皆さま

 

私たちは、巡礼先で仕事のかたわら、神社仏閣の立地している土地や地域に関する霊的な情報を得ています。

 

古代の祭祀がどのように行われたのか、文献のない時代のことを、その土地、場所の意識場を通じて透視することでうかがい知ることができると考えているためです。

 

史料の空白が多い古代史は、ともすれば推測や解釈が入り乱れ、何が真実なのか判然としません。

 

日本書紀古事記にしても、そこに登場する神話・伝説は後世の歪曲や改ざんの賜物であり、真実の種を見つけだす術が失われていくのです。

 

ただ、そこに色々な解釈の余地があるから、古代史はロマンに満ちていると言うこともできるかもしれません。


しかし、意識がノンローカルな性質をもっていて、時間や空間の制約を受けないものであるという世界観から見れば、私たちの意識には、祖先が経験した記憶がすべて保存されているはずです。

 

人が使ったモノや道具にも、これを使った人に関わる情報も「付着」していると考えられます。

近年の考古学は新しい発見を次々に示していますが、遺跡の立地している場所、遺跡から出土した遺物を手がかりにして、意識を媒介した過去知 (retrocognition)、あるいは遺物、遺品を手がかりにした物体直観(サイコメトリー)によって、古代人の意識に直接アクセスすることができると私たちは考えています。

 

こうして得られた情報の妥当性を関連する分野の知見と照合させながら、いにしえの人々の生活について知ることができるのです。

 

 



たとえば、このような事例について考えてみましょう。

高知県土佐市高岡町の居徳(いとく)遺跡群から、傷跡のある縄文時代晩期(二千八百—二千五百年前)の九人分十五点の人骨が出土、うち四点には金属器によるとみられる鋭い傷や矢じりの貫通穴があり、鑑定した奈良文化財研究所は十九日、「国内最古の集団同士の戦闘行為の痕跡」と発表した。
防御的な環濠(かんごう)集落が出現し、武器が増えて大型化する弥生時代に始まる〈戦争〉が、平和だったとされる縄文時代の終わりに存在した可能性を示す画期的な発見となった。(2001/03/20 読売新聞より抜粋)

 

縄文人も「戦争」か/高知・居徳遺跡群で出土

 

https://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/20020319000383

 

高知県土佐市の居徳遺跡群で、縄文時代晩期(2800-2500年前)に殺傷、解体されたとみられる人骨が15点出土し、調査に当たった奈良文化財研究所(奈文研)の松井章・主任研究官が19日、発表した。松井主任研究官は「集団同士の戦闘で受けた傷跡とみられ、対立を暴力で解決しようと“戦争”が起きたと考えられる」としている。

集団で殺傷を受けた人骨としては最古。戦争の始まりは弥生時代からで、狩猟採集が中心の「平和な時代」とされていた縄文時代の見直しにつながる発見だが、殺傷痕が戦争によるものかどうか疑問視する見方もある。(四国新聞ニュース;2002年3月19日配信)

 

 

居徳遺跡は、縄文時代に戦争があったのではないかと話題を呼んだ遺跡です。
 
考古学的な見地からは縄文時代には個人間の闘争はあったものの、集団対集団の戦闘や戦争はなかったとするのが通説になっています。

 

それに加えて、縄文時代には金属器は使用されていなかったという定説も覆る可能性が出てきます。

 

居徳遺跡から出土した人骨には、金属製のノミ状刃物でつけたとみられる幅一センチの刺し傷が十数か所もあり、傷が治った跡がないことから殺害時か殺害直後に傷つけて捨てたものと考えられました。

 

しかし、この出土人骨の解釈は研究者によって異なります。

解釈1.複数の人が殺害をされている、傷のつけ方が執ようである、遺体の投棄場所はごみ捨て場で儀式とは言い難いという理由から、激しい憎悪に基づく集団間の戦闘行為と判断される。

解釈2.殺傷痕のある複数の人骨が見つかれば、その何十倍もの人間が犠牲になったと言え、戦争が縄文時代にあったと考えられる。

解釈3.争いの実例の発見は評価でき、重大な関心事だが、出土農具などに弥生文化的性格があり、弥生時代直前か弥生時代そのものと言えるため、これが縄文時代の戦争と呼べるかには慎重を期したい。
 
解釈4.人骨のみで戦争や金属器の使用を判断できるのか疑問であり、これだけで異なった集団同士の争いという証拠とはいえない。

解釈5.人骨がごみ捨て場で、イノシシといっしょに解体されており、儀式としての食人や改葬の際に余分な骨を捨てた可能性がある。



このように、同じ出土物を見ても、研究者の解釈はまちまちであり、掘り出された「モノ」を相手にしている考古学の限界が見てとれるのです。

 

出てきたモノだけを見ても、縄文時代の遺骨が殺害に至った背景、殺害者の動機、なぜ骨をバラバラにし、ゴミ捨て場に遺棄されたのかなど、当事者の心理的な側面まで語ってはくれません。

 

一番知りたい「なぜ」の核心部分は、研究者の推論、想像の域を出ないのが、現代の考古学の限界なのです。

 

これに対し、「物体直観」(サイコメトリー)は、出土物を特異能力者が透視することによって、それに関連する人物の心理状態、その物体をめぐる出来事の一部始終が手に取るように「わかる」ことがあります。

 

居徳遺跡の場合は、サイコメトリーを使うとどのように「見える」のでしょうか。


巫師の世界には、物体直観や過去知に秀でている人が何人もいます。私たちは以前、居徳遺跡で起こった出来事について試みに過去透視を行ったことがあります。

 

巫師による居徳遺跡の透視

それによれば、この遺跡には3つの集団が関与している。

 

そのうちの2つは、もともとこの土地に居住していた先住者の集団である。あとの1つは、海の向こうから渡来してきた集団である。いずれも家族単位の小集団だったが、渡来集団は中国大陸ですでに使用されていた金属器の鋳造技術を知っていた。

 

まず、渡来集団が先住集団に彼らの知っている知識を伝授した。先住集団は彼らから先進的な技術を習得し、最初は渡来集団と仲良く暮らしていた。しかし、ここで行き違いが出てくる。渡来集団は文化的に進んでいたため、やがて先住集団に対して勢力を誇るようになり、先住者に対して支配的な態度を取るようになった。先住者は服従しつつも、彼らの言いなりになることに対して反発も感じるようになった。

 

他方で、これほどまでに高度な知識を持っている渡来人を恐怖するようになった。このままだと自分たちに何をするかわからない、と得体の知れぬ恐怖を先住者たちは感じたのである。


先住者は渡来集団から教わった知識に基づいて道具を作り、その道具を使ってある日、襲撃をおこなった。数的に少数だった渡来集団の人々は次々に襲われ、殺害された。殺害した遺体は、最初、埋葬地に埋葬された。

 

ところが、その後天変地異が続発した。

 

先住者は、天変地異の原因を自分たちが殺した渡来者の「タタリ」のせいだと考えた。死者が甦って、自分たちを懲らしめに来ることを非常に恐怖した。そこで、急遽、先住者たちは埋葬地を掘り返し、遺体をバラバラに切断して、甦らないようにする必要があったのである。切り刻んだ遺体はゴミ捨て場に投げ込まれた。


研究者はともかく、一般の人にとっては縄文時代と弥生時代はスパッと区分されるようなイメージがあるかもしれません。

 

実際はある日を境に突然別の時代になるわけではなく、その前後に過渡的段階、移行段階というものがあります。

 

そして、縄文文化、弥生文化というものが日本列島にまんべんなく広がっていったのではなくて、そこには大きな地域差があったということです。

 

通説によれば、縄文人と弥生人が混血していって、水稲稲作を中心とする弥生文化が広まっていったと考えられています。

 

でも、これについても日本列島で一律に急速に起こったイベント言うよりは、地域ごとに融合が進んだところもあれば、渡来系と先住系とが別々に棲み分けていたところもあって、実際のところは地域によるばらつきが多かったと考えるのが妥当だという見解も最近では出ています。

 

縄文時代から、あらゆる系統の民族がパラパラと日本列島にやって来て、バラバラに多民族間の混血が進み、日本人が形成されていったと見るのが実態に即した認識だというわけです。

 

なので、特定の地域の特定の民族が日本人を劇的に変えたというような大きな変化などなかったことが最新の遺伝子研究からわかっていると言う主張もあります。

 

 

 

 

居徳遺跡の場合は、中国大陸から先進文化(知識、技術)をもった人々が当時の中国の戦乱を避けて、船に乗って渡ってきた人々もいました。たまたま、この地に新しい知識を持った少数の人間が他に先駆けて移住してきただけの話、ということになります。

 

そう考えると、先述したような研究者たちの解釈は、どう評価されるのでしょうか?

 

解釈1については、そう見るのが妥当です。ただし、殺害者は憎悪よりも恐怖が先立っていました。恐怖に基づく攻撃です。

 

しかし解釈2のように拡大解釈はできません。戦争と言うよりも、先住者による渡来人殺害事件と見ます。

 

解釈3に対しては、渡来集団は弥生文化的要素を持ち込んでおり、それを先住集団に教授していたから、この地で<弥生的農具>が出ているように見えると解釈できます。この遺跡で生活が営まれていた時代は縄文時代であるが、これは戦争ではありません。

 

解釈4については、鉄は腐食が早いので、金属器使用の痕跡を見つけるのは至難の業でしょう。だからといって集団同士の争いを否定する理由が不明です。

 

最後に解釈5ですが、なぜゴミ捨て場に投棄されたのか、その動機や経緯まで考慮しているのでしょうか?食人の風習がこの地であったと言えるのはなぜでしょう?この点が不明です。

 


いずれにしても、この事例を霊的な情報から判断する限り、縄文時代に大規模な戦闘(戦争)があったという結論には到達できませんし、食人や宗教的な儀式としての意味も見いだせません。

 

巫師の視点から見る限り、そこにあったのは「祟りや死者の再生を恐れる」という恐怖心、そして殺害されたのは新しく来た方の人々だった、ということだけです。

 

以上のことから、これは縄文時代の<戦争>ではなく、この地域でたまたま発生した<事件>として解釈します。

 

 

モノを通して<こころ>を読み解く

確かに、物証を固めていくことで起こった出来事を推定することは、ある程度は可能です。

 

でも、細かい心理分析まで、考古学的方法のみでできるのでしょうか?サイコメトリーよる推定と、考古学者の解釈と、どちらが「精度」において優っているといえるのでしょうか?

 

そこに「想像」が入っているというなら、どちらも同じことです。
 
今の考古学の弱点は、古代人の心理状態や心理傾向の推理能力であり、古代人がどのような霊魂観、世界観をもち、具体的にどのような動作や挙動、言動をともなって、そのようなモノを残すに至ったのかを「洞察する力」です。

 

考古学者はあくまでもモノを通してしか語ることができません。

 

モノにこめられている情報をダイレクトに収集するのがサイコメトリーです。

 

これは、人の意識がノンローカルな性質をもってることを既成事実として、「いにしえを知る」ために利用可能な方法論であると私たちは考えています。


祭祀考古学という領域がありますが、祭祀というものは使用された道具からの推定だけでは再現できません。

 

 

 

 

なにより、祭祀を執り行う「こころ」を直接知ることは、通常の方法ではとても難しいことです。

 

祭祀に込められた思いや信仰の内容、動作、仕草、発声、呪文を、出土物から推定できてこそ意味が出てくるというものです。

 

考古学は遺跡から出土した「モノ」をして語らせる学問だといいますが、実際はモノを見た研究者が、それに類する前例を参照しながら推理、想像しているわけであり、それが巫師による透視より優っているという理由はありません。


これに対し、サイコメトリーの場合は、まさしく「モノ」それ自体が語り始めるのです。

 

巫師の場合は、故人の愛用物や遺品を手がかりに、その人物に関する情報を得たり、いわゆる「因縁物」の透視を行ったりすることは決して珍しくはありません。

 

物的証拠が見つかったときの遺物の用い方、宗教的祭祀の仕方の透視など、現代の考古学ではよく解明できていない部分を補完するために、巫師や特異能力者を情報源として使うという方法論は決して馬鹿げたことではないと考えています。

 

古代人の心理的側面、特に生活感情、宗教的感性などを探るには、超心理学的な手法も考慮に入れてみる価値はあるでしょう。

 

ただ、断っておきたいことは、透視やサイコメトリーは、あくまでも補完的役割にとどめるべきもので、それですべてが判断できるといっているわけではありません。

 

推論の手助けとして、研究者よりも豊かな「物語」を構成できる、と言っているのです。

 

というのも、遠い過去の出来事が透視で的中しているかどうかを確信を持って判断するだけの物的証拠がそろって出てくることは、むしろ稀なことです。

 

ゆえに、1つの仮説にとどめておくのが賢明です。

 

そうやって収集することのできた古代人の祭祀心理と霊的な感性の特徴について、当ブログでは歴史学、考古学の知見もしっかり踏まえながら述べていくことにします。

 

なお、このシリーズで書く記事には実際に現地を訪れて巫師の視点から「見えた」ことにもとづいていますが、加えて私たち一族に伝わる「伝承」、継承された祭祀・信仰も取り込んで考察していきます。

 

これをどう評価されるかは読者の皆さまにお任せいたします。


 

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