皆さま

 

 

私たち一族がこれまでに参拝したことのある神社仏閣の巡礼記録を公開いたします。これは個人的な目的でお参りに行ったものもあれば、仕事の関係で「巡礼の旅」をしたときの報告も含まれています。

 

特に掲載する順番に意味はありません。それに、必ずしも写真データがあるとは限りません。

 

なぜかというと、私たちは「お参り」「信仰」のために伺っているのであって、「映え」を狙って物見遊山に来ているのではないからです。代参の仕事の時には、現地に赴いた証拠として写真を撮り、御朱印、お納経をいただきます。

 

神様仏様に失礼のないようにお断りを入れて、参拝終了後に畏れながら写真を撮らせていただいております。

 

巫師の個人的な体験も含まれているので、「ちょっと変わった内容」になっています。あくまでも個人の主観的な見解、感想であることを最初にお断りしておきます。

 

 

國津比古命神社・櫛玉比賣命神社

 

 

 

 

ここは地元ということもあって、何度も参拝をしに行った神社の1つです。

いずれも延喜式内社であり、その場にたたずみ、たっぷりと時間をかけて拝み倒すことができます。

誰にも邪魔されずに、思う存分に参拝ができる神社は都市部では希ですね。

また、社務所で神社の由緒書もいただくことができたのは幸いでした。

ここは強烈なエネルギーにあふれた場所であり、帰宅してから発熱してしまったほどでした。

國津比古命神社よりも櫛玉比賣命神社のある場所の方が「いやしろ地」としての空気に溢れており、櫛玉比賣命神社の本殿よりも旧社、旧社よりもその裏の小山(前方後円墳跡)が強いエネルギーが出ています。

 

由緒

 当神社は応神天皇の御代(皇紀九三〇(西暦二七〇)~九七〇)に勅令を奉じ物部阿佐理命が風早の国造となり、その祖神天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほのあかりくしだまにぎはやひのみこと)及び宇摩志麻治命(うましまじのみこと)を國津比古命神社(くにつひこみこと)、妃神天道姫命(あめのみちひめのみこと)及び御炊屋姫命(みかしじやひめのみこと)を櫛玉比責命神社(くしだまひめのみこと)に奉齋せられ、公の崇敬厚く醍醐天皇の御代の延喜年間(皇紀一五六一(西暦九〇一)~一五八三)に編纂された延書式内神明帳に「風早郡二座國津比古命神社、櫛玉比賣命神社」とあり、当時の官国幣社に列せられた由緒深い古社です。

 中昔までは実に壮大な御構えの神社であったが、天正年間(皇紀二二三三~二二五二)度々の兵乱により廃頽し社殿宝物を焼失しましたが、河野家が社殿を建築した。寛保元年に松平隠岐守は、毎年代官をして参拝する制度を定められました。


 國津比古命神社は、初め「櫛玉饒速日尊神社」と称し、阿佐理命を合祀して現社名に、誉田別尊(応神天皇)を合祀し「頭日八幡宮」と改称しましたが、中御門天皇の亨保年中(皇紀二三七一-二三七六)に旧号に復しました。
                
 饒速日尊は、天照皇大神の御子天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の御長子で、大和に天降りこの地を中心として社会の開発に着手せられ、天孫の天下経営の大業に協力せられて大義名分を明らかにし天下統一に偉大な功績を顕されました。宇摩志麻治命は父命の御志を継がれて地方開発に御尽瘁せられたのです。このように御親子命ともに尊い神様で、殖産農工、除災招福の守神であらせられます。  
            
 櫛玉比賣命神社は、中古は祓座大明神(はらいにます)とも称せられましたが、後水尾天皇の寛永年間(皇紀二二七一~二二八九)に官命を受けて南方の小山の頂きより現在の地に奉還され、中御門天皇の亨保年中に旧号に復しました。 
           
 天道姫命は大国主命(大己貴命;おほなむち)の御子であられ、御炊屋姫命(登美夜毘責とも称す) は大和国鳥見の豪族の長髄彦(登美毘古;とみのびこ)の妹君で、宇摩志麻治命の母君にあらせられます。古来、地方豪族の氏神として代々崇敬せられ、明治二十九年に社格が「県社」(國津社)・「郷社」(櫛玉社)となりました。両社は夫婦仲良く向かい合ってお齋りされ、我々を護って下さっています。尚、櫛玉社拝殿前方の小山は前方後円墳の一部であります。

 

 

國津比古命神社

櫛玉比売命神社

 

 

このことから分かるように、ここは海を渡って伊予の地に流れてきた古代氏族物部氏の祭祀の拠点だったようです。

丘陵地の上、向かい合わせに国津比古命神社、櫛玉比売命神社の神殿があります。

各種の情報を総合してみると、軽島豊明朝臣物部阿佐利は、風早の国造となり、物部氏の祖饒速日命の妃である櫛玉比売命を祀りました。

物部、風早、越智の諸氏氏神として崇拝されたとあります。

 

祭の時には饒速日命を擁した神輿を神社の階段から投げ落とすという荒っぽい神事で知られます。

櫛玉比売命神社の旧社殿裏には竹林の小丘があり、その頂上に石碑が建っていました。

両社ともとても落ち着いた雰囲気ですけど、櫛玉比売命神社の裏丘にエネルギーの集積地点があるようです。

 


ここでサイコメトリーを実施しました。

 

サイコメトリー

サイコメトリー(Psychometry)とは、物体に残る人の残留思念を読み取る透視の一種です。サイコメトリーは、物体に触れることで、その物体にまつわる人物やできごとの情報を読み取ることです。

 

 

 

 

時代は不詳だが、現在の櫛玉比売命神社の裏丘は以前はもっと大きく広がっていて、その頂上にわらぶき屋根の高床式のやぐらのような祭祀場があった。この建物は吹きさらしで、壁はなく高床につながる階段が見え、床の上に皿に盛った供物を並べるようになっている。人一人が床の上に登るとやぐらが倒れてしまいそうな脆弱な感じの建物。周囲の集落に住んでいる人々は、この小丘を神と交信するための聖なる場所と見なしていた。人々はいつも天を仰ぎ見ていた。

祭祀場のスケッチ

 

 

ここでは、出産、病、死などにまつわる祭祀をシャーマンが執り行っていた。

 

 

一番強く感じるのは、族長や周辺集落の有力者やその家族が病に伏せると、これを癒すために村落の女性(娘)を捕らえてきて生贄にしたということである。たとえば、有力者が眼病を患うと、生贄の同じ目を潰して、祭祀場の床下に横たわらせ、逃亡しないように縄でくくって餓死させる。ときには子を思う親が娘の代わりに生贄となる事もあった。死体は放置され、骸が自然に分解していく風葬である。こうして何人もの女性がこの場所で生贄に捧げられている。

この丘のいたるところに横穴が掘られており,そこでも何らかの儀式が行われていたようだ。出産もこの横穴で行われたのかもしれない。
 

集落と集落の連絡のために,この建物には木片を何枚かつないだ縄がぶら下がっており,これを鳴らして合図を行った。電車の警報機のようなとても甲高く通る音が響き渡る。建物は見張りのやぐらとしても利用されたようだ。

族長や村の有力者が死ぬと、この丘の高い場所に死体をさらして、少しでも天に近いところで白骨化するのを待つ。

「天」が重要な意味を持つ葬送儀礼である。

櫛玉比売命神社の裏丘の竹林には天の気と地の気が上下から合流して渦を巻きながら1本の強烈なエナジーフローが伸びていっており、それは国津比古命神社の社殿の方向に流れている。

 

かつて国津比古命神社の社殿の裏には巨石があったのではないか。これに縄をグルグル巻いて、大勢の人々が車座に座り、岩を崇拝している姿が見える。岩に稲妻のような閃光がピカピカ走って反射している。

巨石祭祀のスケッチ

 

 

 

このサイコメトリーは、初めて当地を訪れた直後に実施したものであり、事前の知識をほとんど持ち合わせていない状態での過去透視の記録です。

まったくの行き当たりばったりの巡礼で、私たちは準備も何もしていませんでした。

このため、現場での証拠も見つけることができず、今後繰り返し現地調査を行わないと詳細は分かりません。


物部氏が巨石信仰と何らかの関わりがあるのではないかという見解もあります。参考文献(1)

 


学界の定説では巨石信仰は縄文時代に日本でも見られたアニミズムの一種であろうと言われています。

世界に目を向けてみても、巨石建造物が超自然的な力をもっているという考え方は、民間伝承によって支持されています。

巨石遺跡のある土地では、それらが水と結び付いて力をもつという言伝えがあり、大多数の伝説はそれらが死に関わるよりも、活力を生み出すものであることを示しているようです。参考文献(2)

縄文、弥生、古墳時代の祭祀遺跡にやがて社、祠が建てられ、神社として整備されていったケースは珍しくはありません。そこに仏教や修験が習合していって、聖地、霊場となった場所もあります。
 
この時は「物部氏」を鍵に巡礼を敢行したのですが、あらためて日本霊性の奥深さを見せつけられた格好になりました。

伊予の伝説によれば物部氏の一支族、物部阿佐理が伊予北条の地を定住拠点としたのが、現行の時代区分では弥生時代とされています。

当時の物部氏がどのような宗教的祭祀儀礼や宗教的感情を持っていたのかは、あまりにも資料が少なく憶測の域を出ません。

しかし、彼らが巨石信仰を持っていたとする資料と、サイコメトリーとの一致は無視できない気がします。

少なくとも、彼らは宇宙のエネルギー(気)の調節やその利用の仕方について知っており、現代人とは根本的に異なる感性で世界を見ていたのだと思われます。

生贄については人身御供・人柱を使ったということもありますし、縄文-弥生時代でも天変地異や疫病の流行などを神の怒りと考えて生贄を差し出すような風習もあったと考えられます。

 

 

 

 
その後、出雲でも生命エネルギーの転化を目的とした犠牲祭祀が行われていたことがサイコメトリーから推定されています。この点については、出雲地方の神社巡りの話でふれたいと思います。

参考文献

(1)    末久儀運 「物部氏の伝承と土佐物部氏」 南の風社,1998


(2)    大和岩雄 「神々の考古学」大和書房,1998
 


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