測できます。5千人程度の共同体の首長である「オウ」なら、鏡一枚程度。地位が上がるにつれて、武器や宝飾品など、副葬品が増えていくのです。例えば倭国の王である卑弥呼クラスの墓であれば、その中には、数十枚の鏡や中国にしかないような特別な宝物などが入っているでしょう。副葬品が何もないのであれば、残念ながら身分はそれほど高くない人物だったのではないでしょうか」
と述べていて、大した発見ではないといった具合です。
アカデミックな世界の動きはモニターしていますが、相変わらずの堂々巡りで、邪馬台国がどの辺にあったのか依然としてハッキリしていないわけです。
墳墓にしても、古墳にしても、墓碑銘などはついていないわけで、エジプトのヒエログリフみたいなものが出てこない限りは、誰が埋葬されたのかを特定するのも至難の業です。
そういうわけで、今回も引き続きマクモニーグルの遠隔透視やサイコメトリーの結果に基づいて、邪馬台国にまつわる「謎」とされている問題についてまとめます。
よろしくお付き合いくださいませ。
弥生時代に馬がいた!?
まず、長門にあったとされる卑弥呼の「冬の居城」の透視結果からです。
「冬の居城」には、男女の聖職者や巫女達の為の宿泊所付きの神殿建物や、一部で神殿とつながった一階建て建ての非常に大きな城郭があった。中心は広い中庭を形作っていた。この中庭を囲む南部分は、馬の飼育(飼育者)及びその馬に乗る戦士の為の生活域付きの馬小屋(Stables)だった。
「魏志倭人伝」によれば、この時代の日本には馬はいなかったことになっています。
ただ、例は少ないにしても、縄文時代の貝塚や弥生時代の遺跡から、馬の骨が見つかっています。
これに対して、年代の推定に疑問がもたれていたり、後の時代になって穴を掘り、埋葬された馬の骨なのだろうといった反論も出ています。
定説では、日本の馬は、古墳時代に、モンゴル高原から朝鮮半島を経由し国内へ導入された蒙古系家畜馬だと考えられています。
朝鮮半島勢力の協力によって、軍馬また家畜馬として導入されたと言われています。
馬の移送は対馬海峡を渡って対馬へ船で運び、そこから玄界灘を渡って九州本土へ船で運んだとされています。
対馬は馬の移送についても重要な中継拠点でした。
対馬市の資料によれば、対州馬について以下のような説明があります。
対州馬の歴史は古く、弥生時代から飼育さ れていた可能性が考えられています。古墳時代の佐護白岳遺跡から副葬品として 馬具用銅器が出土していることから、この時期には既に飼育されていたと考えられています 。
https://www.city.tsushima.nagasaki.jp/material/files/group/34/taisyubahozonkeikaku.pdf
前回の記事で述べたように、ヤマト族が朝鮮半島南部も勢力圏に収めていて、北部九州に拠点をもっていたというなら、馬もいち早く連れてきていたとしてもおかしくはありません。
考えられることとしては、非常に限られた人のみが使用できる希少な物だったということ。
馬がいたとしても、魏の使者たちの目に触れなかったのは、馬が兵器として扱われていて、秘匿されていたからと考えればいいわけです。
素朴な疑問になりますけど、魏志倭人伝の記述が絶対に正しいのでしょうか?
卑弥呼の後継者選びはどうした?
卑弥呼の母方の家系は、シャーマニックな能力の卓越した人物が多かったようです。
マクモニーグルの透視結果によれば
1.卑弥呼には、子供がいない為、その後継者は非常に早い段階から、神殿内で選ばれていた。
彼女の死後、直ぐに同じ立場に就き政を続ける必要があったため。卑弥呼は、後継者候補として連れられてきた10~12歳ぐらいの少女の中から、自分で後継者を選んだ。
2.後継者候補に選ばれた少女たちは、初潮を迎える直前に、卑弥呼の元へ連れられてきていた。
これは、宗教儀礼上要求された事だった。少なくとも、5人の少女が選ばれ教育された。やがて、4人は候補から脱落していった。
3.後継者候補から落とされた少女たちも、神殿に入ったものは、二度と家に帰されることはなかった。
彼女たちは、卑弥呼の後継者として選ばれた少女の女中として神殿内で働いた。選ばれた少女は、20~25歳位まで教育を受け、後継者となる時が来るまで、人々の目から遠ざけられ神殿に隠された。
4.後継者としての教育を終えたものは、神殿内でシャーマンの職務を果たし、最年長者が、シャーマンの長を勤めていた。
通常は、後継者となった者たちも30~35歳ぐらいで亡くなり、年長者が亡くなると順次序列が繰り上がっていった。
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透視結果を総合すると、卑弥呼の場合、70歳くらいまで生きた(西暦280年代~248年頃まで)ようで、当時としては異常なほどの長寿だったわけです。
ただ、私たちの知っている範囲で言わせてもらうと、この時代、部族にはシャーマンがいて、主に女性が祭祀を司り、男性が政治を行っていたのです。
古代の氏族社会ではヒメヒコ制といって、血縁者=兄弟姉妹が政治権と宗教権を分掌し一族を支配する二重支配体制を採っていたという説があります。
宗教的なことは女性の担当で、シャーマンとしての能力が要求されました。現代人よりも当時の人間の方が霊的な感受性は非常に高かったと言えます。
ただ、シャーマンといえども予知に失敗したり、能力が衰えることはあったわけで、そういう場合は引退どころか、殺されることもあったということです。部族の命運を分ける占いをするわけですから、責任重大でした。
吉野ヶ里遺跡でのサイコメトリー
マクモニーグルが吉野ヶ里遺跡で現地調査=サイコメトリーを実施したとき、弥生時代後期の吉野ヶ里遺跡は、現在の復元よりもっと建物が大きく立派だったと述べています。
彼の指摘は以下の通り。
1.現地ガイドが説明する前に、高床式建物に登る梯子が、敵の侵入を防ぐため取り外し式であることを、マクモニーグルが説明した。
2.竪穴式住居に入った時、復元が実物と異なると指摘した。建物の壁の上部、地面に出た部分には、取り外し可能な板がはめ込んであり、必要に応じて取り外し、明かりとりや換気を行っていたという。つまり、「窓」がついていた。
3.現地ガイドが、高床式の建物は住居ではなく倉庫や特別な目的の建物であることを説明し始めると、この事もマクモニーグルは否定した。彼によると、身分の高いものは、高床式住居に住んでいたという。
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ちなみに、研究者の間では、弥生時代の高床式建物は、基本的に住居ではなく倉庫や集会場、見張り台、神殿などの特別の建物だと考えるのが通説です。
しかし、マクモニーグルは、上流階級が高床式住居に住んだことを断言しています。
弥生時代の住居跡=竪穴式住居のみと思い込んでいるから、研究者は重要な住居跡を見逃しているだけだというのです。
神殿などと思われている巨大な高床式建物などの一部も、実は住居であった可能性が高いと彼は指摘しました。
同じ事は、奈良県の纒向遺跡にも言えることです。
4.復元集落の一番奥にある北墳丘墓は、祭祀場として重要な場所だった。
マクモニーグルによれば、北墳丘墓にあった「ポール」=立柱は、霊的な意味で非常に重要なものだったと述べた。
彼によると、この場所には、ヤマト部族を含む複数の部族が祭祀に訪れていたらしい。「火の祭祀」も行われていたという。
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これについて補足すると、古代祭祀が実際、どこでどのように行われていたのかを具体的に再現することは難しいことですが、サイコメトリーによる透視を行ったときには、その祭祀の手順までもが具体的に「視える」ことがあります。
出雲のヤマト族
出雲にいたヤマト族の首長は、卑弥呼の父親の伯父でした。つまり、卑弥呼から視ると大伯父。
そして、この大伯父の存在こそ、卑弥呼が後々、邪馬台国の女王として君臨することに大きく関わっていたとマクモニーグルは述べています。
1.卑弥呼の大伯父は、現在の島根県松江市に相当する場所に住んでいた。
権藤正勝 2013 邪馬台国発見 Kindle版より
マクモニーグルは、卑弥呼が夏と冬の二つの居城の間の移動以外に、山口と松江市の大伯父の間も行き来していた事を透視した。
大伯父の居館は、現在の松江護国神社のあたりに存在した。
2.マクモニーグルが透視した卑弥呼の大伯父の居館などは、多くが高台にあった。つまり高地性集落とよばれるもの。
弥生時代の集落形態としては、平野部に環濠をめぐらせた環濠集落が主とされる。弥生時代中期から後期にかけて、高台に作られた高地性集落が突然現れている。
マクモニーグルの透視によれば、高地性集落は単なる軍事拠点や一般の集落ではなく、軍事的な意味で強固に守られた支配階級の集落跡。
3.出雲側の防御拠点の一つが出雲大社だった。
現在の出雲大社は、高さが約24メートルですが、古代においては、社殿の高さは48メートルにも及んでいたとされている。
この件について、上古の出雲大社の社殿の高さは、96メートルあったとする説もあるが、マクモニーグルは現地での透視で明確に否定している。
透視によれば、高さは60メートルあった。
さらに、展示してある古代の出雲大社の復元模型も、実際とはかなり異なると述べた。
階段は模型よりも幅が狭く急峻。社殿はもっと大きかった。階段までの高さは45メートル。社殿は15メートル。
これだけの高さがあれば、見張り台として十分に機能した。古代の杵築神殿は神事を行うと同時に、日本海を監視する役割も持っていた。
出雲大社の復元模型
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この透視結果については、私たちの出雲大社でのサイコメトリーの結果とおおむね一致しています。
古代の杵築神殿の高さについては異論がありますが、この場所が戦略的に重要な場所であったことは、過去記事で詳しく解説しています。
4.卑弥呼以前、出雲国の大伯父が初期ヤマト連合の中で最も北まで進出した人物だった。
透視では、初期畿内連合は南西部に支配権を広げるべく、初期ヤマト連合の領域に攻撃を仕掛けてきた。
権藤正勝 2013 邪馬台国発見 Kindle版より
その試みは失敗に終わった。なぜなら南西部の人々は、北方の支配者を尊敬していなかったからである。
初期ヤマト連合の支配は、契約を主なものとし人々の往来も自由で尊敬されていた。
5.出雲の大伯父は、初期畿内連合側に和解策を提示した。
出雲の大伯父は、有能なシャーマンである卑弥呼を宗教的指導者として受け入れ、従えと提案した。この提案は、双方にとり有益なもの。
初期ヤマト連合側から見れば、自分たちのシャーマンである卑弥呼を宗教的指導者として差し出すことで、勢力と影響力を拡大できる。
初期畿内連合側から見れば、卑弥呼を人質に取ることで、南西部からの威嚇を排除できる。
この卑弥呼擁立擁立前の戦乱の様子は、「魏志倭人伝」にも「倭国大乱」の時代として記されている。
卑弥呼の祭祀
卑弥呼が行った祭祀の様子については以下のような結果が得られています。
卑弥呼の祭祀に関するマクモニーグルの透視では、三輪山が卑弥呼のプライベートな祭祀場で、桜井市の鳥見山は卑弥呼が義務として、祭祀を行わなければいけなかった場所だった。
三輪山には大物主神が鎮座する。大物主神とは、卑弥呼の大伯父がいた出雲の国津神・大国主命と同じ神。
三輪山
奈良平野に出雲の神を祭る聖山が存在する。三輪山は、卑弥呼の出身部族と直接結びついている。
卑弥呼とともに奈良にやってきたヤマト部族の、直轄の祭祀場だった可能性もある。あるいは、卑弥呼と邪馬台国を見張るために、出雲の大伯父の部下が占拠していた山かもしれない。
一方、桜井市の鳥見山は、卑弥呼を連れてきた初期畿内連合の古くからの祭祀場だった可能性が高い。邪馬台国連合になっても公式の祭祀場として、卑弥呼が祭祀を執り行うことが要求されたのだろう。
また、鳥を崇拝する信仰は、ヤマト部族がやってきたとされる東南アジアの稲作農耕民の間でもでも広く見られる。
鳥は、穀霊を運ぶ神秘的な生き物とされていた。
卑弥呼の祭祀が鬼道だったというのは、それが道教祭祀だったからではという説がある。
道教自体が、体系化されたのは、卑弥呼の後の時代。道教は、神仙思想や呪術、妖術、占星術、医術など古くからのシャーマニズム的信仰を基盤として成立したものとされている。
卑弥呼がシャーマニズム的な祭祀を行っていれば、それは全て道教的ともいえる。道教的祭祀では、答えになっていない。
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この件についてコメントするなら、少なくとも出雲では「火の祭祀」が行われていたという透視結果は、私たちが得た情報とも一致しています。火=日=太陽信仰の一種でした。
ただ、マクモニーグルは「邪馬台国の時代」にフォーカスしているからか、古代出雲のより古い時期で行われた荒神谷遺跡等での犠牲祭祀については触れられていません。おそらく、透視のターゲット、タイムラインが異なるのでしょう。
私たちは、出雲にとどまらず、対馬巡礼などを通じて現代人の感覚では残虐としか思えないような犠牲祭祀が行われていたことを「視て」います。
シャーマンは命を張って部族共同体の繁栄と幸福を神に祈る存在であり、自己犠牲もその中に含まれていました。
また、道教的祭祀について言えば、出雲への渡来集団が最初に移住してきた当時は、中国の初期道教の祭祀を持ち込んでいます。
こうした事も踏まえて、マクモニーグルの透視した内容との比較検討を行いたいのですが、またしても長文になりましたので、今回はここまでとします。
(つづく)
巫師麗月チャンネル
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