皆さま

 

ジョセフ・マクモニーグルは、1990年代までアメリカの軍部と諜報機関が運営していたスターゲート計画において、遠隔透視者として主導的な役割を果たした元アメリカ陸軍兵士です。軍を退役した後は、民間で活動を続けています。

 

日本では「FBI超能力捜査官」のふれこみでTVにも出演したことから、ご存じの方もいらっしゃるかと思います。

今回は、マクモニーグルの透視を日本古代史、特に邪馬台国(ヤマト広域連合)の時代をターゲットして行った結果を中心に語ります。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 

 

マクモニーグルの略歴

高校卒業後、マクモニーグルはマイアミ大学に奨学金を得て入学しましたが、初日に退学しています。彼は陸軍に入隊し、通信諜報部に配属されました。1968年のベトナム戦争中、彼は東南アジアに派遣され、テト攻勢やその他の戦闘に参加しています。

 

彼は、この戦闘経験によってサイキックな内なる声が研ぎ澄まされ、何度も危険から逃れるよう促され、命を救われたと語っています。

 

マクモニーグルはその後ドイツでの派遣中に、食事中に体調が悪くなり、臨死体験をしています。

 

まず、病院までの道のりと蘇生のための努力を体の外から眺め、次にトンネルを抜けて、喜び、安らぎ、愛を放つ白い光を見ています。内なる声が、まだ死ぬ時ではないと告げ、病院のベッドで目を覚ましたのです。これは典型的な臨死体験だと言えます。

 

マクモニーグルは 1977 年に准尉に昇進しました。翌年、彼はスタンフォード研究所 (SRI) の物理学者ラッセル・ターグハロルド・パソフが陸軍に代わって実施した超能力の実験に参加するよう招待されました。

 

こうして、スター ゲート計画と呼ばれた、諜報目的での超能力の利用可能性を検証する米陸軍のプロジェクトで、遠隔透視者としてのキャリアが始まりました。

 

最初の6回のテストの中で、彼は5回で1位の成績を収めています。これは、マクモニーグルのコメントに基づいて、独立した審査員が5枚の写真から対象を正しく特定したことを意味する結果でした。


この結果、彼はメリーランド州にある遠隔透視グループに選抜された6人の超能力者の1人となったのです。


最初の段階では、既知のターゲットに対するテストが行われました。8 か月後、米国の秘密施設での透視能力の精度が注目され始めました。

 

1978 年の終わりに、彼らは作戦に取り組み始めました。彼らの上司は結果に感銘を受け、米国が敵国に遠隔透視の技術で遅れを取らないように、プログラムをアップグレードすることを決定しました。

 

マクモニーグルは 13 年間の正規の軍歴を終え、フルタイムの遠隔透視者になりました。


1981 年までに、遠隔透視サービスは多くのアメリカ軍および諜報機関から要請を受けるようになりました。マクモニーグルによると、次のような機関が含まれます。


•    中央情報局 (CIA)
•    国防情報局 (DIA)
•    シークレットサービス(SS)
•    空軍情報局 (AFIA)
•    海軍情報司令部 (NIC)
•    海軍調査サービス司令部 (NISC)
•    国家安全保障局 (NSA)
•    陸軍情報保安司令部(INSCOM)
•    国家安全保障会議(NSC)
•    連邦捜査局(FBI)
•    麻薬取締局 (DEA)
•    アルコール・タバコ・火器取締局 (ATF)

 

なお、このサービスは、一部の地区の米国沿岸警備隊 (USCG) や国務省の内部組織でも利用されていました。

 

このリストの中にFBIが含まれているわけですが、別に彼は専属の捜査官として仕事をしたわけではなく、「一人の透視能力者」としてFBIの捜査に協力したというのが実のところです。

 

 

遠隔透視の応用

 

遠隔透視は犯罪に関する研究にも応用され、成功を収めています。

 

その一例がジョー マクモニーグルが1981 年にイタリアのマルクス主義過激派グループ「赤い旅団」に誘拐されたアメリカ陸軍将軍ジェームズ・ドジャーの居場所を特定したことです。マクモニーグルの働きがドジャーの救出につながりました。

 

また、遠隔透視の技術は、考古学の調査にも応用されています。

 

たとえば、以下のような遺跡、遺物の特定作業に関わっています。

 

・エジプトのアレクサンドリアにあるクレオパトラの宮殿

 

・マルクス・アントニウスのティモニウム

 

・後にフランスの探検隊によって再確認された、古代世界の七不思議の1つであるファロスの灯台の位置特定作業

 

・クリストファー・コロンブスの第4回航海のキャラベル船の残骸の発見

 

特筆すべき例としては、アレクサンドリア大学が埋もれた古代都市マレアで特徴を持つ埋もれた建物を見つけるように、遠隔透視の研究所に依頼しました。

 

大学が定めた捜索範囲は 576 平方キロメートル。その3年前に実施されたリモートセンシング調査では、遠隔透視者が選んだ場所の痕跡は見つかりませんでした。

 

しかし、遠隔透視能力者によって選ばれた場所で行われたアレクサンドリア大学の発掘調査が終了し、考古学者が求めていたものが遠隔透視能力者の説明通りに発見されたのです。

 

私たちも「霊的考古学」と銘打って、日本の古代祭祀に関する透視を行ってきましたが、同じような試みが海外では大きな発見につながっていることを知って、かなり勇気づけられました。

このように、遠隔透視の手続きは、様々な分野に応用されています。

 

邪馬台国を透視する

 

さて、ここから先は邪馬台国に関する話に入ります。記事を書くに当たり、参考にした文献は権藤正勝 2013 邪馬台国発見 Kindle版 です。

 

 

 

 

 

また、関連動画は以下のものを参照しています。

 

 

 

 

 

 

 

具体的な内容は、上記の書籍、動画をご覧ください。

 

 

さて、マクモニーグルによると、遠隔透視には時間と空間と出来事の3点が関わると言います。

 

遠隔透視で、ある特定の場所=空間を見るとき、その様子は、タイムラインによって異なって見えるわけです。


上記の3つの情報のうち、2つが与えられると、透視は行いやすくなります。少なくとも日付=時間、場所(座標)=空間が正確に与えられれば、ある時点において、そこで起こった出来事が分かるというわけです。

 

同様に、日付と起こっている出来事が与えられれば、その出来事が起こっている場所を透視できるし、場所と起こっている出来事が与えられれば、日付が透視できるのです。

 

遠隔透視の手順では透視者に与えられる情報は、封筒に密封された状態のままで、透視を行う者が直接見ることはありません。

 

「透視能力」を発揮するためには、一切の情報を直接見たり、聞かせたりしないようにするのです。

 

透視の手順としては、まず透視者が瞑想を行い、入眠寸前の変性意識状態の中で遠隔透視を行います。このとき、透視者とモニターがペアを組んで行います。


透視者が変性意識状態に達したあと、モニターが口頭で質問を行い、透視者がそれに、口頭で答える形で遠隔透視が進められます。

 

最後に、透視者自身が、遠隔透視で「分かった」情報をスケッチなどで追加して終了。


ただ、マクモニーグルの場合、モニターを必要としません。

 

ロバート・モンローが開発したHemiSync(ヘミシンク)を利用することによって、彼は一人で比較的短時間で透視を行うことができます。

 

 

 

 

これは体外離脱を誘導するための技術であり、いわゆる脱魂型シャーマンが意図的に実践しているのと類似した効果をもたらすとされています。

 

シャーマン=巫師には憑依型と脱魂型に分類されることがあります。

 

ただ、両方ができるのがシャーマン型霊能者で、彼らは憑依、降神、脱魂の形で超自然的実在や世界と直接交流するタイプのことです。下の過去記事を参照してください。

 

 

 

 

遠隔透視は、古くは“千里眼”とよばれていました。また、これを“幽体離脱”と関連づける場合もあります。幽体離脱は、眠っているときや催眠状態にあるときに、物理的な肉体から幽体または星気体が外に抜け出して「旅行」することをさしています。

 

脱魂型のシャーマンも、自分の肉体から幽体が抜け出て遠くの場所まで行って見てくることがあります。

 

これは、当ブログの用語に従うと、意識の拡張がアストラル次元にまで及んだときに起こると解釈することができます。

 

 

マクモニーグルによる邪馬台国の透視結果(要約)

 

最初の透視は、マクモニーグルに対して「Japanese ruler, Himiko’s, tomb location:日本の指導者、卑弥呼の墓の場所」と書かれたメモ用紙を密封したターゲット番号:22807の封筒と、「ターゲットの詳細な場所を記述してください」という指示だけでした。

 

ターゲットの封筒は密封されているので、彼は封筒の中の文字を読む事は出来ません。この透視の指示は、彼の妻を通じて行われました。日本とのやり取りは、基本的にEメールが使用されました。

 

これに対し、マクモニーグルは手書きの山口県長門市周辺の地図と、透視で見えた内容について返信してきました。

 

ここから先は、メールで送られてきた遠隔透視の結果と、マクモニーグルが来日したときに現場に赴き、遠隔透視の結果と現場との照合作業を行うフィードバック調査の結果について、その概略を要約します。
 

 

1.卑弥呼の出身部族と邪馬台国は同一ではない。卑弥呼の時代(2世紀終わり~3世紀なかば)には、西日本一帯で部族ごとのクニの連合が形成されていて、その連合国は女王卑弥呼の統治下にあった。

 

卑弥呼の出身部族を「ヤマト族」という。彼女が首長となったクニは、「ヤマト国」。さらに、女王国=倭国連合は、「ヤマト連合」となる。

 

これが「邪馬台国」と中国の史書に書かれたものに相当する。

 

マクモニーグルの透視結果によれば、卑弥呼が統治した部族名は、Yamata、Yamato、Yamatayoのどれかであり、その後Yamatoだった可能性が最も高いと述べている。

中国から見た「倭」とは、この「ヤマト連合」に加えて、女王国に属さない他の部族のクニ、たとえば狗奴国も含めた全体をさす。

 

2.卑弥呼の部族の始まりは、紀元前805年の中国の昆明。この時点ですでに「ヤマト」という呼称を用いていた。

 

卑弥呼の世代から「ヤマト族」のルーツを遡ると以下のような結果になった。


日本の長門 =0125 AD


日本の福岡 =0065 AD

日本の沖縄 =0055 BC⇒後の透視で奄美大島に変更

台湾の台北 =0205 BC

中国のマカオ =0265 BC

ベトナムのハイフォン = 0325 BC

ベトナムのハノイ =0385 BC

中国の昆明 =0475 BC

中国で部族が成立したのは =0805 BC

3.ヤマト族が九州に入植した場所は、有明海の東岸、現在の熊本市のあたり。

 

北部九州はすでに人口過密状態だったため、より南の地域を上陸地点に選んだ。勢力を広げたヤマト族は福岡県の芦屋あたりへ進出し、最終的に山口県の長門市のあたりへと移った。

 

 

4.ヤマト連合の成立

 

卑弥呼の生まれた年代は、西暦2世紀の終わり頃と透視された。

 

彼女はヤマト族のシャーマンの娘として生まれ、その継承者となった。他にも後継者となる女子が何人もいた。卑弥呼は、非常に美しい娘に育ち、多くの求婚者が押し寄せてきた。

 

しかし、卑弥呼の父親は若くして死んだため、そのような交渉ごとの一切は、彼女の伯父が取り仕切った。

 

権藤正勝 2013 邪馬台国発見 Kindle版より

 

卑弥呼の父の勢力範囲は、今の福岡県、佐賀県、長崎県、および熊本県の一部。

 

父の伯父は出雲地方を統治しており、その他父母の兄弟が南九州と中国地方の一部、および四国の一部を勢力圏としていた。

 

これがヤマト族による支配領域=ヤマト国だった。

 

他方、のちに狗奴国として敵対することになる勢力は主に近畿地方を居住地としていた。これが初期畿内連合と呼ばれる部族グループ。「倭国大乱」とされた時代、初期ヤマト連合と初期畿内連合の争いが繰り返されており、両陣営共に疲弊していた。

 

西暦218年頃、初期畿内連合が卑弥呼を女王として共立することに同意し、ヤマト国と広域連合を形成し、都を現在の奈良県に置いた。これがヤマト連合の成立。

 

協定に従い、卑弥呼はまず大阪へ連れて行かれ、次に奈良へ移った。その理由は奈良が米の生産を強化するために最適な土地だったからである。

 

鳥見山「夏の居城」を定めた卑弥呼は、倭国連合の統治を開始した。また、卑弥呼は自分の故郷である長門に「冬の居城」をおいて、季節の移り変わりと共に奈良と長門を往来した。

 

彼女による統治の開始で、複数の部族が協力して人力を提供することで米を生産し、それぞれに利益を上げ始めた。

 

周囲の部族との間で平和が保たれ、大規模な協業により、部族間の交易も拡大し利益も上がった。

 

3世紀半ば頃までに女王国=ヤマト連合は東海地方の一部を含む西日本一帯を勢力圏にしており、この連合には44の部族のクニから成り立っていた。

 

権藤正勝 2013 邪馬台国発見 Kindle版より

 

最大の部族は近畿中央から北陸の一部までを支配下におき、2番目の部族は大阪、奈良、和歌山、三重のエリア、3番目の部族は能登半島、富山、新潟の一部を含む範囲を支配していた。

 

その東北には約50の部族からなるクニの連合もあった。

 

なお、対馬、壱岐島、五島列島、隠岐はほとんど漁民及び海賊が占拠していた。

 

この協力関係は、盗賊や侵略者からの防衛で必要な時に、部族同士の軍の団結をうながした。

 

やがて、西や南の小さな部族、東の部族の一部(少なくとも富士山の平原入り口あたりまで)もヤマト連合に参加した。


5.卑弥呼のイメージ・統治者としての仕事

 

卑弥呼の容姿を列挙すると次のようになる。


① 身長・体重: 5フィート2インチ(157cm)122ポンド(55.3kg)
② 目: スティールグレー
③ 髪の毛: 腰まである長くストレートでカラスのような黒髪
④ 爪: 1.5~2インチ(3.8~5.1cm)の長さで、赤く塗られている
⑤ 足: 小さいが纏足している訳ではない
⑥ 皮膚: アイボリー

 

 

 

 

権藤正勝 2013 邪馬台国発見 Kindle版より

 

権藤正勝 2013 邪馬台国発見 Kindle版より

 

この時代の人間にしては長寿の方だった。

 

透視によると、卑弥呼は、山口に住んでいた若い頃から、偉大な能力を備えたシャーマンだった。

 

しかし、卑弥呼の能力は、単なるシャーマンと言う領域を超えていた。彼女は未来を見る事ができ、事件が起こる前に、その出来事を読める人物だと思われていた。

 

また、会った人間の考えを見抜く能力ももっていた。

彼女の噂は広く遠くにまで知れ渡り、多くの者が彼女のアドバイスと知恵を求めて、彼女の土地に旅して来ていた。

卑弥呼の居城には、神殿があり、彼女の住居と直結していた。神殿では、卑弥呼により宗教的・霊的な儀式が執り行われていた。

 

彼女は、指導者、統治者、神官として、人々の生活に直結する重要な事柄に、宗教儀式を通して助言していた。

 

彼女が助言を与えていた諸問題とは、具体的には次のようなもの。
 

①農業生産の問題:いつ種をまくか。いつ水を与えるのか。いつ花に受粉させるか。いつ穀物を収穫するのか。そしていつ土地を冬に備えるか。
 

②家庭の問題:いつ結婚をするのが良いか。いつ子供を身ごもるか。いつ長老になるべきか。いつ死者を葬るか。
 

③国の問題:いつ部族が裕福で、国境の彼方からの人々を受け入れる事が出来るか、あるいは出来ないか。いつ貿易と通商を行うべきか、あるいは行わないか。
 

④生存の問題:冬の間、いつどれだけ食べるか、穀物倉庫からどれだけ分配するべきか。誰が食べ、誰が食べないべきか。いつどれだけ神に生贄をささげるか。いつ戦い、あるいは戦わないか。多くの人々の幸せのために誰が死に、誰が生きるか。
 

⑤癒しの問題:いつ病気の者が、彼女の元につれてこられるのか。

 

全ての癒しが失敗に終わり衰弱した者たちは、最後の手段として卑弥呼に命を救うため努力するように要請が来ていた。

 

だが、ほとんどの場合、部族の利益の為に拒絶していた。彼女が、病気や死にかけた人を保護する為に、治療の許しを神に請う事はまれだった。

 

このように、ヤマト族の指導者は部族全体の行く末について占い、神に祈り、決断を行う責任を一身に背負っていたのである。



6.ヤマト連合の繁栄

 

卑弥呼の出身部族=ヤマト族は、九州と本州南部、そして朝鮮半島南部まで領有する海の民だった。彼女の存命中も、一族による朝鮮半島南部と日本沿岸南部における多くの島々の領有が継続していた。

 

南方系の海の民だった部族がヤマト族の特性。南方系渡来人と呼ぶこともできる。

 

卑弥呼の墓は奈良ではなく山口に作られた。卑弥呼が、山口の「冬の居城」にいる時に亡くなったから。卑弥呼はある寒い冬の日に、肺炎に罹り死亡した。

 

ヤマト連合に参加した部族の規模について、卑弥呼の統治開始時は3880人だった。約53%が男性で、47%が女性。二十歳以上の男性1419人の内、約875人が農民・工人・商人と戦士をかねていた。残りは労働者か召使だった。おおむね200人の女性が戦う能力を備えていた。
 

ヤマト連合の始まりのころには、専業の農民はほとんどいなかった。多くが狩猟採集民であり、家族のために食料を採集し、漁猟を行う伝統的な生活を送っていた。ある程度の農業も行っていたが、食料生産の主要な手段ではなかった。農業は家族単位の小規模なものにとどまっていた。
 

つまり、弥生時代=水田稲作と今では考えられている時代であっても、実際にそれ以前の時代の生活と同じようなライフスタイルだった。

 

卑弥呼が統治の半ばにかけて、朝鮮半島を経由して大陸から新しい米生産の手法を導入したことにより、労働力が著しく増加した。

 

肥沃で治水が容易な奈良の谷間で米生産を行う事を決めた決断が、彼女の王国の強化と平和を保障することになった。
 

こうして、繁栄への道を歩き始めたヤマト連合の人口は、彼女が死んだとき(3世紀半ば)には、最初の20倍以上に膨れ上がっていた。


中間的まとめと課題
 

ここまでを一区切りとします。

 

後編は、ヤマト連合の崩壊プロセス、狗奴国との戦い、そしてのちの神武天皇のモデルになった人物が率いた部族集団などについての透視結果をまとめます。

 

マクモニーグルの行った透視とサイコメトリーの結果をできるだけ簡潔にまとめたつもりですが、細かい点について漏れもあると思います。その点は参考文献や動画をご覧になってください。

 

ただし、書籍は初版が2008年、動画が2010年に公開されたものであり、その後の歴史学や考古学の発見によってもたらされた新たなデータと照合してみる必要もあります。

 

また、私たちには部族の出自と日本が国としてまとまりを持つようになったプロセスに関する独自の口伝もあります。

 

私たちの想定する「邪馬台国」に関わる3つの拠点

 

 

私たちは北部九州(筑紫)と出雲の部族が協力関係にあり、これがUKJ(邪馬台国)の初期状態だったと考えています。

 

その後、近畿地方に敵対する部族の連合が成立し、争ったという伝承が伝わっているのです。

 

その内容とマクモニーグルの透視結果との比較検討も行いたいのですが、争点となるポイントも多く、1回の記事ではまとめようがありません。

 

それ以前に、マクモニーグルの述べた内容は記紀神話、中国の史書をはじめ、歴史学、考古学の知見とも真っ向から衝突する内容も含んでいて、通説とは違いが多すぎるとも言えます。

 

しかしながら、当ブログの「霊的考古学」の記事で述べているように、歴史書に記述されていることや考古学的発見にしても、それが歴史上のどのような出来事、人物、場所に対応するのかは曖昧なことが多いのです。

 

学術的なアプローチを軽視するつもりはありませんが、意識のテクノロジーを使ったアプローチから見ると大きな隔たりがあることは当然の結果として私たちは受け止めています。

 

アナザー・ヒストリーとして楽しむくらいの余裕でもってご覧下さい。

 

(つづく)

 

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